アパルトヘイトの南アフリカから「アフガン・イラク」を考える

  

                                武田 悠

 

○世界はどこへ向かうのか

 2001年9月11日の朝、アメリカを襲った同時多発テロはそれ以降の世界の様子を一変させたと指摘する人々がいる。アメリカは深い悲しみと強い憎しみを極限まで増幅させ、翌月にはテロの首謀者とされた人物をかくまうアフガニスタンへの空爆を開始した。多くの子どもたちを含む市民を犠牲にしながらも、アフガニスタンのタリバン政権を崩壊させることに成功したアメリカだったが、2003年3月には新たな標的への攻撃を始めた。国際社会への重大な脅威となる大量破壊兵器を廃棄・消滅させ、「独裁者・フセイン」の手からイラク国民を「解放」するイラク戦争である。当初の予想とは異なり、比較的短期でフセイン政権を打倒することにはなったが、主要な戦闘が終結したはずの現在でも、世界中のテレビや新聞は毎日のように、イラク国内で相次ぐ散発的な戦闘や自爆テロによって死傷した米軍をはじめとした駐留外国軍の兵士やイラクの人々のニュースを伝えている。

 日本では、いわゆる「イラク特措法」の成立を受け、第二次世界大戦の終結以降はじめて、事実上の戦闘地域への自衛隊派遣がおこなわれた。各地で反戦運動が粘り強く展開されているものの、多くの国民は沈黙を保ったままである。この「沈黙」の意味をめぐって、識者がさまざまな意見をたたかわせている。確かなことは、この沈黙がその真意を必ずしも反映しないまま、結果的に現在の日本政府の対応を肯定しているということである。

 力による秩序を振りかざし、一国行動主義を加速させる超大国アメリカとその追従者の影で、彼らが要求する「民主主義」や経済システムを受け入れない国や人々は、さまざまな口実によって追い詰められ、やがて絶望と恐怖にさらされることになる。そして世界中で、持たざる者、虐げられる者、家族を奪われた者の憎しみと悲しみの連鎖が無限につながっていく。私たち日本人も、そのことに決して無関係ではない。しかし、今世界を覆う暗澹(あんたん)たる状況にあって、一つの国が小さな灯火を暗闇の中で掲げている。南アフリカ共和国−おそらく誰もが一度は耳にしたことがある国である。

 

○南アフリカという国

 南アフリカ共和国(Republic of South Africa)はご存知のとおり、広大なアフリカ大陸の南端に位置し、金とダイヤモンドの産出地として有名である。多様な地形と気候を反映して多様な動植物を見ることができ、「野生の王国」でもある。国土面積は日本の約3.5倍だが、人口は約3分の1に過ぎない。また、歴史的には大航海時代に同国南端の「喜望峰」を回ってインドへ到達する航路が発見されたことにより、多くの冒険家が大いなる夢と野望を胸にこの喜望峰の沖を往来した。1年を通して過ごしやすい気候に恵まれたこの国には、ヨーロッパとインドを結ぶ航路の中継地として、早くから白人の入植者が住み着いた。そして、近年まで白人を優越人種とし、それ以外の有色人種を劣等人種として差別の対象とする人種隔離政策(アパルトヘイト)を取り続け、多くの数え切れない悲しみをとりわけ黒人たちにもたらしたという負の遺産も併せ持つ。

 2002年初夏(南アフリカでは初秋)、私はふとしたことから南アフリカにおける人権をめぐる現状について視察する機会を得て、総勢15名の自治体関係者による視察団の一員として1週間ほど同国を訪問することになった。限られた時間の中で、首都プレトリア、ヨハネスブルク、喜望峰があるケープタウンを移動し、アパルトヘイト時代につくられた黒人居留区、民間の障がい児施設やエイズ孤児を含む保育施設、ネルソン・マンデラ前大統領が20年近くにもわたって収監された監獄島、国会議事堂などを見て回り、各地で関係者との間で懇談を持った。もちろん、訪問先の現状はさまざまであったが、私たちがこれらに共通して感じた思いがある。それは、困難な状況にあってなお、未来に向かって希望を持って生きようとする黒人たちのひたむきさや強さである。しかし、彼らの現在がいかにすさまじい苦痛の上にあるのかを知らなければ、その本当の意義・意味を理解することはできないに違いない。

 

○アパルトヘイト時代

 南アフリカにおいては、アパルトヘイト以前にも黒人たちは白人による搾取に苦しめられていた。1948年に白人政党が政権を樹立し築いたアパルトヘイト(人種隔離政策)は、白人の他人種に対する優越性を認め、白人以外の人種の人権を著しく軽視するものであっため、国際社会から大きな非難を浴びることになった。それでも、1989年に大統領に就任したデクラーク(白人)がアパルトヘイト撤廃を進めるまで、白人政権は世界から孤立してこの制度を長く続け、反政府運動を厳しく弾圧してきた。アパルトヘイトをめぐっては、もちろん、さまざまな悲劇や苦しみが数え切れないほど繰り返されたわけだが、ここでは南アフリカ視察後の報告書に寄せた拙文の一部をご紹介したい。ちなみに、以下に出てくる「ロベン島」はその歴史的経過から、「世界遺産」に指定されている。

 

 

 反アパルトヘイトの不屈の闘士、ネルソン・マンデラの名は世界に知られている。ロベン島はその彼が自由を奪われ、18年間を過ごした土地でもある。同島は、かつて島全体が刑務所という「監獄島」であった。(中略)ロベン島は常にケープタウンから臨むことができるが、高速双胴船でも約30分の道のりである。

 島に着くと、私たちは刑務所の入口に歩いて向かった。かつて、多くの囚人たちがこれからの刑務所生活を思い、重苦しい気持ちでたどったであろうその道を、である。刑務所の入口には屈強そうな、しかし穏やかな眼差しを来訪者一人ひとりに注ぐ黒人の大男が待っていた。ガイドのラーニー氏である。氏は自らも政治犯として18年間、この刑務所に収容され、マンデラ氏とも接触を持った経歴を持つ。彼は私たちを刑務所内に招き入れ、静かに、しかしかつて実際にそこに暮らした者でなくては語り得ぬ臨場感をもって語り始めた。刑務所内での規則、家族や友人との接見の様子、マンデラ氏たち黒人指導者の刑務所での生活ぶり。黒人指導者とその他の収容者の接触は禁じられていたが、食事作りを担当していた囚人が、食事を運ぶ際に鍋の底に手紙をしのばせ、こっそりと指導者たちとの連絡係を果たしていたことなど、数々のエピソードも尽きない。ラーニー氏は他の刑務所にいたときに、看守に自分の排泄物や池のドブ水を飲み食いさせられたこともあるという。ロベン島でも非人間的な扱いは日常的であった。マンデラ氏には14年間、ベッドも与えられなかった。人間としての誇りをじわじわと崩壊させ、果てのない恐怖と絶望に追い込み、抵抗する気力を失った者にさえ容赦ない暴力を加える。建物を出て、金網の向こうに無機質な監視塔がそびえるのを見たとき、背筋が寒くなるのを感じた。(以下、略)

 

 

 私たちが訪れたヨハネスブルク郊外の大規模な黒人居留区(山手線の内側ほどの広さに450万人が居住。小学校が178、ハイスクールが90ある)の中には、アパルトヘイトを記録するつい最近建設された真新しい資料館があり、多くの人々が訪れていた。その入口には、高さ2メートルにも及ぶと思われる大きな白黒の写真パネルが飾られている。写真中央の17〜18才くらいと思われる黒人少年、そのすぐ横にそれよりもやや小さな黒人の少女が、ともに手前側に小走りに走ってくる様子が写っていた。二人は泣いているのか、顔を苦しげにゆがめている。少年は二人よりもさらに幼い黒人の少年を腕に抱えている。幼い少年は抱きかかえられたまま、手足や頭をぐったりとさせ、目はしっかりと閉じられている。少年の名前はヘクター・ピーターソン、13才である。1976年6月16日、当時の白人政権はそれまでの英語に替わってアフリカーンス語(オランダ系の初期移民の言葉が変化したもので、白人が用いていた言語)を公用語として公教育の現場に押し付けようとしたことに、黒人居留区の中学生たちが抗議に立ち上がった。鎮圧にあたった白人警官隊は形ばかりの警告の後、子どもたちに向けて発砲したため、黒人たちの大きな蜂起へと発展し、多数の犠牲者を生むこととなった。この最初の犠牲者とされるのが写真のヘクター少年であり、傍らの少女は彼の実姉である。彼女は今も健在で、この写真パネル近くにある前述のアパルトヘイト資料館でスタッフとして働いている。私たちはほんのわずかではあるが、運良く彼女とも会うことができた。写真パネルの中で慟哭する少女は、26年の歳月を経て、屈託のない笑顔を私たちに向けて、大きな体を揺らし足早に立ち去っていった。

 

○南アフリカの壮大な「実験」

 これまでにご紹介したものは、もちろん、アパルトヘイトの実態を伝えるほんの一部分に過ぎない。アパルトヘイトは奴隷貿易が盛んにおこなわれた前世紀の話ではない。第二次世界大戦終結後に始まり、つい近年まで続いた「現代の悪夢」なのである。強大な権力を持つものが他者に対して弾圧や虐殺をおこなった場合、一旦その立場を失うと、逆に自らが弾圧や虐殺の対象になることが多いことは歴史の真実である。私はカンボジアにも2回ほど訪れているが、貧困が引き金となり洗脳されてクメール・ルージュ(ポルポト派。自国民であるカンボジア人の大量虐殺をおこなった)の一員になった年端も行かない10代半ばの少年たちでさえ、人々の激しい憎悪の対象となって内戦終結後、多くが処刑された。

 南アフリカは、民主化が実現し、黒人中心の政権が発足した今でも、黒人・白人の仕事の格差、所得平均の差は依然として大きく縮まらない。40%とも50%ともいわれる国内の高い失業率、HIV/AIDS感染の増大、凶悪犯罪などの増加・・。この国をとりまく課題は数え上げればきりがない。しかし、この国の多くの人は決して誇りと希望を失わない。彼らにとって、12月16日は特別な記念日である。その日は、「和解の日」(Reconciliation Day)と呼ばれている。1994年に全民族が参加した総選挙によって、黒人を中心とした民主政府が樹立され、ネルソン・マンデラが同国で始めて黒人大統領として就任した。マンデラは、白人たちに対する憎しみを捨て、「和解」と「寛容」を持って臨むように全国民に訴えた。そして、彼の政権は権力的に白人から財産を奪うことはなかった。国民の多くもこの方針を支持した。

アパルトヘイト時代におけるマンデラ自身の受難の一部は、すでにご紹介したとおりである。彼は、ロベン島で過ごした18年間のうち、14年間はベッドが与えられず、コンクリートの床に直接寝かされていた。ロベン島はケープタウン沖にぽつんと浮かぶ小さな島であり、周囲にさえぎるものはなにもない。我々が訪れた日も強い風が吹いていた。南極に最も近いアフリカの最南端である。夏はともかく、冬ともなれば、我々の想像を絶する過酷な環境であったであろう。その彼や同様の体験を持つ黒人指導者たちをして、白人への憎悪を捨て、和解と寛容の精神を国の復興の柱としたのである。真の人種的融和が実現することを固く信じて。

私は、2年前のあの日、喜望峰にその足で立った時のことを思い出している。大西洋とインド洋という二つの巨大な海が私の目の前でぶつかっているのだ。そして、この海は五大陸を包むすべての海とつながっている。南アフリカの想いが、この白い波しぶきに乗って、世界中のすみずみに運ばれていくことを強く願う。

 

 

●写真

 1)ネルソン・マンデラが収容されていた独房の写真

 2)ピーター・ヘクターソンの写真パネル

 3)民間障がい児施設で撮った集合写真(現地スタッフや子どもたちと)

情報センター通信 第24号 2004.3.22発行