情報センター通信第13号
2001年5月31日発行


町田市環境基本計画・専門部会作業を終えて
〜試される行政の「市民参加」のホンキ度〜

武田  悠

■はじめに
『もしもおまえが
枯れ葉ってなんの役に立つの?ときいたなら
わたしは答えるだろう、
枯れ葉は病んだ土を肥やすんだと。
おまえはきく、
冬はなぜ必要なの?
するとわたしは答えるだろう、
新しい葉を生み出すためさと。
おまえはきく、
葉っぱはなんであんなに緑なの?と
そこでわたしは答える、
なぜって、やつらは命の力にあふれているからだ。
おまえがまたきく、
夏が終わらなきゃならないわけは?と
わたしは答える、
葉っぱどもがみな死んでいけるようにさ。』
(「今日は死ぬのにもってこいの日」ナンシー・ウッド著/めるくまーる発行 より抜粋)

これは、アメリカの厳しい大自然に生きる、名もないネイティブ・アメリカン、つまり「インディアン」たちが著者に語ったことばを詩の形にまとめたものの一編である。少し長いが、全文を紹介させていただいた。「環境」や「自然保護」という言葉を、一時の流行のごとくもてあそぶかの現在のニッポンに、重く静かに、そして優しく語りかけてくるように思えるからだ。
私の手元には、資料で大きく膨らんだ一冊のファイルがある。2000年11月27日から2001年3月23日までの9回にわたる「町田市環境基本計画・循環型社会検討部会」の記録である。私が部会の一員としてこの仕事をするようになったのは、全くの偶然に過ぎなかった。計画策定を担当する市のセクションが、市民公募と並行して部会メンバーを全庁的に公募していることを知り、専門的な知識などほとんどないのに、自治体の重要施策であることも手伝って「勉強になれば」という軽はずみな動機で思わず手を挙げてしまったのである。環境問題に関する小論文まで提出して応募者の中から選抜された市民公募の皆さんの熱意を考えると、まったく赤面の限りである。とはいえ、自分なりにこれまで培ってきた行政経験や知識を多少なりとも生かして、部会の検討作業に貢献しようと決意し、それなりにはがんばってきたつもりである。検討結果については近い将来、「環境基本計画書」という形で世に出ることになるし、内容も他自治体と比較して決して低い水準にはならないだろう。しかし、今回の市民参加の不十分さを思うとき、出来上がった計画への全市民的な共感と理解を必ずしも獲得することができないのではないか、という気持ちもある。決して、行政側の努力を過小評価するのではない。むしろ、心情としては逆である。そうであるがゆえに、今回の市民参加の教訓を生かし、今後の道しるべとしてほしいと強く願う。そのような期待をこめて、本稿では検討内容の詳細というよりは、「市民参加」という視点から活動の様子を少しご紹介したい。
■「環境基本計画」って?
町田市環境基本計画は、町田市環境基本条例(平成13年7月1日施行)が定める「基本理念」に基づく環境施策を総合的・計画的に推進していくために、市が策定するものである。基本理念は、1)良好な環境および環境権の確保と将来への継承 2)生物多様性を含めた自然環境および歴史的文化的環境の保全・回復 3)循環型社会を基調とした、環境への負荷の少ない持続的発展が可能なまちの構築 4)すべての活動における地球環境保全の積極的な推進、といったものである。町田市環境基本条例の中で、「市長は、環境基本計画の策定にあたっては、あらかじめ事業者および市民等の意見を反映させるための必要な措置を講ずるとともに(以下略)」と規定しており、これに基づいて今回の市民参加での計画づくりが(ごく限定的ではあるが)実現したというわけである。
市の担当セクションが描く環境基本計画の青写真は、行政の計画ということもあり、いささかの皮肉を込めれば、全体の構成は他自治体と同様にすばらしく均整がとれたものとなっている。すなわち、「序章」では計画の概要、計画の指標、町田市における現状と課題、というように続き、「基本計画」では町田市においてめざすべき環境施策の総論、施策体系別計画、計画推進に向けたしくみや取り組み、そして最後に実際の行動計画となる「環境行動指針」で結ばれる。
今回の市民参加は、こうした「青写真」がすでに出来上がり、しかも2002年3月の環境基本計画書完成に向けた行政主導の作業スケジュールがびっしりと組まれた中で、冒頭にご紹介したようなきわめて短期間での取り組みとなり、しかもその策定手法(最終的な計画の書式)も詳細に至るまで規定され、しかも前述の環境基本計画の中の一部「施策体系別計画」だけに限定されておこなわれたことになる。
■最初の「つまづき」
 今回の作業に参加したのは、市民23名、市職員30名の合計53名である。市職員は前述したとおり全庁的に公募したので、環境行政に関わる職場の者(現役・OB)もいれば(もちろん直接、環境基本計画策定を担当するセクションではない)、全く違う分野の職場の者もいる。前述の「環境基本条例」に示された基本理念に対応する形で、「自然環境部会」「生活環境部会」「ごみ対策部会」「循環型社会部会」の4グループに分かれて検討することになった。
 4つの部会には、それぞれ進行役を務める部会長、副部会長が1名ずつおかれたが、これらの合計8名はすべて市職員があらかじめ指定されていた。第1回の4部会合同会議の席上、市民公募委員の一人から、正・副部会長の片方は市民公募委員から出しても良いのではないか、という意見が出された。市の担当セクションの責任者はこの理由について、正・副部会長には煩雑な部会の検討内容の整理、検討作業の進行管理に加えて他部会との連絡・調整といった仕事があり、市民公募委員にお願いすることは適当ではないと判断した、と説明した。ここではそれ以上の議論にはならなかったが、おそらく多くの市民公募委員、そして市職員の委員の中にも釈然としないものが残ったに違いない。
■あたらしくて古い?「公共意識」の芽生え
なぜ、そのように行政側が考えたのかは理解できる。多忙な市民が自分の自由時間を割いて、ボランティアで自分たち行政の計画づくりに協力してくれる、市民に余計な負担はかけられない、そんなイメージを抱いたに違いない。前半部分はおおまかにいってそのとおりだろう。しかし、「ボランティアで」以降は、多くの市民委員側の意識としては少し違うのではないか。道路を歩いているとき、落ちている空き缶を拾ってごみ箱へ捨てる人をあまり「ボランティア」とはいわない。べつに、そのようにしなくて非難されることも、しても特別に賞賛されることもないのに、である。それでもつい拾ってしまうのは、道端に転がっている一つの空き缶の存在が、どこかで個としての自分自身につながっていることを無意識に感じているのだろう。道徳的な意味で語られる「公共心」とも少し違う気がする。もっとよりよい自分(の状態)でありたい、と思う本能が社会的に昇華したというべきだろうか。いずれにしても、これまで地方自治体の仕事にあまり関心を向けず、お役所まかせだった人々の意識が「空き缶拾い」から、さらに少しずつ進化しているのではないか。今回の市民委員の応募動機にも、危機的といわれる環境問題がどこかで個としての自分自身の存亡と決定的につながっている、という意識(あるいは無意識)が自然に働いているのではないか。それを「ボランティア」と表現するのは場違いのように思えてしかたがない。そうした人々にとって、行政がつくる計画は「行政のためだけの」計画などでは決してなく、個としての自分に大きく跳ね返ってくる自分自身の問題でもあるのだ。行政にとって都合の良い「ボランティア」から、対等の「公民パートナーシップ(協働)」へ。環境行政以外にもさまざまな分野でその胎動は始まっている。前述の担当セクション責任者の言葉は、行政がこうした市民意識の変化にいかに鈍感であるかを如実に示しているかのようである。
■検討作業における市民参加の実態
実際の検討作業に立ち会う市民とは、もちろん市民公募委員とそれに傍聴者である。私は自分の所属する部会しか参加していないので、他部会の様子はわからないが、まず市民公募委員について報告したい。
私の部会でも市職員の委員よりも市民公募委員の方が若干人数が少なく、市職員のほうでは正・副部会長をはじめ、市民が十分発言することができるように配慮や遠慮をすることが多かったように思う。しかし、検討が進むにつれてある程度、気心も知れるようになり、次第にある程度、対等に議論を展開することも増えてきた。しかし、気になることもあった。市民参加の重要性を十分認識していないのではないか、と思わざるを得ない市職員の委員(若手もベテランも)の発言に出くわしたときである。市民参加の意義や市民の持つ顕在的・潜在的能力を過小評価し、市民の意見に「耳を傾けながら」も、行政の側に最終的な決定権があるのだ、というような雰囲気を感じたのである。
 今回は、環境基本条例や環境基本計画をテーマとした独自のホームページをネット上に開設したが、これは町田市としてはあたらしい取り組みであり、情報提供の手段として一応は評価できる。しかし、実際に専門部会が開催される会場に傍聴にいく市民にとって、本当に開かれたものになっていたか、という点には傍聴ルールに同意した自分自身の姿勢に対する自戒を含めて、問題なしとすることができない。もちろん、会議の運営上、必要な規制は理解できる。しかし、もっと大事なことは「参加」のチャンネルを絞り込むことではなく、むしろ逆に、より多くの人に多様な参加形態をどのように準備することができるかではないか。わざわざ会場に足を運び、傍聴してくれる市民に、例えば本人が希望するならば、時間を定めた上で意見表明する機会をつくってもよかったのではないか。
■ さいごに
行政は公器であり、不偏不党の立場が要求される。またかつて、市民団体と行政の間には例えば公害行政をめぐる激しい確執と憎悪が存在したこともあった。行政は不偏不党の立場を守るため、また自己防衛のために、一番大切な一般市民の声から耳をふさぎ、口をつぐみ、目をそらそうとしてきた側面がある。市民も強い「お客さま」意識から脱却できずに、自分たちで工夫すればできることも行政に要求を繰りかえし、「お役所まかせ」体質を強化してきた。
しかし、もはやそうした不幸な季節は過ぎた。2つの世紀をまたいで参加した今回の環境基本計画づくりの過程で、あらためて新時代の自治体運営が市民と行政職員のパートナーシップ(協働)によってのみ、諸課題に立ち向かい、困難を切りひらいていくことができることを確認できた気がするのである。

おまえはきく、
冬はなぜ必要なの?
するとわたしは答えるだろう、
新しい葉を生み出すためさと。