センター通信第19号(2002.11.30発行)


特別寄稿「追悼 三輪啓さん」
みんなの心のなかに

本谷 勲

 7月に行われた「偲ぶ会」は三輪さんの遺書によるものだということを、その時知った。「三輪がどんな人間だったか論評してほしい」とあったそうだ。私にはこれは小さくはない驚きだった。おそらく遺書で偲ぶ会の開催を求めた例はあまりないだろう。私の印象とはうらはらに三輪さんは人好きなんだなとつくづく感じ入った。
 その会の締めくくりの挨拶で、大橋光雄さんは天国からの三輪さんの言葉なるものを紹介して閉会の言葉とした。これは三輪さんの意図に対するうまい切り返しであった。三輪さんは死後の世界を信じていなかったと思う。だからこそ偲ぶ会を遺書に要望したのだろう。死後の世界を信じるなら現世の人に要求など要らないはずだ。
 私は70代の半ばを越えた。この歳にまでなると多勢の友人・知人の死を経験している。その中でいつも心を離れないのは、私より年下の人の死である。第二の人生を楽しみにしていた後輩の定年を迎えた春のガン死、研究に油が乗って展望が開けた30代に心臓発作で亡くなった助手、自分の道を見出だしかけた20代の終わりに脳溢血で亡くなった卒業生、結婚して子が生まれた時点でガンで亡くなった卒業生等々、どの一人一人にも人生でこれからという抱負があったはずであった。みんな口惜しかったであろう。その思いが生き長らえている者の心に突き刺さる。
 三輪さんの死に対してどういうわけか年下の人への死と同じ拘りがあった。
 何故だろうか。
 それは三輪さんがやりたいことを一杯抱えていたからではないか、と思う。環境汚染への告発、汚染発生者への、また、住民の苦しみに鈍感な行政への怒り。それを三輪さんは脇に置いておけなかった。どうすれば汚染の事実を彼等に納得させるか。あれこれの汚染の証拠さがしの相談を何度受けただろう。いま、動いている「どぜう(泥鰌=土壌)の会」という町田市の土壌、地下水の調査活動のNGOも三輪さんの前々からの土壌汚染必至の予想から始まった。
 去年、転んで調子を崩す直前、三輪さんの依頼で調布市の小学校に「土壌中のムシ探し」という実習授業にお供したことがあった。5つの班に分かれて近所の農家の畑から持ってきた土を机の上に広げ、ムシ探しをしたがオイソレとは見つからない。その時の三輪さんの心配そうな面持ちは先生以上だった。1つの班でやっと1匹のミミズが見つかり、トビムシ、キセルガイ・・・と次々に発見があった。その時の三輪さんの喜びようは子供達以上だった。
 また、栃木県に本物の解体業者見学について行ったこともある。そこはすべて人手でテレビや洗濯機、冷蔵庫などをていねいに解体しているところだった。本当の廃棄物処理とはこれだ、と感心したのだが、三輪さんがどうしてその業者を知ったのか。その往復の途上で汚水処理場を見学しなければ、と三輪さんは言った。
 三輪さんにはやることが一杯あった。

 三輪さんが亡くなってから日が浅いということもあるだろう。三輪さんとよく落ち合った山崎団地の西側の道を毎月のように通るからでもあろう。三輪さんだったらこの問題にどう対処するか、三輪さんだったらこんな解決策じゃ満足しないな、などと心の中の三輪さんと問答を重ねることがしばしばある。今のところ「そんなにこき使うなんて身わ保たねえ」などと苦情を仰しゃる気配はない。