センター通信第17号
2002.5.26発行


9.11と日本の現在

-------ダグラス・ラミス氏の講演をきいて-------

                                                                      澤田 由里子

 

 

世界を震撼させた9月11日のテロから半年がたった。ワールド・トレード・センタービルの倒壊後の処理も大方終了し、アメリカ人の中にも、あのテロを少し遠くから眺めて、ジョークにしたりする余裕がでてきたという。たとえば、自分の部屋が散らかって乱雑だと、「グラウンド・ゼロ(爆心地)だ」とか、姿を消した友人について「あいつは、ビンラディンのようだ」とかいった冗談が流行っているという。しかし、当然のことながら、まさに今、私たちは、今後の世界の行方を左右する重大な岐路に立たされている。アフガン問題やパレスチナ問題が長期化し、しかも緊迫の度を増す一方で、国内では、自衛隊の派兵や有事法制がらみの憲法改正問題が現実味をおびはじめている。はじめるのは簡単な戦争、しかし、戦争をどのように終結させるのか?私たちは世界のために何ができるのか?

このような情況の中で、ラミス氏が9.11について語るというタイムリーな講演会が町田市によって企画された。ラミス氏の経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社)を読んで、大変感銘を受け、また、渋谷で行われたアフガンへの空爆反対デモにラミス氏が参加した、という新聞記事を目にしていた私は、学者にとどまらず活動家でもある彼の人柄に共感していたので、この講演会には大変興味を持って出席した。

ダグラス・ラミス氏は、316日に町田中央図書館(6Fホール)にて行われた講演会で、なぜ9月11日からテロが「犯罪」ではなく「戦争」として扱われるようになったのか、その理由を解き明かし、また、日本国憲法第9条をなぜ守る必要があるのか、私たち日本人にとっての意義をわかりやすく説明してくれた。以下、ラミス氏の公演内容を私なりにまとめてみた。

 

 

これまでテロは犯罪として扱われており、裁判にかけなければテロリストを裁けなかった。しかし、9月11日以降は、テロに対する「戦争」だということにされ、タリバーン政権からの宣戦布告もないまま、一方的に「戦争」がはじまってしまった。「戦争」では、アメリカにとって容疑者と思われるものは、裁判にかけられることも取り調べられることもなく、また証拠がなくても、効率的に殺すことができるのである。例えば、背が高い、尊敬されているようだ、人が集まっている、ということだけで、ミサイルが打ち込まれる。こうしたやり方ですでに農民など多くの無関係な人々が殺されていった。「戦争」状態だから、「犯罪」を裁くために必要な裁判や証拠、立証など法的な拘束に縛られることなく、アメリカにとって都合の悪い相手を、効率よく大量に殺害することができるのである。今回のアフガンへの空爆は、国際法を無視しているからいけないというだけではない。問題は、その行為が先例となり、国際法の原理をくつがえしてしまうほどの大事件であるということである。事実、戦争が始まった時点では、オサマ・ビンラディンの容疑の証拠をアメリカは持っていなかった。

ところで、私たちは新聞のニュースを注意して読む必要がある。マスコミは、読者が過去の記事を忘れることを前提にして新たな記事を書くからである。ブッシュは最初、テロに対する戦争を始めた。しかし、途中で、戦争の相手をアフガニスタンに替えざるをえなかった。なぜなら、テロが相手だと、従来の伝統的な軍事戦略は無効になるからである。一つの民族でない、領土もない、政府もない相手とは、平和条約も結べない。勝利のありえない戦争だから相手を途中で替えざるをえなかった。それではなぜ、アメリカはタリバーンと戦うのか?タリバーンはオサマ・ビンラディンを渡さないからというのがアメリカ側の理由であるが、パキスタンのタリバーン政府筋は、「ビンラディンであるという証拠を見せない限り渡せない。ただし、中立なイスラム教の国で裁判するなら渡す」、と答えていた。話し合いの姿勢で臨んでおり、どう考えても、タリバーン側には、戦争をする気はなく、また用意もしていなかったことがわかる。

テロリズムに対する戦争は今も続いている。アメリカは、次は、イラクやシリア、リビア、フィリピン、ソマリア、そしてアルカイダとは全く関係のない朝鮮民主主義人民共和国にも攻撃しようと考えている。ブッシュの演説からも明らかなように、このアフガニスタンの戦争は21世紀最初の戦争であると位置づけられている。これは、次なる戦争の模範となるということであり、これから先も戦争があり続けることを宣言しているのである。

キューバのグアンタナモ米軍基地に収容されているアルカイダの捕虜を、アメリカ側はジュネーブ協定で定められている「捕虜」としては認めず、また「犯罪」容疑者としても扱っていない。彼らの人権など無視して、外国人のテロリストとして特別軍事法廷で、死刑にすることだけを考えている。アメリカ側の証人の多くはスパイなので、被告には証人も、証拠も、資料も示されることはない。まさにカフカの「容疑者」の世界であり、いったん入るとそこには出口がない。

9.11のテロの直後、アメリカは有事体制に突入した。海外で人を逮捕したり、またそのために軍を送ったりする。まさに戒厳令下にある。アメリカの市民権を持っている人は、普通の裁判を受けられるが、それ以外の世界の人々は、軍事法廷で裁かれることになる。日本には米軍基地が数多くあり、日本の政府や国会がどう判断しようと、日本も有事体制下にあるわけである。

今回、タリバーンは海軍や空軍をもっていなかったために、後方支援の自衛隊が攻撃されずにすんだ。しかし、このまま日本がアメリカを支援し続け、アメリカが北朝鮮を攻撃するようになった場合、日本は、北朝鮮からの報復を避けられない。

ブッシュはテロリストをイーヴル(evil)と決め付ける。イーヴル(邪悪)とは最初から人に危害を加え傷つけるために存在し、改心などしないので、絶滅すべき対象とされるのである。まさにホロコーストと同じで、人種差別に極めてよく似ている。しかし、テロリストは「犯罪者」なのであるから、「犯罪者」として裁くべきである。

アメリカ合衆国はいまや全世界を支配しようとしている。ソ連が崩壊したので、実際、今にも実現できそうである。しかし、アメリカ国民はその事実から逃げている。アメリカ人は自分でやった負の部分を直視することができない。「投射」をして、私じゃない、あの人がやった、と現実から逃げている。まさにテロリストは、アメリカの影なのである。大量破壊兵器を持ち、実際に、核爆弾を投下し空襲をするアメリカに対し、アメリカ人は罪悪感をもっているので、投射した相手を次から次へと殺す。しかし、影はなくなるどころか、拡大する一方である。

さて、日本国憲法第9条には希望や理想が書かれているのか? 今回、自衛隊は法的には戦闘員として、戦後初めて海外へと送られた。そこで問題になったのは憲法第9条であるが、これは希望や理想などではなく、実定法であり、国民から政府に向けた命令である。そもそも、日本国憲法第1条から40条までは政府の権利や権限を減らしたり、なくしたりするための国民からの政府宛ての命令が書かれている。第41条になって初めて、政府は国民から税金を徴収してもよい、という政府が国民に対してしてもよいことが書かれている。

第9条の交戦権の放棄についてであるが、交戦権がなくても自衛のためなら戦ってもよい、などとこの解釈については日本では様々に意見が分かれているのが現実である。しかし、国際法ではそもそも侵略戦争は犯罪であるので、日本国憲法第9条の交戦権がないということは、戦争をする権利がない、すなわち軍事行動はできない、戦争で人を殺す権利がないということであり、他の解釈はありえない。

今回自衛隊は、国連軍のPKO活動としてではなく、米軍として戦争に参加することになった。周辺事態法、ガイドラインなど、後方支援ができるように法改正が行われているが、それでもやはり、日本国憲法第9条があるために自衛隊が武器を使えるのは、刑法第36条・37条に抵触しない場合だけである。すなわち、正当防衛の場合と逃げることができなかった場合のみである。日本政府は自衛隊の安全など保障しないという条件で自衛隊を派遣しているのである。極めて過酷な労働条件で自衛隊を送っており、もし仮に、戦闘状態になり、自衛隊が相手を殺した場合、法的に見るならば、殺人罪で逮捕されることもありうるわけである。実際には、日本政府は、殺人とみなさず、無罪放免とすることは、状況からして自明であるが、そうなれば、交戦権がないということを崩したことになり、それは日本国憲法第9条がなくなることを意味する。これは時間の問題である。

米軍の後方支援として、日本の給油艦や援助艦が送られた。直接戦う要員ではないから戦闘員ではないと主張しても、公海であるインド洋では日本の法律ではなく、国際法が有効である。すなわち、ニュルンベルク裁判での判例では、第2次大戦中のイギリスの貨物船が、武器を持っていたため、非戦闘員ではなくなり、ドイツ側は、その件においては無罪となった。軍服を着用し、軍組織であり、訓練も受けている日本人が、給油艦に乗っている。日本が戦闘員ではないといくら主張しても国際法では戦闘員であるとみなされ、相手に攻撃されても反論できない状況にあるわけである。

 

 

ラミス氏の話を聴くうちに、私は、日本が意図せず緊迫した只中にいることを実感し、暗い気持ちになった。町田市西部にある我が家の目の前には世界有数の米軍補給廠があり、北朝鮮とアメリカが戦争になれば、まっさきに狙われるターゲットであるかもしれない。今後、どうしたらよいのか、先が見えず、暗澹としてきた私たちにラミス氏は一言。「まだ自分がしたことがないことをやってみよう。それは他人の企画した平和集会にでることではない。たとえば、今日講演に集まった130人の人が一斉に、新聞社に電話をしたり、手紙を書いたりすることもできる。同じ日に130通もの手紙や電話が殺到することは、大手新聞社としてもあまりないことである。こうして、われわれが世論を変えていくこともできる。」沈鬱な話を聞いた後に、未来が開ける感じがした。しかし、それは自分自身で開けなければならないのだと。どうしても聴くだけで終わってしまう安易な私に、ラミス氏は貴重な助言を与えてくれたと感謝している。

その後の状況は、ラミス氏の講演の時よりもさらに悪化している。アメリカは多国間との協調路線を嫌い、再び単独行動主義の道を歩みつつある。地球温暖化防止のための京都議定書からの離脱に続いて、ブッシュは国際刑事裁判所(ICC)設立条約の署名を撤回した。個人の戦争犯罪責任を問うICCにおいて自国の兵士が裁かれることへの反発からであるといわれる。ジェニン国連調査団が解散される一方、アメリカ議会はイスラエル支援を表明した。このような中で、日本はアメリカのご機嫌ばかりを窺っているかのように、まずは有事法制関連三法案を通過させようとしている。しかしそれは、日本国民だけではなく、世界の人々をも危険に陥れる結果となりはしないだろうか。アメリカの戦争に日本がまきこまれる恐れはないか、という懸念が沸き起こるだけではない。平和が続くことを前提に入隊した現在の自衛隊員にそもそも効果的な戦闘ができるのかという疑問がある。実際、スレブレニツァでは国連保護軍オランダ部隊の非力のゆえに、住民を守るどころか、目前で起こっているムスリム(スラブ系イスラム教徒)に対する虐殺を防ぐことができずに撤退するという大失態が明らかにされた。兵力も経験もともに不足している自衛隊が海外に渡って責任ある支援ができるのであろうか。ラミス氏の警告する「時間の問題」ということにならぬよう、私たちにできることからひとつでも実行に移すべきときである。