情報センター通信第14号
2001.8.31発行


「小山田無公害宣言」:反省と創造

小山田環境対策連絡協議会副代表

広瀬立成          

● 里山で何がおこっているか
  町田駅や多摩センター駅からバスで30分たらず、町田市の北部に下小山田を中心とした里山がある。ここは丹沢や高尾などの山々と都心との中間に位置し、ナラ、クヌギなどの雑木に覆われたゆるやかな丘陵、田園、小川など、のんびりした自然景観が広がっており、休日にはピクニック客の訪問も多い。だがすべてのものには光と影があるように、小山田周辺にも、光をさえぎる暗雲が忍びよっている。半世紀にわたるごみの埋め立てや焼却によって環境の汚染が進み、ぜんそく・発疹・頭痛・発熱など、体の不調を訴える住民が増えつつあるからだ。人口密度の少ない里山にごみ処理施設を集中させ、規制を越えたダイオキシンや化学物質を排出することは、いまや全国の多くの市町村において共通して見られる状況である。人間への影響はもちろん、動植物をふくむ種の保全の観点から見ても、今後、取り返しのつかない重大な事態を招くことが予想される。

● だまされた住民
  小山田住民が抱くゴミ問題への思いは、ゴミ処理施設から遠く離れ、直接の被害から隔離されている人々の関心とは多くの点で差違がある。このことを理解するために、半世紀近くにわたるゴミの一極集中について、その歴史を振り返ってみることにしよう。
  1950年代、地元の土地所有者は、小山田の環境改善と将来の発展を考えて、日本住宅公団に28万4000坪という広大な土地を売却した。しかし、市はその団地建設を放棄し、こともあろうに、8万3000坪もの土地を清掃工場建設に利用してしまった。用地買収当時は8千戸から1万戸の団地が計画されていたが、最終的には1740戸に激減し、そのかわりゴミ処理施設ができてしまったのである。こうして、市側の不誠実な対応に対して「だまされた」という気持ちが広く住民に浸透し、行政への不信感が深く根付くことになった。このような心情は、今日においても決して消え去ったわけではない。
  1960年代から70年代にかけてのゴミ投棄は、まったく目を覆うばかりのすさまじさであった。産業廃棄物、生ゴミ、不燃物が何の選別もなく投棄され、中には危険な農薬なども含まれていた。地下からは頻繁に有毒ガスが吹きあげ、時には発火して燃えあがることもあり、そのつど消防車が出動した。ゴミ捨て場と化した広大な谷間には悪臭がたちこめ、大量の蠅が発生して周辺の家々に飛び込んだ。空にはカラスの大群が飛び交っており、食い散らかした食物を住宅地に所かまわずばらまいていた。有害物質により土壌が汚染され、低地の田畑では、稲などを含む野菜が正常に生育することができず多大な被害を被った。そこで、市当局は、該当する田畑を借り上げハスを植栽した。優雅な花を咲かせ市民の目を楽しませているハス田には、このような恐るべき環境汚染による地域住民の犠牲の歴史が刻み込まれているのである。1968年には、焼却炉が一基完成したが、もくもくと黒煙が吹きあがり、その煤煙のために、周辺の住宅地では洗濯物を干すこともできなかった。さらに、これに追い打ちをかけるように、1973年からは、町田市焼却炉から3キロという至近距離で多摩市清掃工場が稼動をはじめた。

● 長期微量・複合汚染
  1982年に完成したリサイクル文化センターには焼却炉が3基設置され、30万人が排出する210トン/日のゴミを処理することとなった。本来、住民にとって、ゴミ処理施設は迷惑施設であり決して歓迎すべきものではなかったが、それ以前のあまりにも劣悪な環境に苦しめらてきた住民は、この施設をありがたい施設として受け入れざるを得なかった。こうして、住民の複雑な心情をよそに、下小山田におけるゴミの一極集中が根付くこととなった。
  当時の環境基準にはほとんど法的規制はなく、有害物質の排出量は、今日の基準をはるかに上回るものであった。たとえば、1994年、2号炉からは、180ng-TEQ/m3、1995年、3号炉からは、163ng-TEQ/m3という莫大な量のダイオキシンが排出されている。これは、今日では、施設の休廃止をふくむ緊急対策をとるべき値、80ng-TEQ/m3を2倍以上も上回っており、きわめて危険な毒性をもたらすものである。1997年には、ダイオキシン濃度が都下ワースト2となった。この時の排出量48ng/m3は、現在の新炉建設の基準値(ドイツの一般基準値)の480倍にも相当する。水に溶けないダイオキシン類は、今なお小山田周辺に潜んでいるはずである。下小山田と多摩の両施設からの有害物質にさらされるなかで、住民が「長期微量・複合汚染」による健康被害を受けつづけていたことは疑う余地がない。

● 住民無視のごみ行政
  日本はいま、年々増加の一途をたどるごみの発生に対して、ごみの事後処理のみを考えるのではどうにもならないところに追いつめられている。小山田環境対策連絡協議会は、この困難な現状から一時的に逃避するのではなく、ごみの発生そのものを抑制することこそもっとも重要で緊急を要する対策だと考え、平成12年9月、『小山田無公害宣言』を提言した。ごみ問題に対する下小山田地域住民の願いは、下に示す「小山田無公害宣言」の4項目に要約されているが、究極的には、煙突なき清掃工場の実現を目指すものである。ごみによる環境汚染は地域を越えて進行することを考えると、町田市民全員が汚染防止への取り組みを一刻も早く開始することを強く訴えたい。
  最後に、われわれがこれまでの活動を通じて痛感したことにふれておきたい。それは、町田の行政が市民との対話をまったく拒否し、住民無視のごみ行政を強引に進めていることである。このことは、2年間をかけて、町田市廃棄物減量等推進審議会が心血を注いで作りあげた答申を無視したまま、環境基本計画が、わずか3ヶ月という駆け足審議でまとめられてしまったことにもあらわれている。本来、ごみ処理のありかたは、その地域の町づくりにかかわる課題のひとつであり、その意味で、住民と行政はたがいに協力しつつ検討すべき課題である。すでに、三鷹市をはじめ日本各地の環境先進都市では、ごみ問題をふくむ町づくりの諸課題が市民参加のもとに検討され、解決への展望を開きつつある。かって、市民参加の先駆的なモデルとして評価の高かった町田市は、どこへいってしまったのだろうか。町田市が、これまでのごみ処理のありかたを真摯に反省し、豊かな自然を舞台とした「持続可能な社会」の創造に向けて一日も早く脱皮することを夢見つつ筆をおきたい。

小山田無公害宣言

1.すべてのゴミ処理施設の計画に当たっては、その施設周辺住民の生命と健康の完全な保証を前提とすること。既存施設に関しても、周辺住民の健康調査を早急に実施するとともに、住民と専門家を交えた周辺の有害物汚染状況の信頼ある調査と評価を行い、力を合わせて早期に「無公害小山田」の実施を図ること。

2.町田市廃棄物減量等推進審議会の答申(平成12年1月24日)にある「発生抑制」及び「燃やさない、埋めない」を基礎とした市のゴミ対策の具体的な将来計画を策定し、「煙突なき清掃工場の町田市」の実現を目指すとともに、その計画の中で廃プラスチック処理施設のあり方も明確に位置付けること。

3.ゴミ処理施設を市内に分散設置することは、リスクの公平な負担という民主主義の基本に基づいても当然のことであり、現状のような施設周辺住民の犠牲を前提とし、経済効率のみを重視するような一極集中処理体制は早期に改め、適切な分散化を図ること。

4.ゴミ行政が将来の町づくりに重要な役割を担うものであることを認識し、常に市民への情報開示を積極的に進めることは勿論、すべて計画作りの段階から市民と行政の好ましい協力関係を作り上げることに意を注ぎ、一方的な方針や計画の押しつけは行わないこと。

広瀬立成
194-0202 町田市下小山田町389-5
連絡先:0426-77-2514、東京都立大学理学研究科物理学科
八王子市南大沢1-1