深 淵
砂時計の砂が落ちる間
一銭の価値
偶然と必然
記録

砂時計の砂が落ちる間
カップラーメン,ウルトラマンのカラータイマー,キューピー3分間クッキング。 本当は3分ではなくても,「3分」と言えば必ずというくらい認知度が高い。 キリが良い単位とは思えない「3分」,でもよく使われるこの時間は長い?短い? ただ「3分」と聞くと短い時間だと思うけど...,砂時計を眺めてたら,結構長かった。

急いでいる時,3分の違いはかなり大きい。 たった電車1本の違いだけど無理やり山手線に乗る人はきっとそう思ってる。 余裕がある朝だったら,3分をあせることはない。 そして乗った満員電車の3分はかなりつらい。 ヒマな時,何度時計を見ても,針は1分もすすんでなかったりする。 終業時間を待つだけの3分は長い。 でも時計なんて見てる時間が惜しいほど忙しい時,3分なんてないのと同じ。 ロスタイムが3分あったら...逆転もある? ボクシング1R,あっさり決着がつくかもしれない。 開演3分前じゃ,トイレは我慢しようと思う。 でもドラマのコマーシャルの間にトイレに行こうと思う。 そういえば,15秒のコマーシャルなら12本も見られる。でも飽きるなぁ。 中学の時,体育の時間に3分で制服から体操服に着替える練習をさせられた。 あり得ないと思ったけど,できた。

そういえば 岩井俊二広末涼子と3分のショートフィルム作らなかったっけ?

好きな人と話す3分なんて,あっという間。 嫌いな人とだったら3分なんて永遠...。 好きな人とならたった3分でも会えたらうれしい。 嫌いな人には,3分足りとも割きたくない。
あと3分の命を突然宣告されたら,きっと何もできずに終わる。 自分であと3分と決めた余命なら,ゆっくりと落ちついた時間かも知れない。
そもそもどうして3分なのか? カップラーメンにしても,3分間クッキングにしても, 「3分」と聞いた時のその「手軽さ」とか「速い」という印象を利用したものだと思う。 「三日坊主」とか「早起きは三文の得」とか,「3」=「ちょっと」ってことでしょ? これが「五日」だったり,「五文」だったりしたら,「5」っていう数字が単位としてあたりまえにキリが良くて, 機能的で効果がないんじゃないかな?5,10,15,20...とリズムも良いし。 だから「3」という数字の「キリが悪い」不調和感がもっと小さい単位として際立っているんだと思う。 ちょっとした知覚の違いで,たった3分間が気軽さもなく,とても長く,気が重い時間になる。 3分間を自分でコントロールできるとき,というかできると思ったとき, たった3分でもきっと妥当な時間だと思えると思う。自分のコントロールを失ったときは 短すぎたり長くなったりするのでしょう。わがままだな〜。

ちなみに井の頭線各駅停車の電車が永福町で急行電車を待ち合わせる時間3分はやっぱり長いと思う。

1銭の価値
くだらない人やモノに腹を立てて、「1銭の価値もない」なんて言うけれど、その価値ってどれほどなのでしょう? この場合はゼロに等しいということだろうけど,今は貨幣価値が変ってしまって、1銭なんて見たこともないし, 知識として分かっていても,その価値に対する感覚は全然わからない。 とりあえず今の最小単位1円に置換えたところで、やっぱり大したことない価値か,と思ってしまう。 さらにその100分の1なんて。では,どのくらいなら価値アリと感じるのでしょう。

買い物したときのお釣りの1円や、きっちり1円単位までの割り勘は鬱陶しいし、1円が道に落ちていても拾わない。 1円単位まできっちりもらったり、拾おうとしていることがちょっと恥ずかしかったり、 1円を拾うための立ち座りにかかる運動量は1円以上だ、なんて根拠のない損得勘定をしたりもする。 でも、全然大したことない1円と思っても、199円って言われると、たった1円なのに200円じゃないという だけでお得感が高まるし、「他店より1円でも高ければ、お申し出ください。」っていう店があるくらい、 1円で勝負だってできる。それに例え1円でも落ちているお金を見てみぬフリするのはなかなか心苦しい。 財布の中の1円玉を使いきった時は爽快だし,反対にその1円がなかったために、お釣の小銭がジャラジャラ お財布に入ることになることだって。ということは,1円だって,かなりありがたい価値だったりする?

アメリカでは、1,2セントを自動的にまけてくれていた気がする。 例えば合計$19.01がレジではじかれた時。小銭がなくて、$20紙幣で支払うと、お釣は¢99! なんてことはなく、$1紙幣が戻ってきた。レジの脇にちょこっと小銭がプールしてあって、そこから足して レジにはちゃんと全額が収まるように。(そのお金はどこからくるのか...。忘れたり、 受け取らなかったお釣りかな?) 1度や2度ではなかった気がするので、ただのラッキーとは違うと思う。 ¢1,¢2なんて全然大した金額ではないし(でも$1=\120としても,¢1は\1より若干高いが)、 こんな大げさに語ってしまうほどのことでもないけれど、なんだかうれしい気がしたもんだ。 やっぱり,大したことないと思っても,結構価値アリ? 実際、お釣を¢99渡す方がきっと面倒くさいのかも知れない。小切手で支払う人も多いし,なおさらかも。
しかし同じ最小単位の扱いでも、日本ではきっちり1円まで取られてしまう。 こうして比べて,日本ってケチって思うなら,やっぱり\1にかなりの価値を感じてると思いませんか?
ところで、1ドルの100分の1が1・・・セント、1円の100分の1が1銭(・・せん)。 100を表す単位の「セント」と、「せん」の響きが似ているのって、フシギだと思ってしまいました。 偶然同じ音、100分の1。「メリケン粉」「ミシン」と同じ、実は外来語だったりするのでしょうか。

「ビタ1文やらん」とか「1文の得にもならん」とか「1文ナシ」って言うけど, 1文はどうやら1銭と同じ価値であったりするらしい。なのに1文を使った方がもっとゼロに近い気がするな。

偶然と必然
通勤電車で、学生時代の友達に「ばったり」あったり,宝くじが「まぐれ」で当たったり・・・etc といった「偶然」って誰もが経験したことがあると思うが, その「偶然」っていうことはどういうことだろうか?

例えば,学生時代の友達が, 「同じ電車の,同じ時刻の,同じ車両に乗っている」ことを知っていたなら, それは偶然と呼べるのだろうか?

いや,”起こりうる全ての事象を把握していれば”,誰も偶然って思わないだろう。 「神=すべての事象を知っている存在」なら,神にはすべてが「必然」で「偶然」は起こらないってことかな。 でも,「必然」でも,「偶然」でも,主観から離れると,”同じ事象が起こっている”んだよね。これって不思議な 感じがしませんか。

ちょっと前に,クローン羊(ドリーだったか?)が騒がれたとき,「神の領域を侵す」とよく耳にしたけど、 それはただ、その原理を「知らなかった」だけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。また、神の領域はそん なことぐらいで簡単に小さくなるとも思えない。知らないことは,もっともっとたくさんあるはず。 (ここでの問題はむしろ,倫理や哲学の進歩と科学の進歩との違いが原因のような気がしているが・・・・。)

ところで,すべてのことを知ろうとしているせいか,最近は”情報”を収集・分析することなどが 多い。日々の生活で,必要な情報っていうのは少ないと思うのに,すべてを知ろうとしてやまない。 でも、実際に,すべての情報が自分に入ってきたら,処理するだけで一日が終わってしまう 情報過多の状態になってしまう。だから,きっと「神」はつまらないだろう。

ということは,「偶然」っていうのは「楽しいものだ」ということかな。
記録
先日,引越しを機にDVD&HDD録画できる機器を買いました。 録画は色々なビットレートで保存でき,再生も,ボタン一つでどこからでも直ぐに見ることができます。 でも,ビデオデッキを処分したので,昔,録画したビデオは再生できません。

前にMDプレイヤーを購入したときには,カセットテープデッキを処分したので 聞くことができなくなりまりた。
パソコンだって,CDやDVDが読めても,5インチディスクを読むことができなくなりまた。

つまり,記憶量・記録時間など圧倒的に増えたのだけど,実質的な保存期間(耐用年数)が非常に 短い状況になっているのです。

随分前の記録媒体としては,主に石や紙・木などが使われていました。そして,それらへの記録は,膨大な労力・時間をかけて 行われていたため,不便な点も多かったでしょう。でも,機械で読み直す必要なく,直接肉眼で見え,大事に保存すれば 永久的にみることが可能で,その点では非常に優れていると言えます。(なにせ何千年前の記録が今でも見えるのですから。)

どの記録媒体がいいのかは状況によるでしょうが,とりあえず,デジカメで取った映像は,なるべく写真(紙)にしよう。

昔の他の記録媒体としては,人が人へ引き継ぐ「伝説」や「口伝」,「昔話」とった類があると思う。 この方法も,長い間記録可能であるが,人が記録するがために,複写ミス,誤認など様々なエラーが発生しやすく,正確に 伝わらない場合もある。でも,先人の残したものであり,たとえ誤差が大きくても, そこから得られるものもあり将来に引き継ぐ価値は大きいと思う。


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