古 憧
夢を書き綴った閑人古拙微笑
短歌からみた夢七仏通戒偈
初心はいくつある?
笑而不答
継ぐもの

夢を書き綴った閑人
誰しも夢を見ることがあるが,それを書き綴った人は少ないと思う。 ましてや,19才から60才の時までの約40年間も自分が見た夢を書物に書き残した人は稀であろう。 華厳宗の高僧であった明恵上人(1173−1232)は, 夢を毎日のように書き続けたらしいのです。 (その記録は「夢記」という書物に残っています。) きっと現代的に言えば「アーティスト」だったのでしょう。 夢とは直接関係ないが,彼の童心のころの歌が非常に アーティストらしく,また好きな歌でもあります。

「あかあかや あかあかあかや 
                       あかあかや あかあかあかや あかあかや月」



短歌からみた夢
昔の夢はいつも恋愛の夢だったのでしょうか? 仕官になる夢や立身出世する夢などあまり詠まなかったのでしょうね。 でも、これほど楽しい夢もないし、これほどつらい夢もないかもしれない。

夢の逢は 苦しかりけり覚きて かき探れども手にも触れねど

「夢のなかで逢うのは、こんなにもつらいものか。 目が覚めてからたぐり寄せようとしても、あなたに触れることはできない。 」
大伴家持

住江の 岸に寄る浪夜さへや 夢の通い路人目よくらむ

「住江の岸に寄る浪のように、あなたのそばに行きたいけど、 人目を避けようとするあなたは夢の通い路さえ通らないのではないのですか。」
藤原敏行


すべもなき 片恋をすとこのころに 我が死ぬべきは夢に見えきや

「片想いで私が死にそうになっている姿はあなたの夢に見えますか?」
作者未詳

夢に見て 衣を取り着装ふ間に 妹が使ひそ先立ちにける

「あなたの夢を見たので、服を着てそっちへ行こうとしているところに、 あなたの使いが先に来てしまった。」
作者未詳

思ひつつ 寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらしを

「夢に出てきたのはあたたを想いながら眠ったせいだろうか。 夢と知っていたなら目を覚まさなかったのに。」
小野小町

*意味は適当なところがあります。


初心はいくつある?
”初心忘るべからず”とは,やりはじめた時の新鮮な気持ちや志を忘れるなといった意味ですが, 世阿弥(1363〜1443)が記した”初心”とはニアンスが違いそうです。 (その記録は「花鏡」という書物に残っています。)世阿弥は次のように言っています。

初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。
是非初心忘るべからず。 時々初心忘るべからず。 老後初心忘るべからず。
この三、よくよく口伝すべし。

<訳>
“是非の初心”:最初に学んだ長所や欠点、若い頃の失敗をしっかり覚えていると後々の役に立つので忘れるな
“時々の初心”:若年、壮年、老後に至るまで、その時その時の初心を忘れるな
“老後の初心”:それぞれの段階で学んできても、最後の集大成を迎えるために初心は忘れるな

したがって,世阿弥の言葉は,「良いこと,悪いことを反芻して,高度な次元に昇華するようにすること」 と厳しく言っているようにも感じます。このように思うと,標語として軽々しく使えなくなるかも・・・。

笑而不答
”笑って答えず”という答え方は,人に何かを訊ねられ答えたくないとき あるいは都合の悪いときに,代用することが多いと思う。ちょうど 「ご想像にお任せします」 という意味に近い。でも李白(701〜762)の 「山中問答」という詩を読むと,充実感・満足感が十分伝わってきて気持ちがよいですね。

余に問う何の意ぞ,碧山に棲むは
笑って答えず,心自ずから閑なり
桃花流水,よう然として去る
別に天地の人間(じんかん)に非ざるなり

なぜこんな山奥に棲んでいるのか訊ねられても,私はただ黙って笑っているが, 心はなんとも言えず清清しい。桃の花びらはずーと遠くに水面を流れてゆく。 ここは人里離れた別世界である。

*相変わらず意味は適当なところがあります。また よう然の「よう」は穴という字の下に目という字がくるのですが私の パソコンでは変換できませんでした。(涙)

継ぐもの
ちょっと前だと思うのですが,テレビから「一子相伝で受け継がれた芸を・・・」 「正統な後継者・・・・」などという台詞をが聞こえてきました。 もし世阿弥(1363〜1443)がこの台詞を聞いたら,きっとびっくりするに違いない。 彼の能楽の著書「風姿花伝」の第七 別紙口伝には次のような一節がある。

家家にあらず,続くをもて家とす。
人人にあらず,知るをもて人とす。

つまり,芸の道は血縁によって継がれるのでなく,芸の技量で継がれるべきだという言葉である。 名を大事にするあまり,肝心な芸が疎かになるのは見ていて楽しいものではないですね。

実際に,世阿弥の言葉とは裏腹に,能楽,歌舞伎,花,茶などいまでも多くは家元制 の芸能は非常に多く,世阿弥の「家」を実践しているかどうか疑わしいものもあると思う。 本来の「家」の姿をしているものとしては,家元制を止めた囲碁や将棋であろう。 芸能では評価がわかりにくい部分があるけど,囲碁と将棋は明確な結果が出るため,血縁だけといった 甘さはもつことが出来なかったためでしょうけど。

古拙微笑
人は,笑い方一つで随分印象が違うと思う。 選挙のたびに思うのだが,政治家は醜悪な笑いの代表者だろう。

一方,飛鳥時代に作られた釈迦三尊や百済観音といった仏像の笑顔は, 「古拙微笑」(アルカイックスマイル)と呼ばれ,多くの人を魅了している。 微かに綻んだ唇,一見,冷たいようだがすべてを包み込むような眼差しは, この世の喜びも,苦しみも,悲しみもすべて受け止めてくれそうです。

まぁ,普段,そんな笑いをされたら,気味悪いかもしれないが。

七仏通戒偈
亜米利加の無秩序な攻撃に反発して,伊拉克で無差別テロという無益な行為が続いている。 自然死以外で人が死ぬというニュースを見るたびに,何がいいのか,何が悪いのかわかならくなる。 でも,そのたびに釈尊の教えを思い出します。

諸悪莫作 衆善奉行
自浄其意 是諸仏教

諸諸の悪をやめ,多くの善を行い,自らの心を清らかにすることが,仏教の教えである。

せめて,この程度は実践したい感じがしますね。

*いつもならが意味は適当なところがあります。また,本来の仏教が,”道徳的”である ということではありません。多分,本格的な修行をするためには,最低限,七仏通戒偈を守り,心を澄まして 落ち着かせないということでしょう。



Last Modified: