人間の思考とコンピュータ



コンピュータは、大きく分けてふたつの存在がある。ひとつは、人間が何か作業をする上で使うコンピュータであり、もうひとつは、コンピュータに人間的な思考を持たせ、コンピュータ自らが、これからすべき行動を決定するというものである。

前者は、コンピュータを道具として利用している。つまり、人間が行うべき、あるいは人間が得意とする作業は人間がやり、コンピュータのほうが効率のよい作業をコンピュータに行わせるという使い方である。現在では、もっぱらこのような用途でコンピュータが利用されている。言うなれば、人間とコンピュータの役割分担がある。

後者は、コンピュータに人間的な思考を行わせようとするものである。このような研究も盛んに行われているが、いまだ人間と会話ができるようなコンピュータは登場していない。また、個人的意見としても、実現するのは遠い先か、あるいは不可能とさえ思う。

近年では、チェスやオセロの、人間とコンピュータの対戦で、コンピュータが勝つようになった。これは、単にアルゴリズムの改良によるものなのだろうか? 比較的、局面の限られたチェスやオセロだから勝てたのだろうか? もちろん、それらは要因になっているだろう。しかし、その道の名人が、次の手を先読みする思考がコンピュータに劣っているとも考えにくい。むしろ、空間的思考は、人間のほうが優れているはずである。それでは、なぜ人間が負けるのだろうか。人間にはミスをすることがあるからだろうか? それでは、そもそもミスとは何なのか?

人間は、緊張、プレッシャー、あせり、パニック状態などによって、本来は正常に行える思考に狂いが生じることがある。それは、しばしば人間の欠点とされるが、逆に言えば、それが人間らしいとも解釈できる。「人間らしさ」という観点で考えると、たとえばコンピュータが苦笑したり、恥ずかしがったり、退屈がったりしたら、かなり人間的な思考を持っていると言えるかもしれない。

間違いを起こさない、処理の正確なコンピュータは、先に挙げた前者のコンピュータであり、思考の狂いによって予期せぬ行動をするのは、後者のコンピュータという分類ができるだろう。

コンピュータはまた、エンターテインメントの道具としても利用される。

一時、携帯用の電子ペットが大流行した。ディスプレイ上の生き物が、おなかをすかせたり、便をしたり、わがままを言ったりと、さも本物の生物のように活動している。それをいかにも人間が世話をしているというシチュエーションを作り上げることによって、爆発的な人気を呼んだ。

コンピュータゲームでは、育成型シミュレーションゲームや、恋愛ゲームがブームとなっている。これらも、プレイヤーが選択したコマンドによって、画面上の人物がさまざまな反応を示すという点で、電子ペットに似た性質を持っている。

少しでもプログラミングの経験があったり、コンピュータの動作のしくみについての知識があれば、どれも条件分岐と数値の上げ下げによって内部で処理されてゲームが進んでいくものであることは容易に想像がつく。休息をとらなかったために病気になってしまったり、仲が悪かったために異性にふられる、といった画面上での状況は、内部の変数の値によって条件分岐させ、あらかじめプログラミングされた処理を行った結果でしかない。それ以外にあるとしたら、せいぜいランダム要素を加えるくらいであろう。これは、コンピュータが自ら思考して、人間の行動に反応したということにはならない。

このように考えると、ゲームは大変つまらないものである、という結論になるのだろうか? たとえば、コンピュータが描画する画像や、コンピュータが奏でる演奏も、もとは数値データである。これは、「単なる数字の羅列だから何の感動もしない」のだろうか? 少なくとも私の答えはノーである。事実、コンピュータグラフィックスは、紙に描いた作品同様に鑑賞に堪えうるものであるし、コンピュータミュージックも、一般の音楽に用いられているほど浸透している。また、コンピュータゲームも多くの人に受け入れられている。

ではなぜ数値の上げ下げが楽しいのか、という話になる。確かに、内部ではそのような処理がされている。だが、ゲームをプレイする者は、たとえ知っていても、そのようなことを考えて遊ぶわけではないし、制作者もなるべくその部分を隠そうとする。

コンピュータは、内部の処理と出力されたものとは、全く異なった形態をしている。一方で人間は、コンピュータの性質を知っていても、感情移入したりする。わざわざお互いの内面を見せ合う必要はないのだ。コンピュータが出力するものが、人間にとって意味のあるものであるし、また人間は、コンピュータによって出力されたシチュエーションに一喜一憂する。ポイントとなるのは、出力のしかたであると思う。

現在のコンピュータは、やはり道具としてのコンピュータという存在であり、コンピュータと人間のつきあいかたは、表面的なものであると私は思う。はたして、自ら思考するコンピュータが現れたら、人間はコンピュータと、どうつきあっていけばよいのだろうか。私には想像もできない。


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