日本語って難しい




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【はじめに】

インターネットで、誰もが気軽に発言できる場が増えたからか、疑問に感じる日本語の表現をよく見かけるようになりました。わざと誤った使い方をしているのか、間違っていても気にしていないだけなのか、知らなくて間違えているのか、いろいろなケースがありそうですが、いずれにしても日本語の乱れが目立つようになったと感じています。もしかしたら、書き直すことが困難なサービスが増えたからかもしれません。

さて、「誤用」では、よく見る表現で、それはおかしいのではないかと思うものを挙げました。「疑問」は、その言葉を使う上で疑問に思っていることを書きました。「私の主義と迷い」では、自分の頭にある方針や、決めかねて迷っていることを載せています。これは、私が勝手に思って実行していることを書いただけなので、別に従う必要はありませんし、納得してもらいたいわけでもありません。

なお、常用漢字の音訓外という言葉が出てきますが、「常用漢字表の音訓として認められていない漢字の読み」ということです。また、全角や半角といった言葉は正確ではありませんが、便宜的に使用しています。


【誤用】

話し
「〜の話」と書くところを、「〜の話し」と書かれていることがある。「話」という字を名詞として使うときには、「し」は必要ない。「話している」や「話しましょう」などの場合は、動詞の「話す」から活用して「し」がついている。「話し合う」「話し方」「話し声」なども、動詞で使っているので、「し」が必要。

謙譲語として「お話しした」と書くとき、「お話した」にしてしまいがちだが、謙譲語は「お+動詞+する」なので、「お話しした」となる。「ママ、お話して」のように、名詞として「お話」を使う場合は「し」を重ねない。

そのとうり
「そのとうり」「〜のとうり」という言葉をたまに見かけるが、間違っている。漢字で書けば「その通り」だから、「とおり」が正しい。迷ったら、漢字を当てはめてみたり、少し違った表現にしたりすると、正しい書き方がわかることがよくある。

どおりで
「ああ、どうりでうまくいかなかったわけだ」というような書き方は正しい。ここを「どおりで」と書くのは誤りである。漢字では「道理で」と書くことから、「どうり」が正しいことがわかる。

もしかしたら、これと混同して、「そのとうり」という間違いをしてしまうのだろうか。たとえば、「言葉どおりにやってみました」というのを「言葉どうり」と書いてしまうというのは、ありがちな気がする。

見ずらい
「づ」と「ず」は、しばしば混同される。「見る」+「辛い」という考え方ができれば、間違うことはないはず。

以外に
「意外」を使うべきところに「以外」と書かれた文が非常に多い。誤変換が原因だということは容易に想像できるが、それに気づけないという意識の低さに問題がある。個人的に、この言葉だけは絶対に間違えたくない。

足り無い
「無い」という言葉は、形容詞や形容動詞の連用形であれば、「無い」と書いても問題ない。たとえば、無理に書くとしたら「楽しく無い」などが当てはまる。しかし、動詞や助動詞の未然形で使われる「ない」は、漢字では書かない。なんでもかんでも、「ない」を「無い」と書くのは、やめたほうがいい。

短かすぎる
「短い」に「か」は書かない。「短すぎる」と書いた場合、なんとなくおかしな感じがするかもしれないが、「短かすぎる」と書くほうがおかしい。「手短」も同じく、「か」は必要ない。

いちよう
「いちおう」の意味で「いちよう」と書くのは間違っている。「いちよう」は漢字で「一様」と書き、「どれも同じようである様子」という意味を持つ。「いちおう」は、漢字では「一応」と書き、「ひとまず」「とりあえず」といった意味がある。

脳がない
「〜するしか脳がない」という使い方は、本当にそういう脳みそしかないのならともかく、通常は「能がない」と書く。「能なし」という言葉もあるように、能力的な問題でこの言葉を使用するのなら、「脳」は不適当である。

役不足
実力に対して役が軽くて、不満であることを意味する。つまり、もっと上の役を要求している。ところが、「とんでもない。私では役不足です」など、逆の意味だと思って使っているケースがよくある。

では、どんな言葉を使えばよいか。「力不足」が妥当なところだろうか。「役者不足」を挙げる人もいるが、この言葉が本当に対義語になるのかは怪しい。「役者不足」という言葉からは、単に役者の数が足らないのを想像してしまう。役者の力量が足りない意味で使われるのであれば、辞書でそのような解説がされていてもおかしくないのに、広辞苑にも大辞林にも載っていない。もっとも、「力不足」も載っていないのだけれど、こちらはそのままの意味なので、説明するまでもないということか。

ハードディスク内臓
「内蔵」を「内臓」と書いたものを、何度も何度も見てきた。コンピュータ用語をよく使うのであれば、「内蔵」を第一候補にしておいたほうが無難である。

?。 !。
疑問符や感嘆符の後ろに句点は必要ない。「!」や「?」の、下の点の部分に句点の意味が入っているのではないかと思うのだが、この解釈が正しいのかどうかは調べていない。

汚名挽回
正しくは汚名返上。挽回を使うのは「名誉挽回」で、混同しやすい。これは、書き言葉よりも、話し言葉で間違えやすいと思う。

確信犯
悪いことだとわかっていながら罪を犯すことではない。正しくは、道徳的、宗教的、政治的な確信に基づいて行われる犯罪のこと。当人に、悪いことをしている意識はない。むしろ、正しいという信念に基づいて行動を起こしている。うかつに使わないほうがいい言葉だ。

触角、触覚
昆虫に生えている、長いひげのような感覚器官のことを「触角」といい、物に触れたかどうかを知る感覚のことを「触覚」という。もちろん、触角には触覚の役割があるが、その器官自体のことを触覚とは呼ばない。

痛む、傷む
「痛む」と「傷む」の使い分けができていない文章をよく見る。「痛む」は、肉体的、あるいは精神的な苦痛を伴うときに使う。「傷む」は、傷がつくことや、腐ったり悪くなったりするときに使う。そう考えれば、痛がらないものに対して、「水が痛む」「果物が痛む」のように使うのはおかしいことに気づく。

体の一部に対して、全部「痛む」を使うわけではない。髪の状態が悪くなったときは「傷む」を使う。また、爪も痛覚はないので、爪がボロボロになるような状態は「爪が傷む」と書く。

魔法陣、魔方陣
「魔法陣」は、魔法や魔術を使うときに出現する、円や星の形で構成された図形のこと。「魔方陣」は、縦横斜めに並べられた数字の合計が、いずれも同じになるもののこと。間違いに気づきにくいので注意したい。

うっとおしい
「うっとおしい」ではなく「うっとうしい」。漢字では「鬱陶しい」と書く。「陶器」の「陶」なので、「とう」が正しい。ちなみに、「まちどうしい」は誤りで、「まちどおしい」となる。漢字を使うと「待ち遠しい」。漢字から連想すれば、どちらが正しいか迷うことはなくなる。

分かれる、別れる
「別れる」と書くのは、簡潔に言えば、さよならするときだけ。「二手にわかれる」「意見がわかれる」などは、バイバイするわけではないから「分かれる」を使う。

【疑問】

メモリは開放か解放か
「開放」は、制限なく自由に利用できるという意味で、場所を対象に使われることが多い。「解放」は、束縛から解き放たれるという意味で、人に対してよく使われる。さて、メモリはどちらだろうか。メモリは、人というよりは場所であるし、ほかから自由に使えるようにするという観点からすると、「開放」が合っている気がする。メモリの立場になって考えれば「解放」かもしれないが。プログラミング言語では、releaseやfreeという言葉がよく使われ、これを日本語にすると「解放」になる。ただ、freeは「開放」の意味もありそうだ。ちなみに、「開放」を英語にするとopenだ。……話がややこしくなっただけで、結論が出ない。

そういう
「そうゆう」なんていうのを見たら、私はかなり気分を悪くするのだが、 国語辞典に俗語として「ゆう(言う)」が載っている時代だから立場が悪い。わざとだとか、会話文でどうしても必要ということなら、それでもかまわないのだが。

気を遣う
「遣う」という漢字を用いるのは、「小遣い」「無駄遣い」「心遣い」「気遣い」「仮名遣い」などがある。「気を使う」と「気を遣う」のどちらにしたらいいかを考えると、「気遣い」から考えて、私は「気を遣う」にしたい。しかし、国語辞典によっては、「使う」に統一している場合もある。ちなみに、広辞苑も「使う」だった。

カタカナ用語
元が英語などの単語をカタカナにした言葉は、表記が統一されていない。「コンピュータ」と「コンピューター」は、前者を使う傾向にあるが、たとえば「インターフェイス」「インタフェース」「インターフェース」などは、どれもよく目にする。これは、伸ばすか伸ばさないか、「ー」か「イ」か、という問題であるようだ。

伸ばす伸ばさないについては、あいまいであるように思う。「インタフェース」と書くのに「インタネット」と書くケースが極端に少ないのはなぜか。最後にある「ー」を省略する傾向にあるのは、どういう理由からなのだろう。

「ー」か「イ」かの問題は、かなりおもしろい。問題になるのは、英語で[ei]の発音になる箇所だ。「メーン」「メイン」、「メール」「メイル」、「プレーン」「プレイン」など、該当する単語は数多い。

なお、「メッセイジ」「パッケイジ」という表記を見たことがあるが、英語で[ei]となるわけでもないので、何を基準に「イ」にしているのか謎である。なんにせよ、カタカナ表記には決まりを作って、書き方が統一されるのを私は望んでいる。人によって単語の書き方が違うというのは、言葉の電子化が進むこの時代には、何のメリットももたらさない。

この問題から解放されたいからなのか、英語で書いてしまえという人もたまにいる。「scannerに付属していたapplicationをinstallしようとしたのですが、どうやらhard diskの空き容量が足らないらしいので、使わないapplicationをuninstallしました。それでinstallはできたのですが、今度はmemoryが足らないのか、fileのloadが非常に遅くて…」とかいう文章なのだが、これはあまりに読みにくいし、見た目にも違和感がある。

特に正式名称などで定まっていない限り、私は「ヴ」を使わないが、一般的にはどうなのだろう。「ヴ」を使う人は、英語の発音で[v]になるときを基準にしていると思われる。だが、この規則に従うと、私にとっては気持ち悪い単語が現れる。たとえば、「サーヴィス」「サーヴァ」「アドヴェンチャー」「ヴォリューム」「ヴァレー」「ヴォランティア」と、なんだか吐き気がしそうだ。しかし「ヴァイオリン」などはわりと一般的に使われる。さて、どうしたものか。

全然
「全然」の後ろには打ち消しの言葉が来るはずである。が、最近の国語辞典には、俗語として「とても」という意味も載っていた。間違った使われ方が広まって「とても」という意味ができたように思うのだが、これは時代の流れなのだろうか。ちなみに、昭和41年の国語辞典には「必ず下に打ち消しの語をともなう」と書いてあった。さらにもっと前には、全然が肯定の意味で使われていたという事実もあるようだ。昔のことが今も通用するかというと、必ずしもそうではないので、とりあえず今は、「とても」の意味で使うのは俗語だという意識を持っていたほうがよさそうだ。

聴く
「聞く」を使うか「聴く」を使うか。音楽は「聴く」がいいと思うが、音楽の構成要素である「音」の場合はどちらが適切だろうか。辞書では、詳しく注意しながらの場合にも「聴く」を使うと書いてある。ラジオや講義など、聴取する意味では「聴く」が用いられると解釈できる。ここで気になるのは、「聴こえる」という使い方が正しいのかどうかということだ。自発的に聴こうとせず、自然に耳に入ってくる場合、通常は「聞こえる」を使うのだが、それが音楽の場合は一体どちらにすべきなのか迷う。たとえ音楽であっても、「聴こえる」はおかしいような気はするが。

会社名
たとえば、「セガ」と書くか「SEGA」と書くかで、ちょっと迷う。基本的に、日本の企業は漢字かカタカナで、アメリカなら英語というような使い分けでいいらしい。ただ、持っている機材を箇条書きするような場合には、英語やローマ字で統一してもよいのではなかろうか。

英語のほうがカッコいいから、すべて英語やローマ字で書いてしまえという考え方もある。確かに、Roland、YAMAHA、ONKYO、TEACなど、全く違和感のないメーカーが多い。ただ、Nintendo、TOSHIBA、MITSUBISHIなどを文章中に書くかというと、それもどうかと思う。

「最も」なのに複数?
英語で「one of the most 〜」という熟語を習った。日本語にすると、「最も〜のひとつ」というような訳になるが、なぜ一番のものが複数存在するのか、昔から疑問に思っていた。「最も難しい問題のひとつです」や「最も高い山のひとつです」という文は、日本語として正しいのだろうか。

【私の主義と迷い】

的を得る
「的を得る」は、以前は誤用の項目に書いていたが、誤用として扱う国語辞典がほとんどなくなったことと、「的を得る」自体が国語辞典に載るようになったので、こちらに移した。ただ、使うなら慣用句になっている「的を射る」にするか、別の表現にしたほうが無難だと思っている。

おそらく大丈夫
「おそらく」は、漢字では「恐らく」となることからも想像できるように、本来は悪いことが起こりそうなときに使う言葉である。なので、「おそらく失敗するだろう」のように使う。今では、単純に「たぶん」「きっと」の意味で使われることも多いので、「おそらく大丈夫」を使ってはいけないとまでは言えない。しかし、「幸先が悪い」だとか、縁起がいいことに対して「ジンクス」を使うのと同じで、奇妙な感じがする。

漢数字とアラビア数字
「一、二、三」を使うか「1、2、3」を使うか。これは非常に悩む問題である。アラビア数字のほうが認識しやすいと思うのだが、こちらを使うと変な感じがすることもある。たとえば、熟語で数字が入るときには、まず漢数字を使うだろう。

私は、回数を表すときにはアラビア数字を用いることが多い。それも、数が多くなる可能性がある場合によく使う。漢数字で大きな数字を表すと、途端に読みにくくなるからだ。

迷うのが「度」だ。「一度は行ってみたい」「一度だけ見たことがある」のような場合、漢数字を使うようにしている。「〜度」は、せいぜい2〜3程度の回数でしか使われないし、漢数字のほうが合う気がするからである。しかし、これが温度や角度を表す場合なら話は別だ。

分かる
漢字で「わかる」を書くと、「分かる」「解る」「判る」の3つがある。はたしてこれらを書き分ける必要があるのだろうか。「分かる」は、分別、分ける、「解る」は理解、解明、「判る」は判断、判別、などからイメージできなくもない。しかし私は、漢字にするなら「分かる」しか使わない。いちいち、どの漢字が適当か考えるのは面倒だし、「解る」「判る」は、常用漢字の音訓外でもあるからだ。

「わかる」にするか「分かる」にするかは、単に好みの問題だろう。個人的には、わざわざ漢字を使うまでもないと思うが、使われているからといって、やめてほしいとは思わない。

いう
「〜という」という:-)言い回しをするとき、私は漢字を使わないことが多い。別に根拠はないような気がするが、なんとなくそこに漢字を使うのが好きでない。私なりの規則というものもなさそうなので、「そういう」と書いたり、「〜と言っても」と書いたりする。強いて言う:-)なら、明らかに「言う」という行為を表しているときには、漢字を使っている。なかなかその判断が難しいのだが。

「〜かも知れない」を「〜かもしれない」、「〜して欲しい」を「〜してほしい」、「〜の事」を「〜のこと」とすること:-)も多い。なんとなく使いたくないのだ。「事」「所」「時」については、具体的に指し示している場合が漢字で、抽象的であればひらがなにするそうなのだが、実際に使い分けるのは難しい。特に「時」は判断に困る。以前はほとんど漢字にしていたが、今ではひらがなを多用するようになった。

良い
「よい」は、漢字を使うかひらがなを使うか、かなり悩む言葉である。「〜するのがよい」としたい気もするし、「それは良い考えだ」とも書きたい。ちなみに、「いい」ならば必ずひらがなかカタカナにする。漢字にすると、「よい」なのか「いい」なのか、読み手が判断できないからだ。

行う
「な」を書くか書かないか。「な」を書くのは、たぶん「行った」という言葉が「いった」のか「おこなった」のか区別できないからだろう。そういうときは、ひらがなにするのも有効なのだが、「おこなった」とひらがなで書くのには抵抗がある。

似たような話で、「生物」を「なまもの」と読ませたいとき、「生もの」や「なま物」にしたり、「人気」を「ひとけ」と読ませたいとき、「人け」や「ひと気」にしたりといったやり方があるが、どちらをひらがなにするか迷う。この場合、ひらがなのみでもあまり違和感はないが。

褒める
「ほめる」には、「褒める」と「誉める」という漢字がある。国語辞典では、「褒める」が先に書かれていたり、「誉める」が先に書かれていたり、さまざまである。また、「賞める」もあったりする。こういう、どれを使ってもよさそうな言葉は、何かの基準で決めたい。そこで、何か違いがないか調べると、「誉める」が常用漢字の音訓外であることがわかった。ならば、漢字にするなら「褒める」を使うことになりそうだ。ただ、「ほまれ」という言葉は「誉れ」を使うことになっているらしい。

怖い
「恐い」にするか「怖い」にするかは、「ほめる」と同様の判断ができる。「恐い」が常用漢字の音訓外であるため、「怖い」を使うか、場合によってはひらがなにしようと思う。ただし、「おそろしい」は「恐ろしい」。

すべて
「すべて」という言葉は、「全て」「凡て」「総べて」という漢字が当てられるが、「全て」以外は一般的でなく、常用漢字の音訓外である。「全て」は、2010年の改定常用漢字表の読みに入ったが、私はひらがなのほうが好きだ。

ある、ない
「有る」「在る」「無い」などの漢字がある:-)が、私は使わない。これらを使うと、非常に堅苦しく感じるからだ。それに、「有る」と「在る」の書き間違いや、間違った用法での「無い」を使わなくて済む。

かける
私は、「掛ける」という書き方を好まない。「電話を掛ける」「迷惑を掛ける」「時間を掛ける」「引っ掛ける」など、使う場面は非常に多いが、なぜかひらがなにしたい。もしかして、意味がたくさんある言葉は、ひらがなで書きたくなるのだろうか。

難解な漢字
難しい漢字を知っている人が、クイズ番組でちやほやされることがある。知識として頭に入れておくことは結構なことだが、普段は使わないような漢字や当て字を覚えなければならないとは思わない。他人が読めないような漢字を使うのは、単なる不親切に思える。読めないのは勉強が足りないからだという考えは少しおかしい。 なぜなら、常用漢字外や常用漢字の音訓外、当て字というのは、かなで書くか、(あれば)ほかの漢字で代用するか、ほかの言葉で言い換えるか、ふりがなをつけることが望ましい言葉であるからだ。

正式名称
私は、極力、正式名称を使うようにしている。たとえば、SC-88ProをSC88PROと書いたり、MU90をMU-90と書いたりは絶対にしない。88Proと省略して書くことはあるが、これはローランドのカタログでも使われているし、SK-88Proなども含めた意味だとも解釈できる。ただし、小文字でそろえたファイル名で使うときなどは、この限りではない。

こういう名前の呼び方に関して無頓着な人もいる。名前をつけた人にとっては、非常に気になるものだと思うのに。ところが、名づけ親でさえ書き方を統一していないことがある。私は、製品名などを書く場合、まず正式名称を確認するのだが、書き方がバラバラだと非常に困る。

読み方で困ることもある。その例として、ヤマハのMU90を挙げる。私は、「MU」は最初「エムユー」と読むものだと思っていた。しかし、DTMマガジンのCD-ROMで、開発者の氏家さんが「ミュー」と言っていた。そこで私は、ミューだったのかと考えを改めた。ところが、別の号のDTMマガジンでMUの読み方の質問があり、「MUは、神話に出てくるMuseからとった名前で、エムユーと読みます」とヤマハの人が答えていた。これは納得いかないと思ったのだが、どうやら正式には「エムユー」で、「ミュー」は愛称らしい。こういうまぎらわしいものが一番困る。

貼る
「貼る」は常用漢字の音訓外だったので、多少使うのをためらっていたが、2010年の改定常用漢字表に追加されたので、悩むこともなくなった。注意すべきなのは、「張る」しか使えない言葉もあるということだ。「貼る」は、ポスターや切手などをくっつけるとか、板を打ちつけるというような場合にしか使えないようだ。

〜してください
「〜してください」にするか「〜して下さい」にするかは、私にとって非常に悩む問題である。私は、以前は「〜して下さい」を使っていた。しかし、公用文では、動詞で使う場合は「下さい」で、補助動詞として用いる場合には「〜(て)ください」と書く決まりになっているそうだ。ということは、「〜してください」「これ下さい」という使い方をしたほうが適切な気がしてきた。そんなわけで、最近は「〜してください」を使う傾向にある。でも、動詞の場合に「下さい」にするかというと、それはあまり気が進まない。

すすめる
「すすめる」という言葉は、漢字の使い方がいろいろある。おすすめという意味では、「進める」はまず違うので対象外として、「勧める」「薦める」「奨める」がある。まず「奨める」は常用漢字の音訓外なので使いたくない。「勧める」と「薦める」には、微妙に意味の違いがあるようで、なかなか難しい。「勧める」は、こうしたほうがよいと相手に言う場合に使い、「薦める」は、ある物や人を褒め、「これ(この人)はどう?」と相手に言う場合に使うものらしい。

私は、正しく使う自信があまりないこともあって、よくひらがなを使う。また、「おすすめ」という言葉に漢字を使うと、堅苦しい感じがするので、使う気がしない。「オススメ」「おススメ」とカタカナが使われることがよくあるのは、そう感じる人が多いからだろうか。

かわいい
「かわいい」は、「可愛い」という漢字が当てられることがあるが、私が持っている国語辞典では、常用漢字の音訓外どころか、ひらがなでしか載っていない。広辞苑には、当て字と書かれていた。それはともかく、個人的にも「かわいい」を使う。だって、そのほうがかわいいもん。ところで「かわいらしい」と書くと、全国のかわいさんは、かわいいのか自分のことを言っているのか、一瞬気になるのではないかと思ったりする。

きれい
「きれい」は、漢字では「奇麗」と書く。よく「綺麗」とも書かれるが、「綺」は常用漢字ではない。ただ、「奇麗」と書くと、なんだか奇妙で、「綺麗」のほうが美しく感じる。どの漢字を当てるかは、一般的に使われているかどうかと、見た目の印象を考えて判断すればよいのではないか。常用漢字かどうかで決めるのは、これといった判断材料がないときでかまわないと思う。なお、私はひらがながいい。

「付」という漢字
「付く」は、漢字にするかどうか最も悩む言葉だ。「片付く」「気付く」「感付く」「色付く」「付き合い」「付き添い」「義務付ける」「貼り付く」「表情付け」「位置付け」など、非常によく使われる。これらは、「付」か「つ」か、どちらがいいだろう。世間では、漢字派とひらがな派の両方に分かれるようだ。「事」や「所」のように、明らかに「くっつける」意味の場合のみ漢字にするという使い分けも考えられるが、判断に困る言葉が多い。


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