イースターからあなたにお届けする
メッセージとクリスチャンの証 
 
 
備えられた住まい
メッセージ:榊原 寛 牧師
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
 もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
 あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」
― 聖書  ヨハネ 14章2節 ―
 去る9月末日、87歳になる婦人が、家人も気がつかないうちに息を引き取りました。
「おふくろ、足なんか出していると風邪ひくぞ」と言いながら、息子が近寄ったときには、母親は息が絶えていました。
 彼女の息子はもう40年も前にクリスチャンになりました。それ以来、家族の救いを祈らなかった日はありませんでした。特に彼のお母さんのために...。
 しかし彼女はキリスト教には見向きもしないで、朝夕お題目をあげて40年。
息子は定年を迎えたおりに、家を新築しました。彼女は、住み慣れた家からの引越しのために手伝いに来た牧師婦人と出会い、それからおつきあいが始まりました。
それ以来、時には煮っころがしをつつきながら、少しずつ聖書の話、キリストの話に耳を傾け始めたのです。その結果、ついに彼女はイエス様を救い主として受け入れました。
 そして8月9日、富士五湖のひとつ本栖湖畔で洗礼を受けたのです。それから彼女は健康が許すかぎり礼拝に出席しました。
9月の第4日曜日は、彼女にとって地上で最後の日曜日でしたが、そのようなことは誰ひとり考えたりもしませんでした。
礼拝では、聖餐式がおこなわれました。彼女は生まれて初めて、救い主が私達のために十字架の上に裂かれた体であるパンを食べ、流された血潮を記念するぶどう酒を飲みました。
彼女が召されたのはその週の金曜日でした。病気のための苦しみもなく、離別の悲しみも味わわないで...。
 おそらく死ぬことさえも感じないままではなかったでしょうか。文字通り、エノクのように「神が彼女を取られたので、彼女はいなくなった」のです。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた」ことをまざまざと実感させられた出来事でした。



見えるようになりたい
メッセージ : 田中 清嗣 牧師
 目が見えないために一日中、物乞いをしていた人にイエス様は、「私に何をしてほしいのか?」と尋ねられました。
そうゆうことがイエス様に分からなかったのでしょうか。
 イエス様が尋ねられたのは、ご自分のためではなく、道ゆく人から施しをこうていた彼自身のためでした。
彼の求めているものが本当に人間として無くてはならないものであるかを考えさせるためでした。
 私たちも日々、何かを求めています。なぜ求めているのでしょうか。
他の人もそれを求めているから自分も同じようにしなければ、世間体に悪い、時代から取り残されるという理由からだけということは無いでしょうか。ただそれだけならば、余りにも空しいことです。
 毎日、施しをこうていた彼は、「何を求めているのか」と尋ねられて、「お金が欲しい」と答えてもいいはずでした。
 しかし、イエス様に目をとめられ、真剣に尋ねられたとき、自分にとって無くてはならないものは、「そういうものではないのだ。“見える”ということだ」ということに気づかされました。そう気づかされた時、彼ははじめて見える者とされました。
 “見える”とは肉眼のことではなく、やがて死ぬ定めにある自分は何のために生まれてきたのか、「人生の目的は何か」と目が開かれることです。

イエス様は、今日も私たち一人一人に「私に何をしてほしいのか、何を求めているのか」と真剣に尋ねておられます。
 

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