| メッセージとクリスチャンの証 |
| キリストの復活の恵み |
| メッセージ:榊原 寛 牧師 |
| もし死が全ての終わりであるとすれば、人の人生はなんと矛盾に満ち、不公平で空しいでしょうか。 すべては因果応報で片付けられません。 生まれながら床につき、座ることも立つことも歩くことも出来ない人々がいます。 見ることも聞くことも出来ない人々がいます。 まじめにコツコツと努力して生きている人々が、かえって苦しい目に会い、不正を行いながらのうのうと大きな顔をして肥え太って生きている人々がいます。 ![]() イエス・キリストは、「天国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と叫びながら、多くの人々の病気を癒されました。 そして、指導者たちの不信仰や見せかけ、傲慢の罪を糾弾されました。 キリストの来臨は、弱いものや病めるものや罪人にとっては、慰めであり救いでありましたが、他方では「火が投じられ、剣が投じられた」ものだったのです。 さて、キリストが復活されたことについて、使徒パウロは、「もしキリストが復活されなかったら」という逆の立場から考察しています。 もしそうだったら、 「宣教は実質のないものとなる」「信仰もまた実質のないものとなり、これほど空しいものはない。」 そればかりか、私たちは「依然として罪人のまま」なのであり「滅び」である。 これほど「哀れで惨めなものはない。」 しかも「宣教は、偽証罪」となるといっています。 まさしくキリストの復活によって、私たちは、罪赦され、滅びから永遠の救いに移されたのです。しかもこの地上での全ての空しさから解放され、永遠の望みを持つものとされました。 そればかりではなく、キリストは戦いの多い現実に、私たちのために勝利者として、私たちと共におられるのです。 |
| イースターおめでとう |
| メッセージ:羽鳥 明 牧師 |
| 2002年は3月31日がイースターです。 「キリスト教にとって、最も大切なことって何ですか?」と尋ねられたら、何と答えましょう。 「愛」でしょうか。「いのち」でしょうか。それとも「魂の救い」と答えましょうか。 ところがあのキリスト教福音宣教の第一人者、使徒パウロは「私にとって最も大切なことは、キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書に従がって3日目によみがえられたこと、また、多くの人々に現れたことです。(聖書:第1コリント15章3〜8節)」と言っているのです。 ![]() 抽象的な教理でも、コンセプトでもなく、ただひたすら「キリストの十字架の死」「キリストのよみかえり」が、聖書の言う通り、「事実」だったということなのです。 なぜでしょうか。 ペテロは使途を代表してこう言いました。 「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにして下さいました。(聖書:第1ペテロ 1章3節)」 キリストのよみがえりが事実だった。 それで私たち信じるものすべてが生まれ変わり、希望に生かされるようになったと言うのです。 どうしてか...。 イエス・キリストのよみがえりの事実こそは、 第1に、イエス・キリストが、聖書の言う通り、神が人となって来られた神の救い主だった。 第2に、このイエス・キリストの十字架の死は、聖書の言う通り、私たちすべての人の罪の身代わりで、私たちを罪の裁きと滅びから救ってくださるための救いの道だった。 第3に、このイエス・キリストは、よみがえり、今も生きていて、信じる者をひとり残らず完全に救う、救い主だ ... ということを証明しているからです。 【聖書のことば イエス・キリストのことば。】 |
| 「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 |
| ヨハネ 11章25節 |
福音を携えて |
| 証:國頭 永江 |
| 幼児教育を勉強する為に入った短大がキリスト教系で、初めて福音に触れました。 その後、イエス・キリストが、私を全ての罪から洗い聖めて下さる事を信じて、救いを受け入れました。 卒業後は、子供の頃からの願いが叶い、保育士として3年間勤めた後退職しました。 ![]() 「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためでなく、 神のみこころのために過ごすようになるのです。 (聖書 第1ペテロ4章2節)」 仕事を辞めた年の秋に、このみことばがはっきりとした主の声として与えられました。 一体どういう事だとうという戸惑いと、人生が自分の思っていなかった方向に導かれていくという不安がありました。 しかし、主が確かな導き、喜び、そして平安を与えて下さり(聖書 イザヤ書55章)、信じて祈っていくと、主が私の人生を通してなさろうとしておられる事は宣教だと示されました。 1993年から4年半、アメリカで聖書と宣教学を学びました。3年生の時、インド等で難民の自立援助活動に参加したことがきっかけで、苦しんでいる中央アジアの人々の所へ行きたいという願いが与えられました。 家や家族、全てを失い、将来に対する希望も失ってしまった人々に、主は特別な憐みを持って下さっていると思います。 信仰は聞くことから始まると聖書に書かれているように、私の信仰も語って下さった方々がいたので始まったのです。 まだ福音を聞いた事のない人々のところへ、良い知らせを携えて行きたいと思います。 |