はじまりはいつも雨



雨が降っている。
家屋の周囲に敷き詰められた玉砂利を踏んで庭に廻ると、既に咳き込む声が聞こえてきた。風呂敷に包んだ
土鍋とタッパーを声を出して抱え直し、うみのサチは縁側の奥に声を掛けた。


「カカシ君、おばちゃんだよ。開けていい?」


返事を待たずサッシに手を掛ける。施錠されていない引き戸の向こうで、畳の上にこんもりと盛りあがった布
団が見えた。その端から覗く銀色の髪。父親そっくりの、碧眼。眠たそうな両目がサチを認めると、やがてゆっ
くりと細められた。__笑っている。


「・・・おばちゃん」

「カカシ君、熱出ちゃったんだって?喉痛いの?」

「うん・・・ちょっと、痛い」

「薬は飲んだ?」

「・・・この間おばちゃんが置いてってくれたの、飲んだ」

「そう!!なら良かった、効いてくれば楽になると思うんだけど・・・ごはんは?食べた?」

「・・・食べてない」

「朝から?」

「うん」

「お粥作って持って来たんだけど、食べる?里芋の煮物もあるよ」

「食べる」


素早く上がり込み台所へ直行し、食器を一揃え持って和室に引き返し汗で湿っていたカカシの衣服を着替え
させ、トイレに促し洗面所でうがいをさせる。__もう何度、こんなことを繰り返しただろうか。カカシは扁桃腺
が弱い。事あればすぐに喉の内側を真っ赤に腫らし、高熱を出して寝込んでしまう。その度こうして消化の良
い粥や惣菜を持って、サチがカカシのもとに駆け付けるのはこのところの恒例となっていた。


「どう?カカシ君、美味しい?」

「美味しい」

「里芋、食べる?」

「食べる」

「インゲンとか人参も食べなきゃダメよ?柔らかく煮てあるんだから」

「・・・うん。おかゆ、おかわりしていい」

「もちろんよ!!いっぱい食べなさい」


二杯目を盛ってやった茶碗に、顔を埋めるようにしてカカシは粥を掻き込んでいる。その小さな同僚の姿に、
サチは胸を掻き毟られるようなせつなさを覚えた。カカシが頻繁にこうして寝込むのは、気力体力だけの問題
ではない。この年で既に中忍という立場。大人と分け隔てなく振り分けられる任務。唯一安らげる筈の家に帰
っても、出迎えてくれる人間は誰もいない。この過酷な環境が、カカシの免疫力に影響を与えているのは間違
いが無い。


「カカシ君、食べ終わったらお薬飲もうね、また新しいの、おばちゃん持って来たから」

「うん」


サチはこれまで何度繰り返したか分からない、ミナトとの云い争いを反芻した。いや云い争いのレベルにまで
は達していない、唯の嘆願だ。サチはサクモが里を去ってから、幾度となくカカシを引き取らせてくれとミナトに
願い出た。だがその願いはにべもなく撥ねつけられ続け今に至る。__一体何がいけない。カカシが同居す
るとなれば、狭い家がますます狭くなることは事実だがそんなことは問題ではない。自分には自信がある。我
が子と同様にカカシを愛し、同様に成人まで育て上げる自信が。それに傍に置ければ体調管理にも常に目を
配ってやれる。温かく栄養のある食事、風呂、清潔な寝具・衣類。子供一人の生活では継続して用意するの
も難しいそれらを、『家族のぬくもり』と一緒に与えてやることも出来る。__それなのに、ミナトは。


「あの唐変木め」

「・・・なに?」

「あ、ううん、何でもないの。・・・うわ、カカシ君、いっぱい食べられたねぇ!!えらいえらい」

「・・・お腹いっぱい。ねむい」

「あ、じゃあ薬を飲んじゃおう!!待っててね、お水汲んで来るから」


ミナトが何故頑なにサチの嘆願を退けるのか、その理由は未だはっきりとは分からない。サクモの前で大見
得を切った意地か、それとも単なる独占欲か。何れにせよカカシに名乗ることすら許されていないサチには、
不可解且つ無為な行為の極みにも思える。せめてもう少し、こうしてカカシと触れあえることを許諾して貰えた
なら__許されるのがこうして寝込んだ時だけとは、虚し過ぎる。

水を持って戻ったサチは、掛けた布団を鼻まで被ったカカシが、じっと自分を見つめているのに気付いた。どう
したの?と膝を付き、碧眼を覗き込む。その両目が、同時に細められた。


「おばちゃんて、料理上手だね」


・・・ありがとう、そう云ってサチは零れ落ちそうになる涙を、辛うじて堪えた。子供が、世辞を云っている。これ
は世話になったことへの、カカシなりの労りと気遣いなのだ。サチは無理矢理に笑顔を作り、さぁ、と調子の良
い掛け声でカカシの背を押し起こした。


「薬を飲んだらもう眠っちゃっても平気よ。安心して、今日は夜まで居てあげられるからね」

「・・・ホント?でもおばちゃんのとこの女の子、大丈夫なの?ひとりに、なっちゃうんじゃないの」

「だーいじょうぶ、今日はね、うちのお父ちゃんと一緒だから。休みで家にいるのよ」

「あ、そうなの・・・?」

「うん。うちの子もこの間インフルエンザになっちゃってねぇ」

「え、平気なの、もう」

「うん、もうすっかりいいのよ?熱も下がったし。でももともとお風呂嫌いなのに拍車がかかって、もう治ったの
に入ろうとしないのよ。さすがのうちの人も叱りつけてね、そんなんじゃダメだ!!いい加減髪も洗いなさ
い!!って云ったらうちの子、『とうちゃんのうんこ!!』って云い返してねぇ。もううちの人、ショックで立ち直
れなくなっちゃって」

「アハ、アハッハッハッハ!!」

「バカでもイヤでもなく、云うに事欠いてうんこでしょう。うちの人娘に普段から甘いから、余計にショックだった
らしくてねぇ・・・」

「アハハハッッ、ハハハッッ、ハハッ、ゲホゲホッッ」

「カカシ君、大丈夫!?」


笑い過ぎて咳き込む小さな背を、慌てて摩る。涙の滲んだ碧い瞳は、それでも笑っていた。


「おばちゃんちの女の子って、ホント面白いねぇ・・・!!ね、もっと話、して」

「話って、うちの娘の?」

「うん!!」

「うーん、そうねぇ、大体うちの子は落ち着きってもんがなくてねぇ、目を離したら何をやらかすかホントヒヤヒヤ
もので・・・あ、そうそう、この前木の葉保育園で遠足があったのよ。それでお弁当持ってみんなで火影岩を見
に行きましょう、って話だったんだけど、その時にね・・・」


雨が降っている。この顛末を話終えたら必ず薬を飲ませようと、サチは子供には大き過ぎる布団の傍で足を
伸ばした。








カタンカタン、ってひびくのはお皿を重ねる音だ。ジャーって水が流れるのは、おばちゃんがお皿を洗っている
から。ぼくはこうやって、家の中でだれかが立てる音を聞くのが、すきだ。だってそれはぼくがひとりぼっちじゃ
ないってことだから。おなかはいっぱいでクスリも飲んで、ふとんの中はあったかいしとてもとてもねむい。でも
ねたくない。おばちゃんが台所で立てる音や、歩きまわる足音を聞いていたい。ずっと、ずっと。

ぼくは少しまえから、家にひとりですんでいる。それまで父さんとふたりでここにすんでいたけど、とうさんは里
から出ていってしまった。内緒で。それを知っているのは先生と、おばちゃんと、おばちゃんのだんなさんだけ
なんだそうだ。里では父さんは死んだってことになっているけれど、本当はちがう。

父さんは、母さんに会いに行った。ぼくを生んでくれた、ほんとうの母さんに。

ぼくは母さんの顔をぜんぜん覚えていない。ずっと父さんとふたりで生活していたから。なぜかっていったら、
ぼくの母さんはとてもとてもきれいな人で、父さんはすごく母さんがすきで、母さんもすごく父さんのことがすき
で、それでぼくを生んでくれたのに、あんまりきれいだからやきもちをやいた他の国の大名が、父さんから母さ
んを取り上げてとおいところへつれていってしまった。父さんは死んだ方がマシだ、っていうくらいくやしくて、ど
うにかなりそうなくらい頭にきたけど、がまんした。忍だから、自分は木の葉の忍だからどうしてもがまんしなく
ちゃいけない、って思ってがまんした。そんなにがまんして、がんばってぼくをひとりで育ててくれたのに、母さ
んは今よそに売られて、それに病気で、とても苦労している。つらい目にあっている。だから父さんはもう、が
まんしないで会いにいく。助けにいく。でもごめんなカカシ、おまえはつれていけないんだ、って、父さんはいっ
た。

どうしてぼくは、いっしょにいけないの

そう聞いたら、父さんはすごく悲しそうな顔をした。今まで見たことないくらいの、悲しそうな顔だった。今母さ
んがいるところはとても遠くて、木の葉と国交もない。父さんだって、行ったことがない。初めて行く。だから住
む家だってきまってないし、それいぜんに無事にその国に入れるか、母さんに会えるか、木の葉から出ていけ
るのか分からない。

お前をつれていくのはとても危険なんだ、カカシ。でもいつか必ず、会える日がくると俺は信じてるよ。お前を
置いていく俺を、許してくれ

そういった父さんのあおい目から、なみだがポロってこぼれた。ぼくは父さんが泣いてるとこなんかはじめて見
たからびっくりして、思わずながれるなみだを指でなぞった。ほくと同じ、あおい目。あおい、ひとみ。うん、いい
よ。母さんが病気なら、つらい目にあっているならもちろん父さんが助けてあげてほしい。でもぼくが戦力とし
て使いものにならなくて、足手まといになってしまうなら、それでもついていくなんてわがままはいえない。つ
れていって、なんていえない。ぼくは忍で、中忍だ。なら中忍としてのはんだんりょくで、ものごとを考えなけれ
ばいけない。
だからぼくはそれ以上、何もいわなかった。ううん、父さん気をつけて行ってきてね、ってそれだけはいった。
父さんはうつむいたまま、ぼくの身体をぎゅうっとおれるくらいに抱きしめた。

それからぼくは家にひとりになった。ぼくは中忍だし料理だってせんたくだってそうじだって、たいがいのことは
できる。・・・たぶん。今は先生が助けてくれることも多いけど、父さんとくらしていた時だってぶんたんして色々
していたから、本当にだいたいはできるんだ。

でも、こまるのは病気になった時だ。病気でなくてもケガをしてそれがもとで熱がでたりして、つらくて身体がう
まく動かない時もある。でもそんな時、いつからか・・・そう、父さんが行ってしまってから、おばちゃんが来てく
れるようになった。

おばちゃんは、おばちゃん、てほどの年ではないのだと思う。たぶん。

背中まである長いまっすぐな髪を後ろでしばっていて、目はいっつもくるん、てしていて顔にはまるで星みたい
なそばかすがいっぱいある。動きはいつもきびきびしていてでも優しくて、ぼくはおばちゃんが大好きだ。

ぼくはおばちゃんの名前をまだ知らない。でもこれからも知ることはないと思う。
おばちゃんがどこの人なのか、階級はなんなのか、どうしてこんなに親切にしてくれるのか、父さんとどんな友
達だったのか、きいてみたくて一度だけ聞いたら、おばちゃんは辛そうな顔をしてだまってしまった。その時ぼ
くは、とてもいけないことを聞いてしまったんだと分かった。きっと何かの事情があって、本当のことをいえない
んだ。いいたくても、いえないんだと思う。だっておばちゃんは絶対に悪い人じゃない。とっても優しくて料理が
上手で、話がとっても面白い。中でもおばちゃんちの女の子の話、これが一番面白くて、ぼくはいつも咳が出
るほど笑ってしまう。いったいどんな子なんだろう・・・ぼくより三つ下で、今木の葉保育園にいってるそうだけ
ど、おばちゃんと似てるのかな。どんな顔してるんだろう。・・・名前、なんていうのかな。名前も知らないおば
ちゃんちの女の子に、ぼくはそっと心の中で、あやまった。ごめんね、おばちゃんをかりちゃって。でもおばちゃ
んのおいしい料理もたべたしくすりものんだし、あとはぐっすりねたら、きっとかなり良くなってると思うんだ。

カカシ君、寝てるの?

雨が、ふってる。ねてない、ねてないよ。そういおうと思ったのに、何だかとてもあたたかくて、おふとんと身体
がくっついたみたいになって、まぶたもくっつきそう。そうっとよってくる、大好きなおばちゃんの気配。ひたいに
触れてくるおばちゃんの手はひんやりしていてすごく気持ちよくて、ぼくはちょっとだけわらった。


お か あ さ ん



<了>



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