バッファロー’66



「白雪!!飯やぞ!!」


ドン、と叩いた扉の向こうから、微かに応える声がする。グラスに水を注ぎ、皿に盛られたカレーの横に置くと
内側から扉が開いた。白い素足がペタペタと、ひんやりとした足音を立てながら不沙夫の後ろを通り過ぎる。
白雪は座卓の前に座ると、ビールに手を伸ばす不沙夫を待たず徐にスプーンを握った。


「兄さん、じゃがいももう少し小さく切ってよ。ゴロゴロしてる」

「うるさい。文句タレるんやったらお前がやれ。」

「だって今日の当番は兄さんでしょう」


どれ程気まずい出来事があろうと、大きな喧嘩をしようと夕食だけは必ず一緒に摂ろう。それが白雪を施設か
ら引き取り、共同生活を始めた日からの約束だった。あれから数年、この現況はまったくの予想外と云えたが
白雪本人が学校に向かう意志を投擲している現在、追いつめる言葉を吐いたとしても何の利にもなりはしな
い。こうして共に食卓を囲めるだけでも上等と、不沙夫は諸々の感情をビールと共に喉の奥へと流し込んだ。


「兄さん、今日はなんだか機嫌がいいね。・・・・何かあった?」

「・・・・別に、いつもと変わらん一日や。気のせいやろ」

「そう?」


陰影の濃い二重瞼、紅くふっくらと色付く唇、真っ直ぐに伸びた肩まで届く髪。日頃から滅多に外出をせず、
日の光から疎遠になっている所為で元から色白だった肌は最早、透けるように白い。その特異な容姿は思春
期の少年という範疇を軽々と越え、いわば妖艶な美少女の域にまで達している。


「お前、風呂は」

「まだ」

「食うたら入れよ」

「うん・・・・。ねぇ兄さん、お願いがあるんだけど」

「何や」


強請り事がある時上目遣いで何度も眼を瞬くのは、白雪の昔からの癖だ。不沙夫は一気にビールを干すと、
皿に向かった。


「引っ越ししない?もっと街の中心地か、そこに近い所に」

「・・・・何?」

「ここ古いし、物も増えて随分手狭になったでしょう。出来ればもう少し広くて、アクセスの良いところに住もう
よ」


長らく自室に籠もっていた弟が、地域の利便性について言及すること自体驚きだった。咀嚼する口を止め、不
沙夫は束の間弟を見つめた。


「光ケーブルの来てる場所がいいんだ。それに兄さんの部屋だって足の踏み場も無いじゃない、本が雪崩起
こしてるし。もう一部屋は欲しいよね、書庫にしたっていいでしょ?」

「外に出たいんなら足があるやろ、駅かてそう遠くない。止める者なんて誰もおらんのや、好きなだけ出たらえ
え。引っ越す必要が今どこにある」

「・・・・ボク、色々と勉強したいんだ。だから」

「勉強は繁華街でするもんやないやろ、学校へ行けばいい。方向が逆や」

「・・・・兄さん、この際だから言っておくけど・・・・ボクはもう既存の教育システムに倣った生活をするつもりは
ないよ。兄さんは怒るかも知れないけど色々調べたんだ、こんな価値観をもってるのはボクだけじゃない、実
は結構な数の人間がいる。色々な主旨のフリースクールもNPO団体もあるし、正直に云えばコンピューターや
ネットのシステムとか、プログラムや経済の勉強なんかももっとしたい。そうなるとやっぱり、あの学校じゃ無
理なんだ」

「白雪、お前は義務教育ってもんの意味を分かってない。そもそも勉学ってものは」

「兄さん、村上龍の『希望の国のエクソダス』って読んだことある?すごく面白い本だよ、何十万っていう不登
校の中学生がネットで繋がって大きなコミュニティを作って、経済活動に参入して最終的には国家に近い共同
体を作るんだ。不登校の、ボクと同い年の中学生がだよ?」

「・・・・白雪、活字を追って感動や感銘を受けるのは尊いことや。しかしそれが創作やいうことを忘れたらアカ
ン。いくら胸のすくような話であってもや」

「そんなこと言われるまでもないよ。円や経済機構の脆弱さとか政府の無能さを徹底的に強調してるのも、物
語を盛り上げる為の手法だって分かってる。実際ドルとユーロの次に来るのは今だって円だし、人民元がそう
性急に台頭することも無いと思うよ。現実的に、中学生があんなムーブメントを起こすのだって無理だ。でもポ
ンちゃん達がネットビジネスに参入して成功していくのはリアルで面白かったな。事実今だってやろうと思え
ば同じ事が出来るわけだし。・・・・兄さん、ボクね、お金ならあるんだ。実は今まで貯めたお小遣いを元手にし
てオンライントレードしてみたんだけど、それが結構上手くいって純利益でいったら120万くらい。これだけあ
れば、引っ越し出来るでしょ?」

「な・・・・・ッッ!!ひゃく、二十万!?」

「うん」

「オンライン・・・・なんたらてアレか、要するに株か!?株の売買をしたんか!?」

「うんそう」


驚愕のあまり、不沙夫はスプーンを取り落とした。当の白雪は声を上げ屈託無く笑っている。弟の、これ程晴
れやかな笑顔を見たのはどのくらい振りだろうか。


「こんなのまだ序の口だよ、ボクTVで見たんだ、デイトレードで何千万って稼いだ中学生のドキュメンタリー。
それにホラ、兄さんも知ってるでしょうあの『村雨ファンド』の社長さん。あの人なんか小学生の時お父さんから
100万円譲り受けて、高校生の頃には億にしてたんだって。」

「それで両手にワッパ掛けられてんやったら世話ないやろ!!白雪、金ってのは本来汗水垂らして稼ぐもん
や。濡れ手に粟で儲けた挙げ句、どうなったかはその村雨とやらを見れば分かるやろ!!」

「やだなぁ兄さん、そんな怖い顔しなくったってボクは何も悪いことしてないよ?ちゃんと自分で情報を分析し
て色々考えて、それから正規の取引を」

「言い訳はええ。とにかく株取引なんてもんは子供のやらかすもんやない。稼いだ分をどこぞに返すのはもう
無理としてもや。ええか白雪、今後トレードとやらでお前が金儲けするのは、一切まかりならん。」

「えぇぇぇッッ!!そんなぁぁ」

「うるさい!!もうこの話は終いや。早う食え」

「ちぇッ。横暴だよ、兄さん」


唇を尖らせ渋々とカレーを口に運ぶ不満顔を、嘆息して眺めた。これがあの、自分の腰に縋り別れたくないと
号泣したあどけない子供と、同一の人間だろうか。養護施設は大概がそうであるように、不沙夫の育った施
設も高校卒業と同時に出寮となる。大学への進学を控え、纏めた荷物と共に玄関を後にした不沙夫を追い、
まだ幼い白雪は縋り付き泣きに泣いた。入寮した日から不沙夫の何を気に入ったのか、『兄さん』と呼びまと
わりついては離れない子供だった。その経緯を知る職員も寮生達も、そして不沙夫ですら、白雪の身も世もあ
らぬ悲嘆に落涙を止められなかった。三角屋根の寮をバックに咲き誇る白木蓮の清々しい純白の花弁を、不
沙夫は今も鮮やかに覚えている。


「ねぇ兄さん」

「何や」

「ボクは兄さんが大好きだよ、それにとても尊敬してる。今も昔も、ずっと」

「・・・・・今更おべんちゃら云うたかて、何も変わらんぞ」

「そんなつもりじゃないよ。ただボクは兄さんに幸せになって欲しいだけなんだ、ホントだよ」

「何や?突然何を」

「気持ちはちゃんと言葉にしないと、伝わらないよ?大人しく待ってたってダメだよ、欲しいモノがあったら自分
から手を伸ばさなきゃ」

「・・・・・ッッ、お前・・・・!!」

「兄さん強面の割りには気の小さいとこあるからね、すごく心配してるんだよ。何かボクに、手伝えることな
い?」


不沙夫は今度こそ天井を仰ぎ、大仰に呻いた。これを成長の証と呼ぶのなら、子供とは文字通り『化けて生
きる』生き物だ。不沙夫の吐息を降参の狼煙と受け取ったか、白雪は打って変わった笑顔を向けた。


「まさかお前に、説教食らう日が来るとはなぁ」

「ふふふ」

「まぁそんな酸いも甘いも噛み分けた大人の白雪君には、もういらんやろなぁ、こんな可愛らしい手紙。」

「えッ、・・・・アッッ!!何ッッ!?」


ズボンの尻ポケットから抜き出した薄桃色の封筒に、白雪の眼は釘付けになる。慌てて伸ばされた手を意地
悪くあしらい、不沙夫はそれをひらひらと振って見せた。


「ちょっとッ、それボク宛てでしょうッッ!!返してよッッ!!」

「偉そうにゴタク並べる暇あったら自分の方をどうにかせんかい。心配してくれてるんやろ?春野さくら、ってア
レやろ、あの目のくりくりした利発そうな子やろ、時々様子を見に来る」

「うちのクラスの学級委員なんだ、それだけだよッッ!!ね、返してよ、返してったらッッ!!」

「文句あるんやったら郵便受けくらい覗きに行け、ものぐさが。・・・・おっと」


必至の形相で取り縋り、奪い取った手紙を胸に白雪は自室に駆け込んでしまった。大きく響いた扉の音に怒
声を浴びせながらも、不沙夫の唇には僅かな笑みが浮かんでいた。メールとやらが常識のこの時代に、便箋
にしたためた手紙とはこれまた奥ゆかしい。しかしそのアナログな繋がりが、温もりが、あるいは弟が浸って
いる薄暗い闇を断ち切る鋏となるかも知れない。都合の良い希望的観測と自覚しながらも、白雪の赤く染まっ
た耳朶の色を微笑ましく反芻する。ハキハキと自己紹介をする春野さくらの声も、同時に脳裡に蘇った。


「白雪ぃ、風呂はぁ!!どうするんや!!」

『後で入るーー!!』


扉の向こうから響く声に、籠もる熱を感じ吹き出すのを堪えた。弟の食べ残しを自分の皿にあけ、ビールの缶
を握ってその軽さに気付いた。__どうせ明日は休みだ。これからもう一本空けても、別段何の支障もない。

不沙夫は立ち上がると、冷蔵庫に向かい歩み寄った。



〈 了 〉



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現行法では、未成年は保護者の承認なしに株取引は出来ません。
そもそも口座が開けませんよね(^^;)
実際ネットでは架空名義の口座が売買され、簡単に手に入れられるという話ですが・・・
良い子は絶対にマネしないように!!(^^;)