パーフェクト・ワールド



しかしオバケといつかは待っている奴の所に来たためしがない。

                           / 『一瞬の夏』 沢木耕太郎










不意に掛け声が止んだ。


束の間職員室を支配した静寂に、不沙夫は壁の時計を眺め目を瞬いた。視線を戻した答案用紙に、再びリズ
ミカルに赤ペンを入れ始める。手持ち無沙汰の解消にと始めた小テストの採点に、意外にもかなり熱中しその
間時間は大分過ぎていた。眼下の赤インキよりも更に濃く深い夕闇が、机の上まで染め上げる。宵闇近い時
間になれば部活動が終了するのも道理と、機械的に手を動かしながらも脳裡の片隅で呟いた。


さいならー、先生またなー

あんたら、階段駆け下りたらあかんよー!!ちょっとッッ、聞いてんのー!?


生徒達の甲高い笑い声と足音が次々と廊下を、階段を駆け抜けていく。まったくもう、と嘆きの息を吐きつつ
扉を開けたその瞳が、不沙夫の姿を認めると忽ち柔和な笑みに撓んだ。


「桃地先生!!丁度良かったわ、この間借りた御本返そうと思てたんです」

「もう読み終わったんですか?また随分早いな」

「そりゃもう面白いのなんの、読み始めたらどうにもこうにも止まらなくて・・・・お陰で昨日今日、立派な寝不足
ですわ」

「ハハハ、そりゃ良かった」


不沙夫の真向かいの机に着き、いるかは自分の鞄を漁り始めた。だがその手を不意に止めると、小首を傾げ
て問い掛けた。


「桃地先生、今日部の方は?」

「あぁ、この天気でしょう。グラウンドも大方使い物にならんしうちは柔軟とランニングで上がりですわ。」

「そうやったんですか・・・・いくらラグビーていうたかて、ずっと体育館で練習するわけにもいかんし・・・・早く梅
雨、明けるとええんですけどねぇ」

「ホンマにねぇ」

「ああ、あったあった、これこれ。・・・・先生、もうお帰りですか?せやったら駅までご一緒しませんか?」


どの切欠で切り出そうかと煙が出る程に悩むセリフを、いるかはいつも自分の方からサラリと云ってのける。
沸き上がる歓喜と羞恥を押し隠し、礼の言葉と共に差し出された上下巻の文庫本を受け取ると、不沙夫は荷
物を手繰りながらぶっきらぼうに言葉を継いだ。


「あんまりスッキリしたラストやなかったでしょう、これ」

「そうですねぇ・・・・正直ほんまに複雑な読後感やったけど・・・・せやけどエライ臨場感に、もう呑まれてもう
て・・・・こんなに『取り込まれた』て感じる本も久しぶりですわ。まるで自分がその場その場に立ち会ってるみ
たいな」

「彼の文章は短いセンテンスの繰り返しでしょう。加えて平易な言葉で語り掛けるからどれを読んでも口当た
りがいい。しかし直感的直情的に書いているように見えて実はかなり技巧的ですよ。特にこの話はルポルタ
ージュでありながらセルフポートレイトの役割も担っているし」


『カシアス内藤』というボクサーについて、机の向こうから唐突にいるかに問われたのは過日のことだ。知って
いるかと問われれば、頷いて応えた。内藤は黒人アメリカ兵と日本人女性の間に混血児として産まれた、19
70年代に東洋ミドル級チャンピオンにまで登り詰めた重量級の著名なボクサーだ。しかし類い希な素質とは
反対の脆弱な精神面が災いし、王座から転落するのも早かった。いるかはそのカシアス内藤が老齢に近い
歳となった現在、咽頭ガンを患いながらも自分のジムを開き後進の指導にあたる姿に、かなりの感銘を受け
たと語った。それを目撃したのはスポーツニュース番組の特集に於いてであったが、ついてはその中で紹介
されていた本を探している。其処には若き日のカシアスの姿が詳しいらしく、是非読んでみたい。__だがも
う数ヶ月も探しているのに何処にも見あたらないのだ。

そこまで聞いて、不沙夫は堪らず短く吹きだした。ネットが発達したこの時代に、本は本屋でと拘るアナログ
主義も珍しいが惚れた女の話なら事は別だ。それすらも美徳に見える自分の贔屓目を同時に笑いながら、不
沙夫は件の本を所有している旨を告げた。そのルポルタージュ作家の著書は特に不沙夫の気に入りで、問
われるまでもなく既刊本全てを所有している。喜色を顕わにしたいるかに沢木耕太郎著『一瞬の夏』を手渡し
たのは、つい数日前の話だ。


「せやけどボクシングの興業て大変なんですねぇ。闘うのはボクサー本人やのに、周りであんな複雑なこと」

「大きなイベントに諸々の金や権力が絡むのは、今も昔もそう変わってへんと思いますよ。まぁソコが一番難し
い問題点なんやろうけど」


いるかと肩を並べ職員室を出ようとしたその時、入れ違いに入ってきた教頭とぶつかり損ねた。自分達二人、
というよりは主に不沙夫自身に向けられたその視線が、あからさまな興味と詮索に満ちていたのはおそらく気
の所為ではない。いつも、という頻度を注意深く避けてはいるが、不沙夫が残業を片づける傍らいるかを待ち
受けている事実は既に目について居るに違いない。ましてやその後、二人揃って最寄り駅までの帰路を辿る
となれば尚更だ。お先に失礼します、教頭先生。いるかの朗らかな挨拶に応える上司の笑みが、下卑た滑り
に染まっているのに心底嫌悪を覚える。灰色。くすんで湿ったダークグレー。不沙夫には周囲の人間の人格
や特色を色彩に喩える癖があったが、この上に媚び諂うことのみを己の業務と履き違えている男の色は、ま
ごうこと無きどぶねずみの色だ。遠慮無く侮蔑の視線を投げつけると、不沙夫はそのまま背を向け階段を降り
た。いるかのお喋りは、まだ続いている。


「珍しいな、今日はまた随分興奮してますねぇ海野先生」

「え・・・ッ、そ、そうやろか。・・・・そんな風に、見えますか?」


教職員用の下駄箱から、靴を取り出しつつ笑って肯定する。するりと脇を抜け先に外に出たいるかが、空を見
上げ呟いた。__良かったわ、雨上がってる。傘忘れてもうて、どないしよう思てたんやけど。つられて振り仰
いだ不沙夫が視線を戻しても、まだいるかは濃紺の幕を引きつつある空を眺めていた。不沙夫にはそれが一
つの照れ隠しであることも、いるかが確かに昂揚していることも分かっていた。おそらくいるかの精神は、リン
グの内外で男達が繰り広げる真剣勝負の世界に捕らわれたままなのだ。そしてその熱気の片鱗に触れたま
ま、手を離せなくなっている。__美しい。眦をほんのりと染め、結い上げた髪と項を風に晒す姿に見とれた。
自分の好いた本に好いた女が陶然と酔っている。その幸福な事実に、不沙夫の心は蕩けた。


「せやけどうち、子供みたいにただ興奮してるだけやないんですよ」


穏やかに促せば、素直に不沙夫の後ろに続く。黒目がちな瞳は目ざとく頭上の一番星を見つけたようだっ
た。


「足掻きながらも、東奔西走して前に進んでいくでしょう・・・・あの本の登場人物、みんな。うち、頭を叩かれて
聞かれたような気がしましたわ。お前はこれ程、毎日を真剣に生きているか。・・・・命懸けで、向き合っている
か」

「向き合ってるやないですか。海野先生は誰もが認める、真面目な良い先生だ」

「そうやろか・・・・『真面目』と『真剣』て、似ているようでいて・・・・実は全く別のもんやないやろか」

「ソコまで考えんでもいいでしょう、ちょっと『真面目過ぎ』と違いますか?」

「・・・・桃地先生、うち、・・・・この間」


不沙夫のからかいにもいるかの表情は硬かった。そのいるかが立ち止まり、問い掛けたい言葉の先を透視し
た不沙夫は手を振り遮った。


「ストップ。先生、その話はもうケリがついた筈でしょう。もうええやないですか」

「せやけど先生。あの時先生に口添えして貰えんかったら、あの子は確実に退学になってました。・・・・うちで
は駄目なんです。助けが無ければ、生徒一人を救う力も無い・・・・うちはまだ、ホンマに無力な人間です。『勝
たなければならない』時もあるのに」

「あん時はたまたま俺のハッタリが効いただけですよ。言うたでしょう、海野先生。考え過ぎですよ。事実先生
はえらい生徒達に好かれてるんやし」

「せやけど、それとこれとは」

「アリかて具志堅かて内藤かて、最初からチャンピオンだった訳やありませんやろ。誰でも最初は一回戦、二
回戦ボーイや。打たれて熨されて恥掻いて、場数を踏んで強くなる。それでええやありませんか。海野先生も
俺も、ブンブン拳を振り回してまだラウンドの真っ最中や」

「・・・・・・」

「俺はねぇ、先生。教師て元々石工みたいなもんやと思てるんですよ、そりゃこの間みたいに、ヤリ合うことも
偶にはあるけど」

「石工・・・・?」

「そう、石工。コテとコンクリでね、ペタペタ重たい石を積み上げてくっつけて、汗水垂らして造った橋の上を若
いヤツらがデカい顔してドカドカ渡ってく。ようやっと渡りきった所で、今度はその先をソイツ等が造ってく。
__ヤツらも俺も海野先生も、結局することは同じですわ。コテで隙間にコンクリ詰めてね」

「・・・・コンクリ、ですか・・・・」


張りつめいたいるかの面持ちから強張りが取れ、いつもの柔和な笑みが広がる。再び歩を進め始めた二人の
間に、水分を多分に含んだ湿った風が吹き抜けた。


「そうかも知れませんねぇ・・・・・先のこと先のことて考てあげなアカンのに、弱音なんか吐いてもうて・・・・。
教師が後ろばっかり見てても、あきませんねぇ」

「そうそう」

「本来そんな地道な作業なんですよねぇ、子供を見守るて」

「まぁせめて、しっかり造った橋が落っこちんようにせんとねぇ」

「アハハハハ、ホンマに!!」


どれ程ゆったりと歩いても、校庭下のなだらかな坂を下ればまもなく商店街が見えてくる。その喧噪に満ちた
アーケードを抜ければ、短い旅路の果てに目指す駅は直ぐそこだ。


「そういえばこの間貸して貰った本、もう大笑いしましたわ」

「ああ、『クリスマスのフロスト』?」

「そうそう!!桃地先生のお薦めやていうから、どんなミステリーかと思たら・・・・謎解きは二の次で愚痴ばっ
かりなんですもん、あの刑事さん!!」

「働くの、イヤだイヤだいうてね。仕事キツイ、使われるのイヤやて文句ばっかりタレて、俺らと似てるでしょ?
どっちも公務員やし」

「そうそう!!ホンマ身に摘まされましたわ、オマケに貸してくれたのがあの桃地先生かと思うと余計に笑え
てもうて」

「『あの』て何です、おっかないなぁ」

「だって桃地先生、どうしたってハードボイルドで先鋭的なお話が好きそうに見えますもん。ル・カレやらヒギン
ズやら」

「俺は雑食ですからね、何だって読みますよ。『フロスト』のウィングフィールドもル・カレも、ポーもクィーンもア
イリッシュも」

「色々貸して頂きましたもんねぇ。ハイスミスにディック・フランシス。ローレンス・ブロックに、ロス・トーマス。」

「『黄昏にマックの店で』」

「そうそう。ハメットにチャンドラー、パーカー。『長いお別れ』、村上春樹で新訳が出るてご存じでした?」

「へえ!?そりゃ楽しみやな。『ナイロビの蜂』映画化になったんは?」

「それが忙しくて結局・・・・もう映画館なんて、とんとご無沙汰ですわ」

「俺もですよ。DVDで良かったらありますけど?『深夜特急』はどうします?」

「あッ、それはインド編まで読んだんです、その先はまだなんやけど・・・・。そう言えば『壇』も途中やったわ、
確か」

「あれも奔放な話やったなぁ」

「ホンマ・・・・いくら作家ていうたかて、男ってどうしてああもしょうもない」

「ハハハ、一緒にされたら敵わんな」

「えッ、わ、私そんなつもりや」

「ハハハハ」


ヒュウ、と吹かれた口笛の音源を辿れば制服を着たままの少年数人が、ニヤニヤと笑いながら不沙夫といる
かを眺めていた。宵闇濃い商店街には受け持ちであるなしに関わらず、自校の生徒達が買い物客に紛れそ
こかしこに屯している。あんたら、いつまでもブラブラしてたらあかんよ、あっという間に期末やろ?冷やかし混
じりの笑い声の意味を知って知らずか、いるかは至ってのんびりとした声を掛ける。しかしきつく睨め付けた途
端、ひゃあと声を上げ逃げていく少年達の様はさながら銀色のパチンコ玉だ。その有象無象の銀の玉を、不
沙夫はどうしても憎めない。パチパチジャラジャラと騒々しい音を立てながら、ぶつかり合って弾けては見当違
いな方向に飛んでいく__そんな滑稽さこそ、昔『悪タレ』と呼ばれた自分の姿そのものだ。


「それじゃあ桃地先生、うちはこれで。」

「ああ、お疲れさんでした海野先生。」


だがいつもは右と左に分かれる筈の改札口で、どうしたことかいるかは動こうとしない。別れの挨拶とは反対
の挙動に、不沙夫は目を見開き束の間立ち尽くした。


「桃地先生、あの・・・・決して興味本位でこんなこと、お聞きするわけやないんですが」

「・・・・・・?」

「ちょっと気になる話を、耳にしたものですから・・・・白雪君のことで」

「ああ、アイツが不登校やいう話ですか」

「・・・・・!!ホンマなんですか!!」

「まぁ今時、笑い話にもなりませんわなぁ。教師の弟が引きこもりやなんて」

「そんな・・・・!!せやけど、またなんで・・・・白雪君エライ勉強出来る子やのに」

「あのツラでその上『白雪』なんて名前でしょう。大方学校でからかわれたか嫌な目に会うたか・・・・まったくア
イツの親も、なんでああも変わった名前を付けたのやら」

「そりゃ白雪君、そこらの女の子なんかよりずっと綺麗な顔してますけど・・・・けど、それでいじめられるやなん
て」

「まぁ俺も詳しい事情は分からんのです、聞いたところで真っ当な答えが返って来る訳でなし」

「桃地先生・・・・うちに、何かお手伝い出来ることはありませんか」


今いるかの『興味』が自分ではなく、弟の白雪にあるのが残念でないと云えば嘘になる。だがいるかの白雪
に対する真摯ないたわりは、不沙夫の胸を穏やかな歓びで満たした。不沙夫は己の短髪に指を埋めると、勢
い良く後頭部を掻いた。


「おおきに、海野先生。せやけど俺はのんびり待つつもりでおるんですよ。まさかアイツの首に鎖付けて、引っ
張っていくワケにもいかんし」

「それは・・・・確かに、無理強いして解決する問題やありませんけど」

「人間の気持ちなんかどこでどう変わるか分かりませんしねぇ。心配せんでも、まぁ何れなるようになりますや
ろ。・・・・それより先生、こんな所でいつまでも油売ってたらアカンのと違いますか?待ちかねてる人がおるん
でしょう」

「え・・・・ッ、あ!!は、ハイ、あの、先日は」


大変お見苦しいところを、そう云って掌をあてた頬が、首筋が見る間に朱に染まる。喜怒哀楽の激しさから目
まぐるしく変わるいるかの表情に、喩えられる色彩を不沙夫は知らない。辿々しい言葉で何度も弟を労るその
瞳に、顔に、体躯に、ただ眩い光源が乱反射しては消えてゆく。それじゃあ、先生。多大な努力を払い平淡な
声音で告げた別れに、いるかは今度こそ頷いた。


「それじゃあ、桃地先生。また明日」

「ええ、また明日。」


また明日。木霊する言葉を胸に、改札を抜け人波に紛れた男の背中は二度と後ろを振り返らない。その目蓋
の裏には、まだ煌めく光の粒子がさんざめきながら漂っている。

綺羅綺羅と。



〈 了 〉



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