天国は待ってくれる
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「──・・・・ッ、・・・・あッ、・・・・あ、あ、あ・・・・ッ」
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「・・・・ここか?ここやろ?ここがええんやろ、いるか。」
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ハ、ハ、ハ、と息が上がる。生まれたままの姿でしとどに濡れたそこを指で弄られ、女の身体は面白いように
捩れた。同じ格好の男の首に手を回し、引き寄せる。
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「ええんやろ?な?そない我慢せんと、もっと声だし。」
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しがみつく女の頬は薔薇色に上気し、肉厚の唇は愛らしく戦慄いている。その吐息混じりの言葉をもっと聞き
たいと寄せた耳に、女の熱い息が触れた。
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「・・・・もう・・・・・もうッ、ええかげにんしてッ!!このスカタンッッ!!」
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何がどうなったのか分からない。ゴ、と殴られた頭を抱えて蹲り、涙目で今まで組み敷いていた筈の女を見上
げた。
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「それはこっちのセリフやわッ!!まったくいつまでもグチグチネチャネチャ、アンタ一体やる気あんのッ!?」
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「や、やる気て・・・・。あるで、あるに決まってるやんか!あるからオレ、こんな一生懸命・・・・」
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「一生懸命にも方向性と程度てもんがあるやろッ!!なんやの、ええやろええやろて、エロオヤジみたい
に!!前戯にどんだけ時間かけたら気がすむねんもう一時間は経ってるでッッ!!」
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「そ、そないな云い方せんでも・・・・これも愛ゆえやないか・・・・」
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「なにが愛やー!!こーいうのをヘビの生殺しいうんやー!!」
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てや。気合いの掛け声とともにかかしの身体は宙を舞い、ぼふんと仰向けに投げられた。衝撃でベッドのスプ
リングが派手に揺れる。いるかは去年の夏から空手の道場に通い始めメキメキと腕を上げている。日々有段
者相手に汗を流すいるかにとって、か細いかかしの身体を投げ飛ばすなど造作も無いに違いない。おかげで
年末は格闘技系の番組ばかりで、とうとう紅白を見せてもらえなかった。・・・・エロカッコいい倖田來未が見た
かったのにいるかのいけず。そんな恨み言を吐く間もなく、かかしのイチモツは突如生暖かい粘膜に包まれ
た。目の前に乗り上げ迫るいるかの乳房が、たわわに揺れる。
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「あッ、あッ、なにッ・・・・・!!ちょ、ちょっと待ち、いるか!!」
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うねる肉壁と激しい腰使いに、かかしの感覚はあっという間に持っていかれそうになる。何とかいるかの暴走
を止めようと腰に回した手は強く払われ、挙げ句薄い胸板を両手で付かれ動きを封じられた。
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「アッ、アッ、・・・・アアッ!!あかん、あかんているか!!そ、そんな激しくされたら、オレ・・・・!!」
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「あ・・・んたが、してくれへんからッ、・・・・代わりに、してるんやないの・・・・ッ」
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「は・・・・アッ・・・、あ、あ、あ、い・・・るか、・・・・マジ、そんな、やばいて・・・・ッ!!」
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あまりにも刺激的な体位とは云え、自分が組み敷かれているからとは云え、この速さで達するのは有り得な
い。いくら何でも、男の沽券に関わる。そう歯を食いしばって耐えているのに、いるかの動きは激しさを増すば
かり__いや、分かってやっている。悦楽と意地の狭間で錐揉み状態の自分を見下ろし、いるかは髪を振り
乱しながらも薄く笑っている。
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──・・・・なんでだ、別にこれといって意地の悪いことをした訳じゃなし、ただいつもよりちょっと念入りに愛し
てやろうと、・・・・ただそれだけの努力が、なんでこんな仕打ちに取って代わる!?
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潤んだかかしの瞳と、見下ろすいるかの視線がぶつかる。瞬間、いるかが膣と括約筋に力を込めた。
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「あ、あ・・・・ッ、アアアアアア・・・・・ッッ!!!」
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ざぶん、と大波に浚われたのは勿論かかしだ。そのままブクブクと水中に沈んでいく意識の底で、してやった
りと笑ういるかの顔が見えた。
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「・・・・しゃあないなぁ、もう。なんのかんのいうて、いるかはオレにメロメロやからな。」
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ペタペタと女物のサンダルをつっかけて、近所のコンビニに向かう。朝起きると、いるかは既に学校へ出勤し
た後だった。ふきんのかけられた朝食を眺めてバリバリと頭を掻く。昨夜はどう振り返っても散々に弄ばれた
としか思えない展開だったが、うさぎさんの形に切られたりんごを見て気をよくする。
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__ったくこんなとこで愛を表現しくさって、可愛いヤツや。しゃあない、オレも男や昨夜のことは許したろ。
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用意されていたものをすべて平らげ、ちゃぶ台の上に置かれていた五百円玉を握って外へ出た。いつもは百
円玉二枚しか貰えないが今日は月曜日なので特別だ。いるかが毎週楽しみにしているじゃんぷと一緒に、い
つもより少し多めにお菓子が買える。プリンとポテチと、チロルチョコも買お。ゴロゴロしてばっかいるのにぎょ
うさん甘いモノ食べてみぃ、あっという間に銀さんと同じ病気になるで。いるかはそう言って脅すがやっぱり甘
いものは堪えられない。一護とグリムジョーの戦いはどうなったんやろ。鼻歌を歌いながら歩くかかしの横を黒
塗りの車が追い越し、急停車した。タイヤの軋む音と同時にドアが開き、男達が駆け寄って来る。
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「・・・・?あれ、恵比須やんか!なんや、大和も一緒か?久しぶりやなー、関東支社からわざわざ出張かいな
ご苦労さん」
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「お久しゅうございます、若。我々は三ヶ月程前から本社の方に・・・・って若!!のんびり立ち話してる場合で
はございませんぞ!!直ぐに芦屋の方にお戻りを!!」
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「はぁ?何いうてるんや、オレが此処におるのはジジ・・・・おじいさまも公認や。今更何言われたかて帰らへ
んで、あんなとこ!!」
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「そッ、その会長がッ!!昨夜お倒れになられて意識不明にございます!!」
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まさか、担いでる訳やないやろな。救いを求める様に大和を見たが、沈痛な表情でかぶりを振られた。地面が
揺れている。__なんだ、地震か?そう思って足元を眺めると、震えているのは自分の膝だった。
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「株主総会も迫っていますし総会屋対策等を考慮しても、今この事態を発表するには時期が悪すぎます。会
長のご容体について知っている人間は、上層部の人間でもごく僅か__今は佐助様がお傍に付き添ってい
らっしゃいます。気丈に振る舞われておられますが、ご心中はいかばかりかと・・・・。この上は、一刻も早くお
戻りになられてお力添えを」
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「左様でございますぞ、若!!このような時に力を合わせずして、何の為の御兄弟です!?佐助様も若のお
帰りを今か今かとお待ちでございますぞ!!ささ、このままで結構です、お早く車にッッ」
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「わ、分かった、分かったからちょっと待ってや、ケータイが部屋に・・・・」
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「ご連絡なら何処からでもつけられますッッ!!とにかくお車にッッ!!大和!!」
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「お、おい、ちょっと待ってや!!いるかに書き置きくらい・・・・ちょっと待てってッ!!」
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その叫びも虚しく、かかしの身体は軽々と二人の男に抱え上げられた。そのまま折り畳まれるように車内に
押し込まれドアを閉められる。急発進した後に残されたのは車の排ガスとすべてを見ていた一匹のノラ猫、そ
しているか愛用のサンダルだけだった。
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ばふん、とベッドにバッグを投げた。黒いワンピースをたくし上げ頭から脱ぎ捨て、同色のストッキングも丸め
て放り投げる。アップにしていた髪を解き、さっさと部屋着に着替え布団に潜り込んだ。そういえば化粧を落と
していない__今更ながらに気付いても、最早その気力も体力も無い。頭まですっぽりと掛け布団を被り、そ
の闇の中で目を凝らした。
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かかしが突然姿を消してから、既に一週間以上の月日が経っている。
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いつもは尻尾を振って自分を出迎えるはずの男がいない、その夜から三日間、いるかは夜も眠れぬ程かかし
の身を案じた。書き置きもない。あの騒々しい男が何の音沙汰もなく携帯は部屋に置いたまま。かかしの実
家の事は知っていたが、これも連絡の付けようがない__大体あの男は正真正銘の無職で、役職すら付い
ていない筈なのだ。これでは、問い合わせのしようがない。・・・・・まさか、何か良くない事にでも巻き込まれ
たのだろうか。だがかかしもいい大人だ、そう易々と犯罪に巻き込まれる可能性は低い。しかし、かかしは兎
も角実家は有数の資産家だ、誘拐、という事象も有り得ない事ではない・・・・
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そのぐるぐると渦巻く疑問と懸念が氷解したのは、四日目の朝だった。
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いるかはリモコンを握ったまま、呆然と朝のニュース番組を眺めた。
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ばーらがさいたばーらがさいたまっかなばーらーがー さーみしかったぼーくのにーわにばーらがさーいたー
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子供の頃良く歌った歌を、口ずさんでみる。やっぱり、幸せは棚ボタで落ちては来ない。地道な努力を積み重
ねた人間にだけ、ご褒美のように与えられるものなのだ。
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散々悩んだ挙げ句に参列した葬儀で、いるかは自分の認識の甘さと現実の冷酷さを思い知った。
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喪服に身を包み参列者に頭を下げるかかしの姿に、いるかの胸は熱くなった。__痩せた。もともと顔色の良
くない男の頬は、白鑞に近い色をしている。その頬に絶え間なく流れる涙を、隣に寄り添う女がハンカチで拭
っていた。空いた片手は慰撫する様にかかしの指を握っている。そこに流れる濃密な空気に、いるかの足は
竦み歩み出す事が出来なかった。大勢の弔問客が立ち止まったままのいるかに訝しげな視線を投げ、追い
越してゆく。いるかは結局、焼香をすることなくその場を後にした。
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・・・・なぁんにも悲しいことなんてない。あるべきものを、あるべき場所に返しただけや。
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無職であろうと病弱であろうと辟易するほどのイチャパラ信奉者であろうと、かかしの与える温もりはいるかを
暖めてくれた。だがそれは、本来自分が手にすべきものではなかった。__ただ、それだけだ。
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テストの採点が残っているけれど、今日はもう寝てしまおう。疲れていると、ろくなことを考えない。鼻を啜って
布団の奥深くにもぐった時、呼び鈴が鳴った。
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__かかしだろうか。だがそんなことは有り得ない。万が一そうだとしても、かかしはこの部屋の鍵を持ってい
る。ここに来たのならそれを使うはずだ。・・・・どうせ勧誘か何かに違いない。居留守だ、こんな時居留守を使
うに限る。海野いるかは今いません留守です放って置いて下さい。だがそんな願いも虚しくしつこく呼び鈴は
鳴り続ける。
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「あーもうッッ!!うっさいなッッ!!どこのどいつやまったくッッ!!」
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しかし足音荒く開けた扉の向こうに立っていたのは、新聞の勧誘でもセールスでもなく仕立ての良いスーツを
着た男二人だった。
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「私は恵比須と申します。こちらは大和。この度はお忙しい中ご列席賜りまして」
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はたけファイナンスの社長室付きと自己紹介した男達は、ちゃぶ台の向こうで深く頭を下げた。
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「こんな時間ですし、失礼を承知で単刀直入に申し上げさせて頂きます。・・・・これで、若との関係を無かった
ことにしていただきたい。」
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大和。恵比須が顎をしゃくると控えていた若い男が包みを差し出した。うんざりした顔のいるかに構わず、恵
比須は懐から筆記具と書類を取り出すとそれを広げ始めた。
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「五百万御座います、どうぞご確認を。これでご不満とあれば、後は弁護士との話し合いとなります。もしご承
諾頂けるのであればここにご署名と捺印を・・・・」
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サラサラと筆を走らせるいるかを、二人の男は呆然と見つめた。
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あからさまに安堵と侮蔑の表情を見せる恵比須に笑いかけ、いるかは台所に引っ込んだ。ごそごそと動き回
る気配がして再び姿を見せた時、その腕にはアルミの鍋と酒の瓶が抱えられていた。ウォッカだ。大和がそ
のラベルを認めた瞬間、いるかは鍋に包みと書類を放り込み酒を降りかけるとライターで火を付けた。
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恵比須の絶叫が響く。書類は勿論、札束は音もなく燃えさかりあっという間に灰になった。思わず腰を浮かし
た大和の横で恵比須が拳を握り立ち上がる。いるかも応じる様に腰を上げた。
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「なッ、なッ、なんということをッッ!!若の気紛れに此程の金額、これは破格の扱いですぞ!!そ、それをこ
のような・・・・ッッ!!」
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「フン!!受け取ったからにはウチのモンや、自分のモンをどうしようと勝手やろ?アンタに文句言われる筋
合いはないわ!!なんや、破格やて?ハハハハハ笑わせるんやないわこんなはした金、桁がみっつよっつ
足らんのじゃドアホ!!」
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「・・・・・なッ、なんッという、粗野な!!こッ、こんな女のいったいどこが・・・・・ッッ」
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「それはこっちのセリフや!!なーにがファイナンスや所詮は金貸しのくせして、人を馬鹿にするのも大概にし
いや!!今度そのツラ見せたらタダじゃおかんで、ケツまくってとっとと帰れスカタンッッ!!」
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「いッ、言われずともこんな場所に長居する気など毛頭・・・・・ギャッッ!!!」
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皆まで言わせずいるかの蹴り上げた鍋が、恵比須の腰にクリーンヒットした。衝撃で五百万の灰が部屋中に
舞い上がり雪の様に降り積もる。這々の体で逃げ出す恵比須と、それに続いた大和をいるかが呼び止めた。
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「ちょっと待ちや、大和さん・・・・やったか。あの人に、いや、あんたとこの社長さんに伝えて欲しいことがある
んや。」
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光り物でも振り回されたら堪らない。恐る恐る緊張の面持ちで振り向いた大和に、いるかは意外にも冷静な
調子で語りかけた。
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「こんなマネせんでも、アンタが別れたいいうんやったらウチはいつでも別れます。せやからもう、ウチのことは
気にせんといて下さい。それから、何をするにも身体が資本やからくれぐれも無理せんように・・・・薬は忘れず
に三度三度きちんと飲むこと。・・・・それだけです。お願いできますか。」
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頷いた大和の顔を一瞥すると、いるかはさっさと奥の部屋に引っ込んでしまった。暫く様子を伺っていたが、閉
められた襖の向こうでヒソとの物音もしない。危うく忘れる所だった鞄を抱え直し、忍び足で玄関に向かう。靴
を履いていると、女の啜り泣く声が切れ切れに聞こえて来た。
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大和はもう一度振り返り、溜息を吐くと静かに扉を閉めた。
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買い物客で賑わう商店街を、ゆっくりと歩く。帰宅途中のいるかを掴まえ、馴染みの商店主達が次々と声を掛
けた。
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先生、正月の準備はまだやろ餅はうちで買うてや。そうやね、また後で寄らしてもらうわ。
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__如才なく答えながら、胸中で苦笑する。もう今年の年末は、バタバタと買い物をする予定もなければ必要
もない。正月を共に過ごす人間など、いないのだから。
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大晦日になんたらいうアイドルが見たいとゴネていた、あの男から一切の連絡もないまま半年が過ぎた。
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いるかが男のいない生活に慣れるのは存外早く、それ以降取り立てて何の不都合も支障もなく生きてきた。
テレビや新聞で時折その姿を目にしても、不思議と痛みを感じる事はなかった。ただ、一抹の寂しさが過ぎり
はした。あんなあっけない終わり方をしたとはいえ、やはり最後に別れの言葉が欲しかった。きちんと向き合
って欲しかった。どんな人間関係であれ、それが幕を引く時の最低限の礼儀だ__いるかはそう思っていた
が、男には違ったらしい。それとも、自分にはそんな価値も無いのだろうか。以前恵比須が言っていた『気紛
れ』という言葉が浮かぶ。
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ふ、と笑ってかぶりを振った。・・・・今日はもう、帰ったらそのまま寝てしまおう。疲れていると、ろくな事を考え
ない。
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商店街のアーケードを抜けると、程なくして自宅が見えてくる。
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地面が揺れている。__地震だろうか。足元を見ると、自分の膝が面白いくらいに笑っている。また部屋を見
上げ、動かない足を無理矢理前に進めた。
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部屋に、明かりがついている。誰もいない筈の、自分の部屋に。
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その考えられる原因は二つ。今まさに空き巣が入っているか、鍵を使った人間が中にいるのか。
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__部屋の鍵の持ち主は、自分の他にもう一人しかいない。
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駆け出すことは出来なかった。ゆっくりとアパートの階段を上り、ドアノブを握る。鍵は掛かっていない。かかと
の潰れたスニーカーの横に靴を脱ぎ、明るい部屋に上がると立ち尽くした。男が、文庫本を片手にベッドの上
で長々と横たわっていた。
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「あ、いるかおかえりぃ。外寒かったやろ、風呂湧いてるで。」
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どこから引っぱり出したのか、どうしても捨てられなかったスエットの上下を着込み布団に潜っている。邪気の
ない笑顔を向けられ、いるかの手から荷物が落ちた。
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「・・・・・アンタ、いったいこんなとこで何してるの・・・・・」
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「何て、久しぶりに鬼平読んでたんやけどな。いやー、やっぱ六巻は泣けるなー。この佐嶋が男泣きするとこ
なんか何度読んでもグッとくるで。」
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「そんなこと聞いてるんやないわ!!アンタ、こんなとこいたらアカンやろ!?そんな暇も理由もない筈やで、
さっさと自分の家に帰り!!」
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「久しぶりに会うたのに、なんやつれないなー。いやちょーっとそこのコンビニまで用足しに出たつもりがうっか
り遅くなってもうたけど、オレの家はここやで。アホなこと言わんといてぇな」
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ニコニコと笑うかかしに膝が崩れた。ガックリと床に手を付いていると、もそもそと近寄ってくる気配に肩を抱か
れた。懐かしい男の匂いに、思わず涙が滲みそうになる。だが意地でもそんな顔を見せたくない。俯いたまま
唇を噛んで、目を逸らした。
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「・・・・知ってるやろ、ウチは金を受けとったんやで。アンタがここにいたら契約違反や。せやから帰って。」
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「うん、大和から聞いたで、パーッと燃やしてもうたんやて?カッコええなぁ、それでこそオレの惚れた女や。」
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「ハハハ、心配せえへんかて、オレにはもう何の枷も制約もあらへんがな。五百万どころか五百円の価値もな
いで。なーんもかも放り出してきたからな。」
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「いや放り出してきた、いうのは語弊があるな。相続放棄や。後のことは全部佐助に任せてきたんやけどな、
その手続きやら後始末やらでこんなに時間がかかってもうた。・・・・いるか、堪忍な。寂しい思いさせた上に、
辛い目にあわせたな。言い訳になるかも知れんけど、金のことは後から知ったんや。いるかが泣いてたて聞
いて、オレ胸が潰れそうになったで。」
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「何度ここに帰りたい、いるかの顔が見たいて思ったか知れん。けどな、一度でもいるかの声聞いたら我慢の
限界やて分かってたから、わざと連絡せんかったんや。その代わり少しでも早く終わらせよう思て、歯ぁ食い
しばって耐えたんやで。オレこの半年で、一生分の仕事をしたわ・・・・せやから後生や、堪忍な、いるか」
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かかしの涙袋がみるみる脹らみ溢れそうになる。つられたいるかも鼻の奥がツンと痛んだが、込み上げるもの
を必死に押さえかかしの頬を撫でた。
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「うん、実はオレな、アッチにいる間五回倒れたんや。」
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「三回は過呼吸、二回は喘息やったんやけどな、喘息はまだいいんや、辛かったんは過呼吸や。過呼吸で死
ぬ人間はおらんて言うけどな、あれほど辛いことはあらへんで。チアノーゼ起こして指先まで冷たくなってもう
ダメや、てなった時な、オレつくづく思たんや。・・・・・金も名誉も肩書きもなーんもいらん、その代わり、オレ死
ぬ時はいるかの傍がいい。」
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「なんでやろなぁ、芦屋の家は広いし塵一つ落ちてない程綺麗やし不都合なんていっこもないのに、息苦しい
てたまらんかった。せやけどこの狭い部屋に帰ってきたら、胸がスーッと楽になるんや。不思議やなぁ。」
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かかしの髪を引っ張ると、イタイイタイと笑い声を上げた。だがその眦からは涙が溢れ、縒れたスエットの襟を
しとどに濡らす。その涙を拭ってやりながら、堪えきれずにいるかも泣いた。いつの間にか固く抱き合い、背中
に回した手は互いを包み込んでいた。
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「なぁいるか、後生や。なんにも持ってないけど、なんの役にも立たんけど、いるかの傍に置いてぇな。指輪も
何も買ってやれへんけど・・・・せやけど、愛情だけはぎょうさんあるで。もうイヤっちゅうくらい愛したるで。約束
や、もう二度と寂しい思いはさせへん、絶対や。せやから、死ぬまでずーーっと一緒にいよ。な?な?」
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かかしの唇が、懇願するようにいるかの顔中に降った。うっとりとそれを受け入れていたいるかは、突然身じ
ろぎをするとかかしを睨んだ。
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「そ、そんなこ調子のいいこと言うて、騙してるんやないの。あんた、いい人がいたんと違うの」
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「み、見たんやで。葬式の時、綺麗な女の人と一緒やったやんか」
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かかしは突然の物言いに首を傾げていたが、やがてポンと手を打つと腹を抱えて笑い出した。
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「ハハハハハ!!あれか、あれはオレの叔母さんや!!死んだ親父の妹や!!ハハハハハ!!」
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いるかは暫く呆然と固まっていたが、やがていつまでも笑い転げるかかしの姿に眉を寄せ、頬を膨らませると
布団に潜り込んでしまった。
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「もうッッ、知らんわ、いけずッッ!!ちょっと勘違いしただけやんかッッ!!」
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「ハハハハハ、すまんすまん、あんまりおもろうて笑ってしもたわ。たしかに美智子叔母はまだ若いしな、べっ
ぴんやから間違えられても無理ないわ。ハハハハ、でも嬉しいなぁ、いるか、妬いてくれたんやなぁ。もう嬉し
いて、今死んでもええくらいや。」
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「・・・・・なにアホなこというてるの。もう知らん。」
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「そないな心配せんでも、オレは一生浮気なんかせぇへんがな。・・・・いや、出来ない言うた方が正しいな。オ
レの息子はいるか以外では勃たん。ピクリともせぇへん。ホンマやで」
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言いながらかかしもズルズルと布団に潜り込む。丸まっていたいるかの身体をひっくり返すと、顔もうなじも耳
も額も、全身を桃色に染めていた。
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二人同時に吹き出した。そのまま抱き合って、忍び笑いを漏らす。久しぶりに二人分の体重を受けたベッド
は、その度に軋んだ悲鳴を上げた。
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「愛してるで、いるか。もう絶対離れへん。オマエが嫌やっちゅうても離せへん。ずーーっと一緒やで。」
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こんもりと膨らんだ掛け布団の中から、愛を囁く言葉と熱い喘ぎが聞こえてくるまであと僅か。窓の外では風
に乗って、賑やかな商店街のざわめきが舞っていた。
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