長いお別れ



女が短く叫んで、達した。程なく俺も、追いついた。

俯せに崩れ落ちた女の背中に口づけると、濃厚な快楽と深い絶頂から微かな痙攣が走っている。俺も荒い息
のまま隣に横たわると、女の黒い瞳が柔和に笑った。


「・・・・兄さんもつくづく、物好きだねぇ。この辺のしきたりは、承知の上だろうに。」


腹這いのまま女が枕元のキセルに手を伸ばす。火の着いたそれを、俺は横から掬い取った。


「三度続けて同じ女を買ったら、もう余所には通えないよ。アンタは私の旦那ってことになる。よりによって私
のような女と・・・・まったく奇特なお人だよ」


吹かした煙が天井に昇る。こうして何人もの男が吐いただろう煙が、煤けた滲みを造っていた。その燻りに目
を遣りながら、女の肩を抱き寄せる。


「なぁに、心配いらないさ。俺がここに来るのも、今日が最後だ。」

「・・・・そうかい」


腕の中の体が固く身じろいだと思ったのは、俺の欲目か。女は目を逸らして赤い襦袢に手を伸ばした。


「──姐さん。あんたを、身請けしたい。あんた一体、幾らでここに買われた?」


女の瞳が見開かれ、掴みかけた襦袢が滑り落ちる。それを白い肩に掛けてやりながら、女の耳元で囁いた。


「金なら、ある。あんたと俺は明日の朝ここを出ていく。だからここでこうして休むのも、今夜が最後って訳さ。」

「・・・・身請け・・・・?兄さんが、私を・・・・?」

「そうだ」


女は俺の真意を測る様に暫く俺を眺めていたが、やがて喉を鳴らして笑い始めた。その内止むだろうと踏んで
いた笑い声はしかし長く執拗で、焦れた俺は声を荒げた。


「姐さん、あんたがどう思おうと勝手だが今の話は至って真面目だ。其処まで笑い物にされる謂われはない
ねぇ。」


さすがに俺の怒りを感じたのか、女は真顔になって向き直る。


「・・・・すまないねぇ、兄さん。別に虚仮にした訳じゃあないんだよ。ただアンタもしや・・・・忍じゃないのか
い?そうだろう?」

「──いかにもそうだが、忍のお遊びか冗談と思われるのは心外だ。さっきも言ったろう、俺は・・・・」


細い指が唇を這い、言葉を遮ぎられた。女は睫を伏せると、首を振った。


「アンタのことを、言ってるんじゃないのさ。問題は、私だ。・・・・兄さんアンタ、かなりの手練れだろう?おそら
く、上忍クラスだ。多分その名を聞けば、誰でも頷く程のお人なんじゃないのかい?こんな仕事をしている所
為で、人を見る目に自信はあるんだ。・・・・気持ちは有り難いがそんなアンタにおいそれとついていける程、
私は立派な人間じゃないってことさ。悪い事は言わないよ、そんな馬鹿な考えは捨てて今夜はこのまま寝ち
まうんだね。全く私のようなバケモノに大枚はたくなんざ、金をドブに捨てるようなものさ。」


どうなってる。二つ返事で頷くと思っていた女の意外な反応に、俺は混乱した。機会さえあれば誰でも抜け出
たいだろう場末の置屋に留まりたいとは、一体どんな了見だ。余程のしがらみがあるのか、それとも__言い
交わした男でも、いるのか。ちらと考えただけで胸が焦げる。

だが、どうあれこの体を手放すつもりは毛頭ない。女が何をほざこうが結果は一緒だ。俺は冷静を装い撓る体
を抱きしめながら、長い黒髪に顔を埋めた。


「自分のこととは云え、バケモノとはまた随分な言い草だ。確かにあんたの顔に傷はあるが、そこまで云う程
の酷いもんじゃあない。自虐も過ぎるってもんじゃないのかい?」


女は黙って俯いている。引き下がらない俺の態度に、考えあぐねている。


「それに面当てって訳じゃないが・・・・姐さん、あんたも忍じゃないのかい」


腕の中の体が跳ねた。俺は笑って、驚愕に色をなくす女の頬に口づけた。




色の道を極め、時には鬼畜とまで称された俺が、初めて女に溺れた。
ふらりと立ち寄った花街の遊女は腰まで流れる黒髪と顔の中心に一文字の傷を持ち、地味な身なりが逆に
俺の視線を捉えた。俺は単純な好奇心だけで、その女を買った。

だが女は、閨で奔放に俺を振り回した。

女の放埒な性技に、為す術がなかった。奉仕するというよりは客を道具にして愉悦を貪るその行為に、骨の
髄まで蕩かされた。思いも寄らぬ拾い物__運命的と云っては少女趣味だがこうなってはもう、誰の手にも渡
すつもりはない。手放すつもりもない。連日連夜熱に浮かされたように通い詰めながら、女を手に入れる算段
だけが頭の中で渦巻いていた。__どんな手段を使ってでも、女を自分の里に連れ帰る。




「どうあっても同業者の目は誤魔化せないか・・・・」


女が半ば観念したかのように呟く。俺は笑って、更に強く抱きしめた。


「当たり前さ。どんな事情があるのかは知らないが、幾ら何でも此処はあんたのいるべき場所じゃあないだろ
う。俺の生まれ故郷でもいい、何なら別の場所でもいい、__とにかくここから抜け出して、俺とまともな暮ら
しをしようじゃないか。」

「──・・・・どうしても、諦めるつもりはないのかい」

「勿論。」


女は溜息混じりに苦笑すると、指を伸ばし俺の髪を弄んだ。困惑に揺れていた瞳が、次第に挑戦的な色合い
を帯びる。


「──なら一つ、昔話をしよう。その話を聞いてそれでもアンタの気持ちが変わらないのなら・・・・アンタの好
きにするがいいさ。それでどうだい?」

「・・・・いいだろう。こんな蒸し暑い夜だ、どうせ碌に眠れやしない。精々面白い話でも聞かせて貰おうか」


鷹揚に頷くと寝そべったまま強く女を引き寄せる。されるがまま、女は俺の胸に顔を乗せた。女の瞳が閉じ
て、低い声が滑らかに流れ出す。俺の心音に耳を澄ませる様に、女はゆっくりと語り始めた。












アンタのお察し通り、確かに私は忍だ。いいや、忍だったと言うべきだろうねぇ。いずれにせよこんな風に身を
持ち崩した今となっては__もう、昔のことさ。

私の里は賢候と謳われた里長が治める、忍の世界でも一、二を争う大国だった。私は忍としては凡庸の部類
に入る人間で__中忍で、忍を育成する学校の教師をしていた。私の里ではアカデミーと言っていたけれど
ね。里外に全く出ない訳ではないが、危険な任務に就く確率も格段に少ない__私の日常は代わり映えの
しない静けさに満ちた、至って平凡な毎日だった。

そんな私が、ひとりの男と出会って、恋に落ちた。
相手は上忍で__しかもただの上忍じゃない、里にこの人ありと言われた程の、その天才的な実力で国内
外に名を轟かせた忍だった。その男がある事情で指導教官に任ぜられ、私の教え子を担当した。奇妙な縁で
知り合った私達は、忽ちのうちに魅かれあったのさ。

彼は難しい男だった。一見飄々として常に冷静に見えたがその中身は滾る程に熱い。その落差をちゃんと弁
えておかなければ、彼を正確に理解することは出来ない。私は教師という職業柄、人の性根を見抜く事には
長けていた。ある意味私の洞察力が、彼を虜にしたと言ってもいいだろう。彼は自分を理解してくれる相手
に、長期間飢えていた。加えて真逆にあるような私達の性格の違いも拍車をかけた。私達の感情は、まるで
絵に描いた様に燃え上がったよ。けれどそれは一方で、命懸けの行為でもあった・・・・何故かって?それは
彼には既に妻子があり__私の里で、『不義密通』は死罪だったからさ。


どうしたんだい?そんな顔をして。驚いたかい?・・・・そうだねぇ、無理もない、余所の人間には随分と無茶な
決まりに思えるだろうねぇ。だが私の里は忍と民間人が混在していて、しかも民間人の数が圧倒的に少なか
った。力有る忍が無体を働かないようにと、それは里長の苦肉の防御策だったのさ。


けれど恋愛なんてものは、障害が多ければ多いほど、邪魔が入れば入るほど燃え上がる。それが命懸けと
なれば尚更だ。今思い返してもお互い、さながら火が着いたようだったねぇ。私達は人目を盗んで忍び逢い、
ありとあらゆる場所で愛し合ったものさ__慎重に慎重を期してね。


そんなある日、珍しく私に里外の任務が下った。しかも危険を伴う潜入任務。その頃里に流布し始めていた麻
薬の原産地に潜り込み、その製造方法を調査した後、砦を壊滅させる。ここで初めて合点がいった。私は教
育者として毎日教壇に立って過ごしてきたが、実は私の専門は薬学だった。加えて独身で家族もいないとな
れば、身軽な私が選ばれたのも無理からぬ事だったのさ。しかしいくらなんでも一人で破壊工作に従じること
は不可能だ。そこで私のパートナーに選ばれたのが__彼だった。私達の秘めた関係に全く気付かない上
層部が、偶然その上忍を付けて寄越したんだ。


確かに、危険な任務だった。万が一敵方に正体が知れれば、命は無い。けれど私は__勿論彼も__この
計画に有頂天になっていた。絶えず人目を気にして忍び逢っていた私達にとって共に任務に就けるなど、まる
で天国への道行きと一緒だったのさ。私達は手に手を取って、まるで甘い逃避行のように、里を出立した。


実際、事は順調に運んだ。
私達は忍崩れの流れ者として身分を偽り、その砦に入り込んだ。元々忍として天性の器量と人当たりの良さ
に恵まれていた彼は、忽ちのうちに砦の首領の信頼を得た。私達は貴重な戦力として、随分丁重に扱われた
よ。砦は小さな部落と言える程の規模で、彼は其処を護る傭兵部隊の隊長として組織を鍛錬し、私は元医療
従事者という触れ込みで知識を伝播した。思いの外年若い首領の眼を眩ます為にも、手抜きは許されない。
私達は最初からそれが目的だったかの様に砦を守ることに腐心し、彼らの中に溶け込んだ。


__一時も気を抜けない毎日だった。けれど私はあれ程幸福な日々を、未だ知らない。
法的に何の足枷も無いあの砦の中で、彼は私に対する情愛を一切隠そうとしなかった。あまりのあからさま
な態度に、荒くれの男達に幾度揶揄されたことか。首領すら黙認していた。私は幸せだった。昼は上忍のサ
ポートに徹し、夜は首領の幼い息子に字を教える。可笑しいことに、私は其処でも先生と呼ばれたよ。__其
処にはいずれ終焉が待っているとは思えない程の、穏やかな時間が流れていた。




だが破綻は突然、やってきた。

密かに接触するはずだった里の忍が捉えられ、その伝令役はあっさり口を割ってしまった。計画は総て露見
し、私達の正体もバレた。

私達は逃げ出すことも叶わず、__捕縛はあっという間だった。私は死を、覚悟した。

自由を奪われた私達は引き離され、凄まじい拷問が上忍に加えられた。

たが、それだけで済む筈もない。

自分の面子を潰され、信頼を裏切られた首領の怒りは火を噴くように激しかった。そしてその憎悪の殆どが、
上忍に向けられた。肉体を傷つけるだけでは飽きたらず更なる苦しみを与えようと、首領は上忍の目の前で
__私を陵辱したのさ。






女は泣いていなかった。ただその細い肩が、細かく震えていた。俺はもう、その先を聞くつもりは無かった。も
ういい、そう言ってその唇を塞ごうと顔を寄せた刹那、女は身を起こして俺の腕をすり抜けると窓辺に立った。

俺は皆まで聞かずとも、その顛末を知っていた。女は羅胴村の虐殺事件の話をしている。一人の狂った忍が
ある村の女子供から年寄りまで、一人残らず全て皆殺しにした話だ。公にはされていないが、忍の間では一
つの猟奇的事件として伝説的に囁かれていた。俺も幾度となく噂を耳にしたことはあったが、こうして当事者
から話を聞くのは初めての事だ。






いいや、あれを正確には陵辱と呼べないね。__むしろ強姦されたと言えれば、どんなにか楽だったろう。
私は首領の施す丁寧で執拗な愛撫と焦らしに耐えきれず、自分から足を開いた。自ら望んで、彼を強請った。

上忍は館の柱に括りつけられて、その一部始終を見せつけられたのさ。





女は全裸で窓辺に立っていた。見上げる夜空から降る月光が、その裸身を蒼く染めている。俺は起き上がり
襦袢を掴むと、静かに女に寄り添った。





もう死ぬんだという諦めもあった。異常な状況に判断力も欠如していた。けれど言い訳したところで何の役にも
立ちはしない。私は正真正銘、首領との性行為を愉しんだ。愛しい男の前で、躊躇うことなく快楽を貪った。
したいことはすべてした。やれといわれたことはすべてやった。私と首領は、考えられる限り全ての淫楽に耽
った。

首領は私を攻めきれなくなると、途中から薬を服用していた。けれど私には、何の後天的要素も施されなかっ
た。誰が強要した訳でもない、私がしたことやったことすべて__それはすべて、私自身が望んだ事だった。


何時間続いたか分からない行為の果てに、とうとう私は気を失った。そして再び目を覚ました時には、殆どあ
らかたの事が終わっていたのさ。



__私が意識を取り戻した時、柱にくくりつけられていたのは首領の方だった。上忍は丁度首領の妻に手を
掛けている所で、その女の顔は耳を削がれ鼻を削がれ、両眼には千本が突き刺さっていた。首領は盛んに
何かを喚いていたが、正気を保っていられたのもそれまでだった。最後に目の前で息子を殺され、首領の精
神は完全に崩壊してしまった。


引き立てられた息子は幼いながらも、全てを予見していた。自分に死が迫っていることも、どうあっても其処か
ら逃れられないことも。__彼はただ一度、私の顔を認めるとあどけなく笑った。

その笑顔のまま、息子の首は落ちた。

首領は息子の遺体を前に大笑を始めた。彼の精神が空転している事は、私の目にも明らかだった。




掛けてやった襦袢の袖に手を通すと、女は微笑んで礼を言った。開け放った半窓から生温い風が吹き込んで
来る。女は俺の胸に静かに背中を預けると、再び夜空を仰ぎ見た。




あの砦には傭兵はいても、忍は私達だけだった。兵隊達は皆民間人上がりで、忍の扱いを知らなかった。忍
を殺さず暫く生け捕っておきたいなら、まず指を潰すべきだろう?__あるいは、手首を切り落とすか。
しかし彼らはそれをしなかった。ただ痛めつけてきつく捕縛しておけば、それで十分と思いこんでいた。

上忍は時間をかけて密かに戒めを緩め、隙を見て印を切った。後は解き放たれた影分身が思う様、血の粛清
を繰り返したのさ。彼は館の内外でとにかく動く者全てを殺して回ったらしい。淫楽に喘ぎやがて前後不覚に
陥っていた私は、それに全く気付かなかった。




「しかしどうせあんた達はその村を潰すつもりでいたんだろう。結局は、同じ結果になったんじゃないのかい」

「・・・・いいや、いくら何でもそこまでするつもりは無かったさ。小さな砦だ__首領の命は別として__精々
建物と畑に火をつければ、壊滅的な打撃になることは分かっていた。
それにあそこは、前領主の圧政から逃れ辿り着いた人々が苦心して造り上げた場所だった。彼らは外貨を得
るためやむなく麻薬造りに手を染めたのさ。だから製造工場を破壊し原料となる植物を根絶やしに出来たな
ら、無駄な殺生はするべきではない__それが私達の里長の考えであり願いだった。それをあの人も、重々
理解していた筈なんだ。なのに__それなのに・・・・」


女が顔を両手で覆った。低い嗚咽が漏れた。俺は女の過去を深く憐れんだが、それ以上に不可解なのがそ
の上忍のていたらくだ。繋ぎの忍が掴まったのは突発的な事故としても、退路を開くことも出来ず部下も逃が
せないとは何事だ。みすみす掴まり痛めつけられ挙げ句の果てに虐殺に走るとは、有能な忍の有り様とはと
ても思えない。第一愛人と共に任務に就き、その感情すら隠せないとは__その男は一体、本当に名のある
忍なのか。





ひとり残された首領は__それはそれは、酷い殺され方をしたものさ。上忍は彼を一息に殺さない様に、細
心の注意を払っていたぶった。その体が切り刻まれていない所など、どこも無かった。彼は生きながら、人間
から肉塊へと変えられたのさ。私が泣いて懇願しても、その手を止められなかった。やがて長い時間をかけて
首を切り落とすと、彼はそれを私に投げて寄越した。__首領の首が私の胸に当たって、床に転がったのを
覚えている。



凄惨も過ぎれば、美に取って代わると初めて知った。血と肉片を全身に浴びて立ち尽くす彼の姿は、幽鬼を
描いた一幅の絵画だった。沈黙に沈む私達の周囲には、ヒソとの物音一つしない。累々と転がる屍、血の匂
い。ただ濃厚な死の気配が、辺りを支配していた。


上忍は突然踵を返すと、私の傍に寄った。そうして突如激しく、私を打擲し始めた。打擲しながらも、彼は泣い
ていた。その双眸から絶え間なく涙を滴らせ、血を吐く様な声音で私を詰った。それは私達が拘束されてか
ら、初めて聞く彼の声だった。



__俺はお前を深く愛していた。この世でただ一人、お前だけを愛していた。俺のお前への思いがどれほど
激しく強いものか、お前には死んでも分かるまい。この情愛がもし形に出来たなら、それは燃えさかる炎とな
って俺とお前の身体を焼き尽くしただろう。だがそれでも構わない。俺はお前と出会ってから今まで、ただお
前の為だけに生きてきた。お前と生きる為にだけ、この辛い現実を耐えてきた。俺は幸福だった。それは俺に
対するお前の情愛が本物だと、知っていたからだ。しかしそれも、今日で終わった。お前は自ら進んで、あの
男と交わった。舌を噛む事も出来た。毒を呷ることも出来た。なのにお前はそれもせず、あの男に足を開いて
見せた。お前はお前自身を殺した。俺が愛したお前を、自分の手で殺して見せた。俺はお前が憎い。心底憎
い。いっそこの手で縊り殺してやれたなら、どんなにか楽だろう。しかしそうするには俺はお前を愛しすぎた。
情けない話だが、お前を手に掛けてやることも出来ぬ。だがこれからお前がその姿のまま、世間を闊歩する
のも許せぬ。だから俺はお前を抹殺する。お前の命を取らぬまま、お前をこの世から抹殺する。覚えておけ、
これが愚かなお前に対する、俺の最後の情愛だ。感謝されこそすれ、憎まれる筋合いは無い。



彼は私の胸ぐらを掴んでいた手を離すと、印を切った。その速度は余りにも早過ぎて、全く目で追う事が出来
なかった。だが何かを呟くその声で、自分が彼の術中にあるのを知った。私の記憶は、一旦そこで途切れる。
最後に見た彼の瞳はもう、私を認めていなかった。この世の一切を拒絶する様に、きつく閉じられたまま__
私が覚えているのは、それだけだ。



次に気付いた時、私は病院の寝台の上だった。白い天井、白い壁。知らぬ間に里に帰還していた。体中から
管が伸びてはいたが、五体満足で両手両足もちゃんと動く。私は心底安堵した。が、__何かが違う。生理
的感覚に、かなりの違和感がある。加えて枕元に集っている顔ぶれに、酷く驚いた。医療班のトップに親しく
していた上忍たち、元教え子。里長まで私の手を握っていた。なのに、肝心の彼の姿が見えない。
回らない呂律で彼の行方を尋ねた時、自分の声の高さに耳を疑った。
暫く後、差し出された鏡を見て、私は絶叫した。


そこに映っていたのは、私の顔をした女の姿__私は、『女』になっていた。



私の身体は、『陰陽転換の術』を施されていたのさ。





俺は驚きの余り上がりそうになった声を、かろうじて呑み込んだ。だが漏れ出た荒い息は止めようがない。今
女は何と言った?『女』になった?陰陽転換の術?__では、それではこの目の前の『女』は__



「もう分かっただろう、さっきの言葉の意味が。私は里を出るまで__いいや、彼にあの禁術をかけられるま
で、私はれっきとした男だった。
・・・・だから言ったんだよ。私は女の皮を被った、正真正銘の『バケモノ』さ。」


「──・・・その上忍はそれから、どうなったんだい・・・・」


掠れた声で聞いた。さっきまでの儚げな空気は霧散し、女はふてぶてしい視線で俺を見上げた。


「・・・・分からない。私をあの砦から里まで運んで、姿を消した。里の大門を守る門番に私を託して、自分は煙
のように消えたらしい。その後はようとして行方が知れない。勿論帰還命令に背けば、抜け忍扱いされる。追
い忍も出されて、里も随分と探索したらしいけれど・・・・結局は空振りに終わったようだよ。私もあれ以来ずっ
と、彼の姿を見ていない。」

「・・・・あんたは何故里を出た。何故こんな所にいる。云わばあんたは被害者だ、寧ろ里から手篤く保護され
るべきだろう?」

「決まってるだろう、無理な禁術をかけられて私のチャクラバランスは激しく乱れてしまった。自分で制御する
こともできずその所為で印を組んでも術が発動しない。そんな忍が、忍と言えるかい。
加えてあれ程の虐殺事件に拘わったのに、尋問に協力的でない。__私は肝心な所で口を閉ざしていたか
らね。とにかく里にとって私の存在は『恥』の象徴でありお荷物だ。それに里には彼の妻子もいる。そんな状
況でのんびり出来る程、私の神経は太くないさ。結局は放逐という形で里を出た。あとはアンタの想像通り、
無力な女のひとり身で生き延びるには、身体を売るしかない。流れ流れて此処に辿り着いたと言うわけさ。
__なぁに、私は何も悲観しちゃいない。あれ程の失態を犯して禁を破り、私は里で処刑されても至極当然だ
った。だがそうならなかったのは里長の慈悲だ。なら一度救われたこの命、自然に燃え尽きるまで流れに身
を任せてみようと思ったまでさ。だからアンタの同情も憐れみも必要ない。助けも欲しくない。・・・・これで分か
っただろう?」


女は俺が驚きで声も出せないと思ったのだろう、固まったままの俺の背中を軽く叩き、今度は打って変わって
優しい笑顔を見せる。


「兄さん、済まなかったね。随分と手間をとらせてしまった。私の詰まらない昔話もこれでお終いだよ。
・・・・もう夜明けも近い。お互い馬鹿な話は無かったことにして、いい加減休もうじゃないか。」


女は立ち尽くす俺の手を取り、寝台に導こうとした。だがその時俺の胸中を駆けめぐっていたのは恐れでも後
悔でもなく__溢れんばかりの感嘆と賞賛だった。


素晴らしい。実に、実に素晴らしい。


最初はしおらしい態度で涙ながらに辛い過去を告白し、驚天動地の真実を告げた後は『男』の性をちらつかせ
凄んでみせる。__実に強かに、すべてが計算されている。今までこの迫力に呑まれない男が、いただろう
か。

俺は女の腕を掴んで荒く引き寄せ、その身体を掻き抱いた。顎に指をかけ、激しく口づける。驚いた女が抵抗
し、俺の胸を叩く。だが冷たい舌をすくい上げて絡ませ合い、歯列と上顎をなぞって互いの唾液が混じり合う
頃には女の身体から力が抜けて、芯を失ったように俺に凭れていた。確かにこの『女』は、酷く快楽に弱い。


「──・・・・気に入った。ますます、気に入った。」

「え・・・・?」

「あんたが男だろうが女だろうが構わない。俺はあんたという人間が気に入った。約束通り、夜が明けたらあ
んたと二人で此処を出る。__そうだな、門出を祝して乾杯といこうか。姐さん、悪いがひとつ酒を付けてくれ
るかい?」

「・・・・ッ!な、何を言ってるんだ、アンタ人の話を聞いていなかったのかい!?言ったろう、私の身体には術
が掛かったままだ。これがいつ消えて元の私に戻るのか、それは誰にも分からない。そんなことになって一番
困るのは、アンタじゃないのかい!?」


慌てふためく女の顔が、可笑しくてならなかった。おそらくこの『昔話』を聞いた男も、俺が初めてでは無いだ
ろう。男の生理を知り尽くした性技、艶というには凄味のありすぎる媚態。これを色好みの男達が、ほうってお
く筈がない。身請けの話も幾度と無く出た筈だ。だがその度に『過去』を切り札にして男達を袖にする。__あ
る一つの、目的の為に。


「・・・・いいねぇ、元のあんたか・・・・。望む所だ、是非とも『男』のあんたに会ってみたいもんだねぇ。」

「アンタ両刀遣いだったのかい・・・・」

「いいや、俺は至ってノーマルだ。ただあんたに限っては、そんな固いことは云わないってことさ。」


俺のからかいに抗議して、女は唇を噛んだ。黒目がちの表情で見上げるその顔を眺めながら、俺はふと、くだ
んの上忍に同情を覚えた。この女には、人の判断力を狂わせる特殊な磁場の如き力がある。それはこの女
が『男』であった時もそうだろう。おそらくその上忍は、この磁力に呑まれたのだ。上忍を捉えておきながら、逆
に殺された首領とやらも同じだったに違いない。それを女が自覚していないだけに、尚のこと質が悪い。

__だが、俺は違う。

俺は対等に、この女と渡り合える自信がある。何よりこれから先、こんな暴れ馬に出会える確率も少ないだろ
う。とにかくまず、女をここから連れ出すことだ。

俺は笑いに歪んでいた唇を引き締め、真顔を造り女を呼んだ。


「・・・・姐さん、あんた此処にいれば、その上忍が迎えに来ると本気で思っているのかい」


女の顔が跳ね上がった。真意を見抜かれた怒りと羞恥で、その漆黒の瞳が爛々と光っている。俺はそっと、
その鼻柱の傷を撫でた。


「『陰陽転換の術』は難易度の高い禁術中の禁術だ。だが姐さんがその姿でいる限り、上忍は何処かで生き
ているってことになる__この術は術者の死でもってしか解術出来ないことで、有名だ。
あんたは忍の力を持たない女の身で上忍を探すのを諦め、一つ所に留まり向こうから出向くのを待つことにし
た。そして自分に熱を上げる男達に『昔話』を話して聞かせ、体よく追い返す。だが日常に帰った男達は寝物
語に聞いた奇想天外な話をそうそう直ぐには忘れられない。どんなに口止めしたところで話は漏れる。それこ
そが、あんたの狙いだろう?噂が噂を呼び客が客を呼ぶ。昔『男』だった凄腕の遊女の評判を聞きつけて、も
しかしたらくだんの上忍が訪ねて来るかも知れない。__あんたはそれを、待っている。
だがここにいる限り、あんたの願いが叶う日はおそらく来ないね。元忍にしては、随分と甘い考えだ」


是とも非とも言わず、女は俺を見ていた。ただその視線だけが、射抜くように強い。


「花街はどんな規模であれ、様々な国の間者が集う場所だ。俺も此処に来て、見知った顔を幾つか見かけ
た。忍は忍の気配に敏感だ。そんな危ない場所に抜け忍ともあろう男がノコノコやって来るとは、とてもじゃな
いが思えないねぇ。・・・・姐さん、気の毒だがあんたのやってることは限りなく徒労に近い。実はあんたも、そ
れを分かってるんじゃないのかい?」

「・・・・アンタに一体、私の何が分かる。何の権利があって・・・・私の気持ちを暴き立てる」

「決まってるさ、あんたに惚れたからだ」


女が息を詰め、それからつくづくと呆れた様に長い息を吐いた。


「・・・・まいったねぇ、アンタは今までの男達とは訳が違う。まったく私の見込み違いだったよ、まさかここまで
しつこいとはねぇ・・・・。」


物言いははすっぱだが、怒気は含まれていない。張りつめていた空気が一気に緩む。俺は再び、横に走る鼻
傷をなぞった。


「・・・・逢いに行ったらいい。」

「え?」

「あんたに張り合う訳じゃ無いが、俺も今まで随分と汚れ仕事をこなして来た。だがそのお陰で里にはかなり
の顔が利く。情報も入る。俺の連れとなれば籍だって用意出来る。そうなれば比較的自由に他国にも渡って
行ける。__一目でも逢いたいんだろう?その上忍を探し出して、逢ってきたらいい。惚れた女の為だ、それ
くらいの手伝いはしてやるさ。」

「・・・・アンタ自分が何を言ってるのか、分かってるのかい。それで私が彼の元に走ってしまったら、どうするん
だ」

「あぁ、それはないねぇ。あんたはけじめを着けた後、必ず俺の所に帰ってくる。その頃あんたは、俺の虜さ。」


女は呆けたように俺を見ていたが、突然けたたましく笑い出した。だがそれは以前、俺の神経を逆撫でしたも
のとは違う、大らかで伸びやかな笑い声だった。つられて俺も笑う。そうしてこんな風に笑ったのが、随分と久
しい事に気がついた。


「やれやれ、まったくアンタは剛胆だ。私も、とんだお人に掴まったもんだよ。」

「そうさ。もうこうなっちまったら、大人しく観念した方が身のためさ。」


言い合って、再び笑いあった。女はふいと俺の頭に手を伸ばし、髪に指を埋めた。


「最初兄さんが部屋に上がってきた時、私は酷く驚いたもんさ。兄さんの髪の色が、あの人とまったく同じ色だ
ったからねぇ。__あの人もそれはそれは美しい、霜が降った様な銀髪だった。正直あの人が変化して、私
に会いに来てくれたのかと思ったよ。けれど・・・・こうして違った形でここを出ることになるとはねぇ。こんな煤
けた場所でも、お別れするとなると名残惜しくなるから不思議だよ」


女がゆっくりと、俺の肩に凭れる。その言葉に、俺も暖かな感慨を覚えた。俺は窓に顔を向けて、女の肩を抱
きながら言った。


「__姐さん、俺達忍が行くのは、多かれ少なかれ修羅の道だ。だが俺も人の子だ、一人で歩くよりは二人
で行く方がいい。それが好いた人間なら、尚更だ。こうして袖擦り逢ったのも何かの縁__これからも俺と一
緒に、歩いてくれるかい。」


俺は照れを隠し、精一杯の気持ちを込めて告げたつもりだった。だが暫く経っても、女から何の返答も無い。
俺の言葉が、聞こえなかったのだろうか。不安になりそっと顔を覗き込み、__それから静かに、その細い背
中をさすった。



一筋の涙が、女の眦から零れていた。



そうして夜が明けるまで、窓の外を眺めていた。俺の髪の色と同じ銀の月が、凭れ合う俺達を照らしていた。




〈 了 〉





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