ブレスレス



意を決して、声を掛けた。

はたけ君に、じゃない。うみのイルカに、だ。


「──・・・・それで?」


君は誰、と視線で問い掛ける姿に、拳を握り締めた。


「青柳つぐみ、です。同じクラスの。」


うみのイルカにはいろんな噂があった。明らかにガセと分かるモノから、かなり信憑性に富んだものまで。

ヤクザの事務所に出入りしている。クスリの売買に手を染めている。孤児。金満な養父のもとに寄りつかず、
数多い女達の間を渡り歩いている。暴力的かつ好戦的性格。トルエン中毒。昔ケンカした相手にガソリンをか
けて火を付けたというのは__幾ら何でもデマだろう、流石にそれはソッコーで刑務所行きだ。


けれど、人気のない裏庭で対峙している彼は静かに佇んで、薬物中毒だという風評が嘘の様に、どこか理知
的な雰囲気さえ漂わせていた。

「あっ」

うみのイルカは穴の空くほど私の顔を見つめた後、ポンと手を叩くと私を指さした。


「副委員長、出席番号一番。」

「・・・・そうです。」


口調は穏やかなのに、何故か底の冷えた侮蔑を感じる。私は大きく息を吸い込んで一旦止めると、ありった
けの力を込めてうみのイルカを睨み付けた。


「今日お呼び立てしたのは、他でもありません、はたけ君のことです。」

「・・・・は?」


その名を出した途端に、視線がかなりの強悍さを帯びた。私は怯まず、一歩も引かない構えでそれを受ける
と、はっきりと言葉を区切る様に先を続けた。


「__止めて、下さい。はたけ君に、もう、あんな酷いこと、しないで下さい。」

「・・・・ええと?俺が?・・・・誰に何を・・・?」


しゃあしゃあとシラを切る姿に、怒りで腸が煮えた。さっきのお返しに、人差し指をうみのイルカに突きつける。


「惚けないでください、私、知ってるんです!__か、隔週の、火曜日か、木曜日。五時限目の、体育館の倉
庫で・・・・」


気のせいじゃない。確かにうみのイルカが、瞠目している。私は自分を叱咤して背筋を伸ばし、顎を上げて強
い視線を受け止めた。






もう、一ヶ月程前になる。その日私は朝から苛まれていた生理痛に耐えかねて、保健室で休もうと一人渡り
廊下を歩いていた。春の風が、盛大に芽吹き始めた木々の、新緑の匂いを運んで来る。前かがみに歩いてい
た私は、柔らかなその香りに束の間下腹の痛みを忘れ、開け放たれた窓に身を寄せた__その時だった。
階下の体育館の入り口に、見知った顔を見つけた。

__はたけ君だ。


一瞬、見間違いかと目を疑った。でも同じクラスの、しかも彼は委員長だったから、私は彼と比較的よく接して
いた。だから多分、・・・・いや絶対、人違いじゃない。

でもどうして。午後一番の予鈴はもうとっくに鳴り終わっていて、私たちのクラスは理科室で化学の授業中だ。
あんな場所に用がある訳がないし、しっかり者の彼が、まさか間違える筈もない。

どうしよう。追いかけて、理由を訊いてみようか。
混乱した頭で思考を巡らしていると、また下腹がズキリと痛んだ。悪化する体調と階下まで下りる面倒を天秤
に掛けているうち、彼の姿は建物の中に消えた。尚も迷う私に一陣の風が吹き付け、髪を乱す。ほとんど散り
尽くした桜の、数枚の花弁が最後の名残を告げるように、私の肩に舞い降りる。

次の瞬間、私は踵を返すと猛然と階段に急いだ。

__あのうみのイルカが、ポケットに手を入れて、悠然と体育館に足を踏み入れていた。




私は、うみのイルカが嫌いだった。
私だけではない、彼にあからさまな好意を寄せる人間など、ごく普通の生徒なら殆どいない。学校内外にそ
の名を馳せる程の問題行動の持ち主なのに、妙に成績は優秀。その所為で教師たちも彼を遠巻きに見守る
だけで、誰も決定的な言葉を口にしない。そんな特別待遇が、努力型の私には益々気に障った。
だからそんな彼と、真面目で穏やかなはたけ君との間に、接点など何も無いと思っていた。

暴力とか、恐喝とか、そんなことに巻き込まれていると、その時は思ったのだ。__彼が。


__ああ、だけど。


冷たい扉に押しつけた膝が震え、悪寒が背筋を駆け昇った。漏れそうになる叫びを両手で覆い、必死の思い
で堰き止めた。


__男の人が、あんな声を、出すなんて。


私は生まれて初めて、男同志のセックスを、目の当たりにしていた。





「・・・あー、君だったんだ。成る程。」


訳の分からない呟きを口にして、淡々と一人勝手に納得しているうみのイルカに、私の怒りは益々煽られた。
私は腰に手を当て仁王立ちで、彼に詰め寄った。


「どうなんですか!?自分のしたこと、認めますよね!?だったらもう、はたけ君に構わないで下さい!も、も
し、言うことを聞いて貰えないなら・・・・、私、このことを、誰か信頼の置ける大人に相談します!!」

「・・・・君って、覗きが趣味なの?それって犯罪だと思うけど?」

「──・・・・・っ、な、な、何を・・・・・ッ!!」


自分のしたことを棚に上げて、余りの言い様に言葉もなかった。赤くなったり、青くなったりする私を余裕の笑
みで眺めると、うみのイルカは額に手をあてて、考え込む仕種をした。


「えーと、・・・・つまり君の言いたいことは・・・・俺がはたけカカシの人権踏みにじって、好き放題してると・・・・
もしかして、そういうこと?」

「そ、それ以外の何があるっていうんですかッ!!」

「うーん、傷つくなぁ。俺誠心誠意、愛情込めて、アイツを悦ばせてるつもりなんだけどなぁ・・・」

「・・・・はぁッ!?」


絶句する私の脳裡に、あの時の光景が蘇った。

人っ子一人いない、静まり返った体育館で、微かに漏れ聞こえていた啜り泣きを。扉の細い隙間の向こうで
繰り広げられていた、あられもない痴態を。

獣のような格好で、四つん這いで突き上げられていた彼は確かに__涙を流していた。


あれが愛?悦び?冗談じゃない、そんなの詭弁だ。愛って、相手を慈しむことだろう。思いやることだろう。あ
れはただ抵抗出来ない相手を、好き勝手に嬲っていただけじゃないか。もし仮にそうだとしても、__それは
随分とマゾヒスティックな悦楽だ。・・・・まさか、彼にそんな性癖が?


「うーん、その解釈はちょっとズレてると思うなぁ。まぁ、例え君の言う様に、俺とカカシが単にサドマゾの関係
だとしても__そんな関係、直ぐに瓦解するね。SがMに無償でサービスするなんて、有り得ない話でしょ?
プロか、金貰ってるんでない限り。」

「・・・・・・」

「だからそこの隙間を埋めてるのが、俺の愛だって言ってるんだけど。その悪い頭でちょっと考えてみたら、す
ぐに分かる事だと思うんだけどなぁ。・・・・それでもやっぱり、君は告げ口する?」

「あ、当たり前です!あなたがなんと言おうと、まともな人間のすることじゃ無いでしょう!?これからもあんな
ことを強要するっていうのなら、私にも考え・・・・が・・・・っ・・・・?、──ッ!?」


衝撃と共に視界が反転して、青空が見えた。背中にザラついた土と小石の感触がする。頭を動かすとザリ、
と音がして、同時に濃い草いきれに咽せた。__抗う暇もなく、あっという間に私は灌木の繁みの向こうに突
き倒されていた。


「人間はだれでも危険に対する回避本能ってのを、持ってるもんだけど・・・・わざわざ向かってくるなんて、君
も大概馬鹿だよね。そこのところ、自覚してる?」


頭がジンジンと痺れ、背中が痛んだ。横たわる膝を割られて、初めて状況を理解した。のし掛かってくる胸板
を必死で押し返そうとしたが、頑丈な男の身体はビクともしない。叫ぼうとした口を手で塞がれて、私の上半
身は完全に自由を奪われた。


「君、カカシとシたいの?でもそれはちょっと無理だなぁ。どうしてもって言うなら、俺が相手するしかないんだ
けど?」


違う!違う違う、違う!!

私は確かにはたけ君が好きだった。でもそれは、愛とか付き合いたいとかセックスとか、そんな欲を含んだも
のとは絶対に違う。私はただ、彼を救いたかった。信頼して、好感を持っていた級友がトラブルに巻き込まれ
ているのなら、・・・・意に染まない陵辱を受けているのなら、私が守ってやりたかった。ただ彼を、傷つけたく
なかった。だから何度か彼らの行動を確認して、熟慮した上で、こうして話をつけようとうみのイルカを呼び出
した。直談判して事が収まるなら、それに越したことはないと思ったからだ。それが__


「君もある程度覚悟はしてきたと思うけど、まさかこんな生意気な口きいて、タダで済むと思ってないよね。」


手早くリボンを解かれて、ブラウスの襟元に手を掛けられた。そのまま一気に引きちぎられる。剥き出しの胸
に這った手がブラジャーをたくし上げ、片方の乳房が露出した。


「ネットで流してもいいし、それともプリントアウトしてバラまくか・・・・。青柳さん、君の日常生活を踏みつぶす
事なんて、俺にとってはごく簡単なことだよ。」


身体全体で私を押さえつけて、片手で自分のポケットを探っている。やがてケータイを取り出すと、薄く笑って
そのレンズを私に向けた。私は総毛だって、目を見開いた。


──・・・・写真を・・・・ッ!!!


嫌だ、嫌だ嫌だ、嫌だ!!

私はありったけの力を込めて身を捩り、激しく首を振った。振り上げた足を膝で押さえ込まれて、押しつけられ
た痛みに呻いた。心臓が早鐘のように打ち、恐怖で喉が締め上げられ息が詰まった。


うみのイルカの苛烈な怒りを、はっきりと感じた。彼の宣言した通り、私の平穏な日常生活はその手の中で
粉々に握りつぶされようとしている。こんな危険な男にむざむざ近づいた自分の短慮、判断能力の無さを嘆い
てみても、もう遅い。ほんの少し前まで、友人達と和やかに過ごしていた教室の風景が、目の前で陽炎のよう
に揺らめいている。あそこに帰りたかった。時間を巻き戻したかった。郷愁と悲哀に染まりながら手を伸ばす
と、その幻は儚く消えた。


涙で視界が歪む。嗚咽を漏らす私に全く動じることなく、うみのイルカは捲れ上がったスカートの中に、手を入
れて来た__その時だった。

突然彼は身を起こし、後ろの気配を探ると立ち上がった。制服の汚れを手早く払いながら、さっきまでの行為
など何もなかったかの様に、柔らかく笑って見せた。


「青柳さん、君運がいいなぁ。命拾いしたね。」


私もつられて身を起こすと、向こうから誰かが近づいて来るのに気が付いた。__はたけ君だ!
思わず叫んで助けを求めようとした私は、左頬に走った鋭い痛みにそのまま固まった。恐る恐る、痺れる頬を
撫でた。

親にさえ、殴られたことなどなかったのに!!__生まれて初めて、私は他人から頬を張られた。


うみのイルカは冷えた一瞥をくれると、呆然と頬を押さえたままの私に背を向けて、繁みを跨いで歩き去った。
彼の姿を認めたはたけ君が立ち止まって、その様子を伺っている。私には、気付いていない。


その表情は信じられないことに__遠目でも分かるほどに、輝いていた。


すれ違ううみのイルカに、はたけ君が何事か話しかけている。けれど彼はそれを全く綺麗に無視したまま、一
顧だにせず、歩調を緩めず歩き続ける。その態度に怯むことなく、はたけ君は前を行く背中に声をかけ続けて
いた。その声に媚と艶が交じっていると感じたのは__私の僻みだったのだろうか。


二人の姿はほどなく消えた。私は我に返るとノロノロと身繕いを始め、下着をつけ直した。ブラウスのボタン
が、幾つか弾け飛んでいる。震える手で、リボンを結んだ。写真を撮られたのか、撮られなかったのか、自分
でもよく分からない。辺りを覆い始めた夕焼けが、木々の影を長く濃く、伸ばしている。グラウンドから部活中
の生徒達の声が、カン高く響いていた。

地面に散らばったカバンの中身を、ひとつひとつ拾い集めた。教科書に落ちる雫が、自分の涙だと知った時、
私は初めて号泣した。









車窓から流れ去る景色を、ボンヤリと眺めていた。

ほんの少しばかり廻ったアルコールが、心と体に心地よい気怠さをもたらしている。暮れなずむ街の風景が、
高速で後方に流れて行く様を、吊革に掴まりながら見つめた。電車内に明かりがつき始め、窓ガラスに眠そう
な私の顔が写る。


卒業以来三度目の同窓会に、やはり今回も、彼は出席していなかった。


あれから高校を卒業し、そのままエスカレーター式に上の大学に入った私は、もうそろそろ就職活動の時期を
迎えていた。平々凡々としか言い様のない、ぬるく甘やかされた生活に首まで浸かっていた身には、__例
えそれが準備期間であろうと__社会の風に初めて肌身を晒すことは、かなりのストレスとしか言い様がな
い。そんな時かけられた同窓会の誘いに、鬱憤晴らしの期待と、ごく僅かの怖れを抱きながらも、私は一も二
もなく参加した。けれどその場所に、うみのイルカは勿論のこと__はたけカカシの姿も無かった。


あの出来事以来、結局私はうみのイルカと一度も接触することなく、卒業を迎えた。お互い姿は目にしても、
一度も口を利かない。もちろん彼も、私の存在など歯牙にもかけていなかったに違いない。

はたけ君に対しても、似たようなものだった。突然態度を硬化させた私に、最初彼は驚いたのか、何度も訝し
げな視線を投げてきた。けれどその時、私の心は澱のようにドロドロと濁って頑ななままで、どうしても彼の顔
を直視出来なかった。やがて進級してクラスが別々になった私たちは、話をするどころか視線を合わせる機会
さえ無くなり、それから卒業後、一度も姿を見ていない。


今更ながら、私はそれを、とても後悔していた。


大学に進学後、高校時代とは比べモノにならない程雑多な友人達と交流を持った私は、ようやっと気付き始
めていた。


__人間には、人それぞれ、様々な愛の形がある。そしてそれは当事者が苦痛や嫌悪を訴えない限り、他
人が外から口出しすべき事ではない。


あの頃の私は、それを全く分かっていなかった。


うみのイルカがあの時、私にしたことを、一生許すつもりはない。けれど未熟な自分の価値観を過信して、近
づいてはいけない人間に近づき、買う必要のない怒りを買ったのは、まごうことなき私なのだ。

だから私は一度、きちんとはたけ君に謝りたかった。コトの経緯を話さないまでも、あの頃の不遜な態度を、
正直に詫びたかった。そして再び彼の笑顔を見ることが出来たら、今でも時折胸を刺す辛い思い出に、一応
のケリをつけられるような気がしていた。

しかし卒業後彼も、うみのイルカの行方もようとして知れず、彼ら不在の同窓会でも、不思議なほどにその噂
を聞かなかった。はたけ君はさておき、あれ程異彩を放っていたうみのイルカに対しても、だ。__私も、詮索
はしなかった。皆が口を噤んでいるなら、私もそれに倣うだけだ。


私が彼らの行方に、興味が無いと言ったら嘘になる。その証拠に私は今でも時々、彼らの姿を夢に見る。
__人目を忍んで奔放に愛し合っていた、ふたりの姿を。講義中の教室の黒板に、昼食を食べているキャン
パスの青空に、満員電車に揺られている、その車窓に__はっきりとした、白日夢で。


金で殆どすべての問題が解決するこのご時世で、やろうと思えば彼らの居所を知ることは容易だろう。けれど
私は、そんな手段を取る気はないし、これからも、決してない。


人間には元々、危機に対する回避本能が備わっている。あからさまに危険な代物には、近づかないのが得
策なのだ。


車内のアナウンスが目的地への到着を告げた。人波に押されて私も外に出る。夕闇がプラットホームを包み
始めていた。三年間慣れ親しんだ校歌を鼻歌で奏でながら、私は家路を急いだ。



〈 了 〉






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