すみれは、ブルー



ありえない方向に、足が曲がっている。

イルカの、じゃない。俺の足が、だ。


汗と黴の匂いのするマットにきつく押しつけられて、強い力で折り畳まれた。
自分の両足が、両耳の脇に見える、冗談の様な体位。
のし掛かるイルカの体重と丸められた妙な姿勢の所為で、息が上手く出来ない。

閉じていた眼を恐る恐る開けると、仰け反るイルカの喉が見えた。


__ああ、イイ。


快感に、イルカの喉が喘ぐ。白い喉仏が何度も上下して、抜き差しされる熱棒と一緒に震える。イルカの顔か
ら滴った汗が、数滴俺の頬に落ちた。


・・・・ああ、キスしたい。

キスしたいキスしたい、キスしたい。


その赤い唇で、舌で、俺の口唇をこじ開けて欲しい。舌を絡め合って、唾液を流し込んで、俺の歯列をなぞっ
て欲しい。
けれどイルカは、滅多にキスなんかしてくれない。

今日も午後一番の予鈴が鳴る、その最中に体育館に連れ込まれ、人気のない用具室に押し込まれて服を剥
がれた。胸のポケットからチューブを取り出され、お義理にも愛撫とは言えない動きの指が軟膏を塗りつけ
る。セックスというよりは動物の交尾のような性急さで、俺は後腔を穿たれた。


「――・・・・・ッ、あ、あ、あ・・・・っ」

「・・・っ、バカ、・・・・声、出すなよ、人が、来るだろ・・・」

「あ・・・・、・・・・っ、ま、待って、イルカ・・・待って、俺、も・・・ッ、だ、め・・・・ッ」

「――冗、談・・・、・・・っ言うな、よ――・・・・」


イルカは俺を胡乱な眼で見下ろすと、片手で俺の陰茎の根本を強く握り締めた。そこまで来ていた快楽の奔
流を堰き止められて、思わず悲鳴を上げた。イルカが涙ぐむ俺を見下ろして、嗤う。身を屈めて俺の耳に口を
寄せると、荒い息が木霊した。


「・・・・あぁ・・・・、イイ・・・お前ん中・・・・すっげェ、イイ・・・・」


イルカの低い掠れ声が、耳孔を犯し脊髄を駆け下り、下腹を直撃する。もう今度こそ、我慢できそうにない。
俺はイルカの背中に手を回して、涙ながらに懇願した。


「ハ・・・・ッ、あ・・・!あぁ・・・っ!お・・・、お願い、イルカ・・・っ、いるかぁぁ・・・っ!!」

「・・・・っ・・・・、う、あぁ、ぁ――・・・・っ」


二人揃って爛れた声を上げた。イルカは一層高く突き上げた後腰を震わせ、俺の中に熱を放った。同時に指
を解かれた俺も、堪らずそのまま射精した。




イルカがまだ熱い欲望を引き抜く。俺はようやっと窮屈な姿勢から解放されて、荒い呼吸で腹と背中を波打た
せていた。遠いグラウンドから、規則正しい笛の音が聞こえてくる。大方どこかのクラスが、ランニングでもさせ
られているんだろう。

イルカは怠そうに身を起こすと、ズボンを引き上げジッパーを上げた。放り投げていた学ランを掴むと壁に凭れ
て座り込んだ。


「・・・・イルカ、頼むからゴムつけてよ、俺用意してるんだからさ・・・・」


すっかり身支度を整えたイルカとは反対に、俺は殆ど半裸だった。シャツのボタンが幾つか吹き飛んでいる。
小さく溜息をついて袖を通し、何処かに落ちている筈の眼鏡を手探りで探した。


「バーカ、なんで男相手にゴムつけなきゃなんねーの。孕む訳でも無し、生でヤれるぐらいしか、オマエの取り
柄はないだろ」


イルカの爪先が、俺の眼鏡を蹴って寄越した。酷い。いつもながらの粗暴な言葉の切っ先が、今日は特に鋭
い気がして俺は唇を噛んだ。イルカはそんな俺の視線など知らぬ顔で、内ポケットから煙草を取り出すと口に
くわえた。


「・・・・っ!ダメだよ、イルカ、そんなのバレたら一発で退学だよ!煙草はマズイって、ホントにヤメなよ!!」


必死で言い募る俺の言葉を鼻でせせら笑うと、イルカはライターを取り出し火を付けた。いかにも美味そうに吸
うその素振りは、あからさまな俺へのあてつけだ。


「あのさぁ、はたけくん。オマエいっつも口を開けば規則だルールだって、そればっかだけどさぁ、そんなんで
毎日生きてて何が楽しい訳?」

「――・・・・・・」

「人生なるようにしかなんねーよ、ゴチャゴチャ言うな」


確かに四角四面なこの性格を揶揄する言葉に、何も言えない。けれど俺だって、言いたいことは山ほどある。
・・・・・もっと優しくして欲しい。もっと抱き合いたい、キスしたい。もっと一緒にいたい、学校の外でも会って欲
しい。もっと会話をして・・・・イルカの声が聞きたいし、俺の話も聞いて欲しい。__そう言ってやりたいのは
山々なのに、いざイルカの強い視線に晒されると、結局口を開けない。

だけど今日は__もうずっと聞きたかったことを、両手を握り締めて反芻し、小さな声で呟いた。


「あの・・・イルカ・・・・、今度の木曜さ――・・・・」

「ダメ、忙しい。しばらく無理。」


有無を言わさず斬って捨てる言葉に、俺はガックリと項垂れた。大方予想通りとはいえ、折角のイルカの誕生
日に__やはり一緒にいたかった。どうせ何人もいる彼女達と過ごすんだ、俺は恨みがましい視線を悟られ
まいと、斜めに俯いた。


「・・・・でも来週ならいいよ、一週間後。」

「エッ!?・・・・ホントッ!?」


自分でも情けない程に声が上擦っていた。滅多に約束をしてくれないイルカの言葉に、嬉しさで一気に舞い上
がった。一週間遅れでもいい、きちんとイルカの誕生日を祝える。この場限りでもいい、イルカがそれを許して
くれた。興奮で脈打つ胸を押さえる俺に、イルカが人の悪い笑みを浮かべて手招きする。四つん這いで躙り寄
った肩を掴まれて、乱暴に引き寄せられた。


「__それまで、浮気するなよ」

「・・・・ッ、な――・・・・っ!!」


唇に、暖かい感触。信じられない。イルカに口づけられている。キスだけじゃない、イルカは普段、俺の身体に
さえなかなか触れてくれない。
この間もそうだった。こんな時間に、ここに連れ込まれて今日は乗っからせてやると言われて、おずおずとイル
カの上に腰を落としたまではよかったが、その後ピクリとも動かず、触れてもくれなかった。結局俺は自分で
腰を使い、自分のモノを扱かされて、寝そべるイルカの前で泣きながら恥辱的な果て方をさせられた。
そのイルカが__


「・・・・ン・・・・ッ、・・・・んん、ん――・・・・」


俺は夢中で暖かく湿った口内を貪った。舌を捻じ入れて、動きの鈍いイルカの舌をすくい上げて絡ませる。目
の前の首に縋り付いて、唾液を啜った。甘い。煙草臭い唾液でも、こんな機会に滅多に恵まれない俺にとって
は正に甘露だ。もっと奧まで貪りたいと、口づけたまま身を乗り出したその時__


「・・・・――っ、ツ――ッッ!!」


ガリ、と肉を削る音がして、鉄錆の味が拡がった。イルカに舌を、噛まれていた。


「・・・・調子にのるなよ。この次までお預けだっつったろ。それまで、もし他のヤツとヤったら・・・・殺す」


__酷い。
なんで、そんなこと。そんなこと、有り得ない。これからも、今までだって、俺にはイルカしかいないっていうの
に。それはイルカだって十分知ってる筈だ。それなのに、なんでこんな__

口を押さえて震える俺の身体を押しのけると、イルカはスタスタと入り口に向かった。その姿に、俺を気遣う様
子は欠片もない。舌が熱を持って痺れている。痛みに涙を滲ませてイルカの背を見送る。
それでも俺は__やっぱりどうしようもなく、イルカが好きだった。

右肩を落として、いつも怠そうに足を引きずる歩き方。肩までかかったざんばらな黒髪。顔を走る傷。その強い
目。その赤い唇。その何もかもが、どうしようもなく俺を酔わせた。
正直その理由は、自分でもよく分からない。
けれどどんなにキツイ言葉を吐かれようが、酷く扱われようが、イルカへの気持ちだけは揺るぎようがなかっ
た。
潤んだ瞳に映る背中が、歪む。
恨み言一つ言えず、茫洋とその後ろ姿を眺めていると、イルカは突然踵を返して俺の傍に戻って来た。

指で俺の顎を掴むと、真顔で覗き込んでくる。

たったそれだけの仕種に、泣きたい程に胸が高鳴る。イルカはそんな俺の胸の内を見透かしたのか、ニヤリと
笑うと耳元で囁いた。


「・・・手伝ってやろうか・・・・?」

「・・・え?」

「掻き出すの、手伝ってやろうか・・・?」


言葉の意味を理解して、俺の頬は爆発的に赤く染まった。イルカが単なる親切心で、こんなことを言う訳がな
い。もしかして__まさか。


「・・・・いっ、いいよ、そんなこと!自分で出来る、大丈夫だから__」

「あっそ。ならいいよ。・・・どうぞ、『ごゆっくり』。」


イルカは手を離し乾いた一瞥をくれると、今度こそ本当に出ていってしまった。音を立てて閉じた扉を眺めなが
ら、全身に冷や汗が流れた。

やっぱり、イルカは知っている。


いつもこうして、取り残された俺が一人で__自分を慰めていることを。


一体、いつから。
羞恥に身を焦がし躊躇いながらも、それでも今日も我慢が出来なかった。
まだズクズクとぬかるんでいる自分の後腔に指を突き入れて、イルカの残滓をすくい取る。自分のモノに擦り
つけて緩く扱いただけで、ソレは直ぐに硬く勃ち上がる。__俺は熱い息を吐いた。

だって、一度じゃ足りない。

一方的な性行為の後で、身体の中に燻る熱を逃がすには、この方法しかない。
上下する俺の手に、イルカの手が重なる。勿論それは、俺の脳内で描かれた透明なイルカの手だ。
イルカが俺の頬を優しく撫でる。その唇が俺の額に押しあてられ瞼に滑り、鼻を掠めて唇に落ちる。
軽く啄む唇は喉元を下りて一旦鎖骨で止まり、やがて乳首を探し当てると、キチリと歯を立てられた。

息が、上がる。腰が、揺れる。

__あぁ、イキそう。

手の中で濡れそぼった性器が粘着質な音を立てる。静まり返った部屋に俺の荒い息だけが響いて、思わず
上がりそうになる呻き声を呑み込み、限界まで足を開いた。


イルカ。イルカイルカ__イルカ!!


名を呼びながら強く扱いて、達した。
駆け抜けた快感の名残りに震えていた身体が修まると、ドサリとマットに突っ伏した。周囲には再び静寂が戻
り、外からはボールを蹴りあう音が聞こえてくる。駆け回る足音。サッカーの練習試合でも、始まったのかも知
れない。漸く上がっていた息が元に戻ると、手早く汚れを払拭して制服を着た。__怠い。

・・・・もういい加減教室に戻らないと、皆に不審に思われる。

そう分かってはいるのに、二度の射精で弛緩した身体に、猛烈な睡魔が襲ってきた。

もう、どうでもいい。このまま眠ってしまおうか。

投げやりな思考で夢現の境を彷徨う俺の耳に、金属の擦れあう音が響いた。閉じかけた瞼に、四肢に絡みつ
いた鎖が映る。その鎖は俺の喉に、肩に、腕に、胸に巻き付き、その先はイルカの手の中に伸びていた。透
明なイルカが、微笑む。俺もつられて、笑い返した。俺が描くイルカはいつだって少しだけ、実物より優しく微
笑む。

__いいよ、イルカ。俺を全部、イルカにあげる。

俺の身体は全部、心なんか勿論__この髪の毛一本、血の一滴まですべて、イルカのものだ。


だからイルカも、もっときつく、その鎖で俺を縛って__締め上げてよ。


口の中の傷が、熱く疼いた。窓から差し込む午後の日差しが、俺の身体に降り注ぐ。沸き上がる歓声が、誰
かのゴールを告げた。

俺は重い瞼をゆっくりと閉じながら、幸福な微睡みに身を任せた。




〈 了 〉






TEXT