ハートに火をつけて



・・・・じゃあ。


「・・・おやすみなさい、カカシ先生。」


烏羽色の艶やかな髪。子鹿のように濡れた瞳。ほんのり桜色の、少しだけ肉厚な唇。その鼻にかかる掠れた
傷跡さえ___


__うぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!


「おっ、おやすみなさいっ!イルカ先生っっ!!」


カカシはイルカの部屋の前から、脱兎のごとく逃げ出した。






「へー、そ。」


コップ酒を啜りながら適当に相槌を打つ。アスマの耳にカカシの吐く言葉の十分の一も入っていない。馴染み
の屋台で一杯引っ掛けて帰ろうと思ったのが運のつき。先客だったカカシに捕まり、もう小一時間もイルカの
愛らしさについて詳細なレクチャーを受けていた。


「そんで付き合って三ヶ月にもなるのに、手も握ってないってか?オメー、どっか身体の具合悪いんじゃねぇ
の?いつもどーりさっさとヤッちまえばいいじゃねぇか。」


カカシはあからさまな侮蔑の視線をアスマに投げると、おでんの皿をつついた。


「・・・まったくお前はどうしてそう、下世話な物言いしか出来ないのかねぇ。あの人はねぇ、そんな爛れた欲望
で汚しちゃいけない人なんだよ、どこまでも純粋で、真っ直ぐで、優しくて・・・・。お前もあの穢れなき瞳で見つ
められてみろよ!あの人はさぁ、天使・・・・そう、天使なんだよ!そんな清らかな存在を陵辱できるか!?お
前は鬼か?獣か?強姦魔か!?」

「へっ、自分の事を棚に上げてまぁ、よく言うぜ。『鬼畜』って言葉はオメーの為にあるんじゃなかったのかよ、
カカシィ。」


過去の自分の所行を指摘されれば何も言えない。カカシは右斜め上35度の方向に視線を彷徨わせながら、
酒を呷るフリをした。


「お・・・オレはあの人に出会って生まれ変わったんだよ!今までのオレはオレじゃないの!あの人に出会っ
てからがほんとのオレなの!!」

「・・・そのセリフ、今までおまえが喰っちゃあ捨てた女達の前で言ってみ。確実に刺されるね。」


うぅと唸って撃沈するカカシを、アスマはさも愉快そうに見下ろした。カカシだって実は諸々の欲求を持ってい
る。正直言えばイルカとあんなこともこんなこともしたい。だがアスマがあげつらう様に昔の自分がしてきたこと
を思えば、それは不可能だ。そんなことをしてイルカを過去の女達と同様な、性欲処理の道具に貶めたくなか
った。だが男としての生理的欲求は厳然と存在するわけで、カカシの中では常に本音と建て前、天使と悪魔
がアフラマズダとアーリマンの如く永遠の戦いを繰り広げている。それなのに、今日のイルカはいつにもまし
て__その身体からは何故か薔薇の香りが立ち上り、かぐわしい馨香はいたくカカシの煩悩中枢を刺激し
た。結果カカシはいくらもイルカの傍にいられず、部屋まで送り届けると逃げ出すように踵を返した。


「そこまで入れ込んでるってことは、いずれ所帯を持ちたいんだろ?」


アスマの問いに、カカシは頬に手を当て身を捩る。


「・・・そりゃぁ、いずれは、絶対、モチロン。」

「ケッ、なら尚のこと綺麗事言っててどーするよ。一緒になりゃぁ、目の前で屁もこきゃ鼻もほじるだろーが。
ヤれ、ヤっちまえ、はやいとこ突っ込んじまえ。」

「お前はぁぁぁぁ!!なっ、なんて事をぉぉぉ!!オレのイルカさんを汚すなぁぁぁ!!あの人はトイレなんか行
かないんだよっ、育ちがいいからっ!!」


だめだこりゃ。ウチのガキどもの方が余程現実を知ってるね。アスマはコップに残った酒を一気に飲み干した。


「バーーカ。お互い目クソ耳クソ鼻クソまで愛して夫婦ってもんだろーが。」

「うぁぁぁぁぁ!やめろー!!やめてくれーぇぇぇぇ!!!頼むからもう何も言うなぁぁぁぁ!!!」


ゴン、とカカシが額をカウンターに打ち付ける。してやったりと嗤うアスマの声とカカシの咆哮が、絡まり合って
キンと冷えた夜空に消えた。








__あ、ゴミ出しまた忘れちゃった。


イルカはアパートの階段を駆け下りるカカシの背を見送ると、項垂れて部屋の鍵を開けた。


まあいいか、あの人この部屋に上がろうともしないし。


イルカはふてくされて荒れ放題の部屋を見渡した。何回か逃したゴミ出しの所為でビニール袋は積み上が
り、台所の流しには食器が山積み。唯でさえ狭い居間の机の周りには書類と書籍が雪崩を起こし、足の踏み
場もない。朝抜け出たままの寝台のシーツは、いつ替えたのだったか。


イルカはカカシとの将来に、何の期待も持っていなかった。カカシの女癖の悪さは折り紙付きだったし、短期
間での刺激的な享楽は得られても誠実な愛情など、望める筈がない。それを知りつつカカシと付き合い始め
たのは、ある目的があったからだ。



写輪眼のカカシは忍として随一の技量を持つが、アッチの技術もスゴイらしい。



アッチとは、もちろん下半身関係を指す。それをイルカに吹き込んだのは、医療班にいるミチル他数名の友人
達だ。発展性の無い関係に踏み込むのを躊躇うイルカに、ミチル達は眦をつり上げてハッパをかけた。


__じゃあ、聞くけどさ、イルカ。アンタ、ヨすぎて失神したことある?

失神?・・・・ハハハ、いくらなんでも、そんな大袈裟な。白髪三千丈じゃあるまいし、まさか。

__ホントもホント、事実だって!あの人の元カノから聞いたんだから。アンタも知ってるでしょ、外回りのカス
ミ上忍!いい?イルカ、こんな機会滅多にないわよ。一生の記念よ、人生の金字塔よ!グズグズしてる暇あ
ったら、相手の気が変わらない内にさっさとヤっちゃいな!わかった?!


イルカは牛のような乳と蜂のようにねじ切れそうな胴をした、カスミの姿を思い描いた。カカシが自分の何を気
に入ったのか知らないが、確かにあんなゴージャスな美人と我が身を比べたら、今回の事は得難いチャンス
と言える。それにイルカは記念とか限定とかレアもの等の言葉に酷く弱かった。正直カカシの神業とも称され
る性技に、少なからず興味があったのも事実だ。


そうして強引な友人達の声援と多少の己の下心に後押しされ、イルカはカカシの言葉に頷いたのだった。





__だがそれから数ヶ月後、現実は。


玄関の三和土に力無く座り込み、イルカは蹲って膝を抱えた。


・・・今日も、何もされなかった。


こんなことがあるのだろうか。いいトシをした男と女が付き合って、指一本触れられないとは。そんなに自分は
魅力に欠けるのか。ならなぜカカシは自分と付き合っているのだろう。そこが分からない。先刻も部屋でテレ
ビを見ていたカカシにさり気なく擦り寄ってみたけれど、ビクリと身体を強張らせ、返って間を取られてしまっ
た。男を惑わせると聞いて、せっかく服用した高額なローズオイルも効果が無かったらしい。


矢のように体験談を聞かせろとせっつくミチルには、キスはしたと言ってある。しかしそれは体面上の真っ赤な
嘘で、未だカカシはイルカの手も握って来ないのだ。


イルカは半泣きになって膝に顔を埋めた。何故?なんで?どうしてなにもしない?決まり悪くて友人達の顔も
見れやしない。一体あの人は、何が楽しくて私と一緒にいるのだろう?


暗闇の中、イルカはハッと顔を上げた。


もしや__もしかして、これは嫌がらせなのか?


カカシとは懇意になる前、一度だけ口論したことがある。もうとっくに手打ちになった話だったが__もしかし
て、あの時のことを根に持っているのかも知れない。だから恋人という名目で自分を縛り付け、その実生殺し
の状態で放置する。・・・・きっとそうだ、___そうにきまってる!!


イルカはユラリと立ち上がった。握った拳は白く血の気が引いて、細かく震えている。


__頭に来た。


先のことなんかどうでもいい。こうなったら何が何でも、カカシとシてやる。ヤってやる。そしてその華麗なテク
ニックとやらを見せてもらおうじゃないか。その後別れようが捨てられようが、知ったこっちゃない。一度でい
い。中忍くの一の面子にかけて、カカシを籠絡してやる。その気にしてみせる。

荒れた自分の部屋を見渡す。カカシの部屋では埒が明かない。ここに引っ張り込もう。催淫効果のある香を焚
いて、出した食事にクスリを混ぜてもいい。幸いミチルは医療班にいる。恥を忍んで頼み込めば、幾らでも分
けてくれる。いや、上忍の舌を誤魔化せないなら、自分が口移しで飲ませてもいい__それにはまず、この部
屋の掃除だ!





カカシが逆上したイルカに喰われるまで、あと数日。





木の葉指定の半透明ゴミ袋を手に猛然と片付けを始めたイルカの部屋の外では、初雪が落ち始めていた。




TEXT