ケープ・フィアー



死と危険は特別な衣装をまとわずにやってくる
トマス・ハリス 『ハンニバル』










駆けていた。暗い森の中を。


もうどれくらいこうして走り回っているのか、自分でも分からない。息は完全に切れ、口内はもうとうに干上がっ
たままだ。剥き出しの皮膚には幾つもの切り傷が刻まれ、深い疲労に足が縺れた。


それでも、立ち止まる訳にはいかない。立ち止まれば、私は即座に死を迎えることになる。気力を振り絞り飛
翔を続ける私の前に突如視界が大きく開け、静謐な深みを湛えた水面が広がった。そよとも吹かない風に煽
られることもなく、鏡のような硬質の輝きを放つその水面には、降るような満月が映っている。__私はこの場
所に見覚えがあった。


ここは__鐘楼湖!!


やみくもに走りながらも、こんな所まで来ていたのだ。ここまで来れば、里の境界までほど近い。



__助かるかも知れない。



絶望的な逃避行を続けていた私の胸に、初めて僅かばかりの希望が灯った。この里の外に出ることさえ出来
れば、仲間の放った使役の鳥が私を掴まえる筈だ。その翼に乗れば、私は一気に自分の里に辿り着くことが
出来る。


__やれる。まだ結界を破る力は残っている。


私は残ったチャクラの殆どを下肢に集め、最大限の跳躍力で地を蹴った。その瞬間。



私の右足に極細のワイヤーが絡まり、空中にいた私はそのまま地面に叩きつけられた。



『チッ、まったくチョロチョロと。とんだ手間かけさせやがって。』


したたかに打った肩の痛みに呻く私の傍らに、音もなく二人の男が降り立った。


『“鼠”捕獲。他のヤツらにも知らせろ。』

『たまげたね、女一人にこれほど手こずるとはな。』

『まったく、とんだ大捕物だ。火影様に知れたらコトだぜ。』


言葉を発する間もなく手早く拘束される。猿轡を噛まされる頃には、私の周りに幾多の人影が落ちていた。五
人__いや、全部で六人はいる。


『危なかったな、外に出られたらアウトだった』

『何弱気なことを言ってる。こっちは追跡のプロだ、多少逃げ延びた所で変わりはないさ。』

『違いない』

『とりあえず、両手足の関節は全部はずせ。また逃げられたら面倒だ。』


私は今度こそ、深い絶望の闇に墜ちた。剥き出しの二の腕に刺青。背負った大刀。様々な文様の獣の面。



暗部。



情報で聞き齧ってはいたが間近に見るのは初めてだった。しかしこの貴重な経験がこの先何の役に立つこと
も無い。__私は死ぬのだ。確実に。拷問か、輪姦か。どちらが先に来るにせよ、まともな死に方を望める筈
もなかった。


『おいおいおい、股関節だけは外すなよ。後で楽しめないからな。』


低く乾いた笑い声が何層にも重なり私を舐める。細かい震えが絶え間なく全身を走り、死を目前にした恐怖
に、私は声にならない叫びを上げ続けた。


『処置をしたら、運べ。いくら何でもここではマズイ。』


何本もの腕が音もなく私に伸びる。冷たい汗が滝の様に背筋を伝い、頬を伝う涙が咬まされた布地に染み込
み唾液と交じる。


__私はきつく、目を閉じた。













「・・・・ルカ、イルカ、イルカっ!!」


急激に浮上した意識に引きずられ、私は目を見開いた。心臓は早鐘のように激しく打ち、掲げた両手には微
かに震えが走っている。


「・・・・ぁあ、あ・・・・あ・・・・」

「どうしたの、イルカ!落ち着いて、こっちを向いて!」


言われて横を見れば、色違いの双眸が気遣わしげに私を覗き込んでいた。


「・・・また怖い夢を見たんだろう、イルカ。こんなにうなされて・・・。でももう大丈夫、目が覚めてしまえば、ただ
の夢だよ。何も怖いことはないからね。」


大きな手が、優しく私の頬を包み込み、撫でる。私は堪らず夫の首に縋り付いた。急な動きにベッドのスプリ
ングが激しく軋む。また、やってしまった。私は時折こうして悪夢にうなされては大声を上げ、隣で休む夫を起
こしてしまう。


「・・・イルカ、寝る前に映画を観ただろう、その所為だよ。だから止めたんだよ。イルカの夢見の悪さにも困っ
たもんだけど、こればっかりはどうにもしてあげられないなぁ・・・」


そう、私は昨夜テレビで放映していた恐怖映画を観た。怖い内容だと分かっていたのにどうしても結末が知り
たくて、最後まで見てしまった。ヒロインが追い回されるのを、夫の腕に齧り付いてながめいてたけれど、一緒
に観てもらえれば大丈夫だと思っていた。なのにこの有様。情けなかった。もう二度とテレビなど見ない。小さ
な声で謝罪の言葉を呟くと、夫は苦笑しながら私の髪を長い指で梳いた。


「それはまた極端だけど、これから見るのはニュースぐらいにしておいた方がいいかも知れないね。イルカは
感じやすいから。さ、もう少しお休み。朝までまだ大分間があるよ。・・・俺の眼をご覧。」


普段は閉じられている夫の左目がゆっくりと開き、暗闇に赤い瞳が浮き上がる。緩く回り始める巴の紋様。
それを見つめているだけで昴ぶった神経が凪いでゆく。暖かい手のひらが背中を擦り、少しずつ落ちていく心
拍数に合わせて心地よい睡魔が足元から忍び寄る。


__夫の腕に抱かれながら、私は再び眠りの森に落ちた。









眩しく輝く木漏れ日の中、私はのんびりと足を進める。前を行くウロが、時折探るように私を振り返る。ウロは
夫の飼っている忍犬のなかで、私の一番のお気に入りだ。鳥の囀り、微かに吹き抜ける風、木々のざわめ
き、ウロの息遣い。家から少し歩けば美しい湖の畔にでる。夫を送り出した後、こうして毎朝ウロと散歩をする
のが私の日課になっていた。

ほどなく湿った空気が流れてくる。いくらもしない内に目の前が開け、朝日が美しく反射する水面が見えた。
私はこの湖の名前を知らない。ウロは暫くの間、軽くうち寄せる水際を嗅ぎまわり、やがて気が済んだのかゴ
ロリと腹這いに寝そべった。私もその隣に腰を下ろし頭を撫でてやりながら、その超大型な体躯に凭れる。ウ
ロは一瞬厚く皮の垂れた瞼の下から私を見上げたが、またすぐに視線を水辺に落とした。

こうして長閑で美しい風景に囲まれていても、私の胸の中は常に夫の面影で溢れている。



夫は、私の世界のすべてだった。



広大な敷地の真ん中に立つ家。夫。夫の忍犬たち。これが私の知る、世界のすべてだ。家を取り囲む林や森
が、いったいどこへどんな風に続いているのか私は知らない。知りたいとも思わない。生来虚弱な私の身体に
街の空気は合わないし、人見知りな性格が幸いして、他人と顔を合わせることもない生活に不満はない。
だが、夫に関しては別だった。


その存在を思うだけで、私の胸は締め付けられ、愛しさで涙が溢れた。


私達は朝、数え切れない程の口付けを交わし合う。任務に向かう夫を笑顔で送らなければいけないのに、別
れの辛さに私はどうしても涙ぐむ。毎日、毎朝、変わることなく。夫はそんな私を心配して、いつまでも睦言を
囁き続ける。それでも容赦なく過ぎる時間は、無情にも私達を引き剥がし、夫は何度も振り返りながら家を後
にする。私は夫の姿が見えなくなるまで手を振り続け、その姿が視界から消えた瞬間から、私はその帰りを
待つだけのただの人形になり果てる。



湖畔を滑る風に、少しだけ強さが増してきた。

いつまでも同じ姿勢でいるのも辛い。鍔の広い帽子を被り直しゆっくり立ち上がろうとすると、ドン、と腹の中
から衝撃が走った。僅かに下腹が張る。ウロは私を護る様に素早く立ち上がると、その巨体を寄せた。私は
微笑んでその背中に手を着くと、ようやっと腰を上げ、大きく突き出た腹をさすりながら歩き始めた。


__私は夫の子を宿し、もうすでに産み月に入っていた。








私は夫を、口で慰めるのが好きだ。

私の身体がこうなってしまっては、もうさすがにまともな性行為は難しい。だから私は、口で奉仕させて欲しい
と、夜毎夫にせがむ。身を粉にして働いてくれる夫に、これが私に出来るせめてもの事だから。しかし、いつも
夫はそんな無理はさせたくないと、困った顔で首を横に振る。納得できない私と小さな言い争いをした後、結
局は私の言い分が通る。__私はベッドに座った夫の前に跪き、その足の間に顔を埋める。


布越しに擦っただけでゆるく勃ち上がっているそれを、私は丁寧に引きずり出す。陰茎には手を触れず、陰嚢
に舌を這わせると夫の息が短く詰まる。最初は私を気遣い何かと声を掛けていた夫も、やがて舌の動きに我
を忘れる。片方ずつ口の中で転がし優しく押し出すことを繰り返すと、少しずつ頭上の息が乱れ始める。唾液
で濡れそぼる袋から唇を離せば、硬く勃ち上がった先端からは粘着質な液体が溢れていた。ワザと指で広く
全体にそれを擦りつけると、夫は切なげに目を細め、私の頬に手を当てて腰を揺らめかす。そんな風に強請る
姿が愛しくて可愛くて、私は笑みを抑えられない。そうして初めて陰茎に唇を押しつければ、夫の躰は強張り
思わず呻きが漏れる。縦に横に、表も裏も、丁寧に舐め上げ時折先端の裂け目に舌をねじ込み、緩急をつけ
扱く。夫の肩が、息が、荒く弾み、陰茎に軽く歯を立てると大きく仰け反り声を上げた。


お願い、私を呼んで。


胸の中でそう懇願すると、長く骨張った指が私の髪を掻き回す。イルカ、いるかいるか。切羽詰まった呼びか
けに、夫の限界が近いことを知る。右手で先端を握り込み左手で陰嚢を揉みしだく。大仰な粘着音を立てて
這う唇の中で夫の分身は極限まで張りつめ__甘く縋るような吐息と共に震えて、弾けた。


飲み下した精液がまだ残る私の唇に、夫は厭うことなく口を寄せる。咽頭を通り胃の腑に落ちた幾多の精子
達はゆっくりと消化され、やがて腹の子の栄養として吸収される。その不可思議で滑稽な事実に思いを馳せ
ながら、私達は互いの髪をまさぐり合い、舌を絡ませ、唾液を啜り、激しい口付けをいつまでも交わす。


「・・・イルカ、愛してる。」


__私もこの世で誰よりも、夫を愛している。









闇が濃い。


私は寝台に拘束されていた。


どれほど気を失っていたのか。今は昼なのか夜なのか。光一つ差し込まない部屋で、私は朦朧とした意識の
まま辺りを見回した。酷い臭気と激しい頭痛。身体中の痛み。__まだ関節は外されたままだ。

やがて足元にいくつかの明かりが灯り、私を見下ろす幾つもの影が浮かび上がった。橙の光に反射する動物
の面。一時忘れかけていた恐怖心が喉元で固まり、爆発的に膨れ上がる。


_____!!!


突然身体の中心に冷たい金属が突き立てられた。有り得ない程の大きさに会陰が押し拡げられ、内側から
圧迫される、おぞましい感覚。


『おー、スゲェ!見てみろよ、子宮の奧まで丸見えだぜ』


与えられた恥辱の、あまりの深さに声すら出ない。声帯が引きつりながら震え、諾々と流れる涙がこめかみを
伝い降りた。


『膣鏡か、さすがここはシャレたもんがあるな。・・・・なんだクスコー式かよ!?基本は桜井式だろ、それから
真鍮性はダメだ、プラスチックタイプにしろ。透明な分、中が全部覗けるからな。おい、確か注液カテーテルが
あっただろ?アレ持ってこいよ。』

『出たよ、マニアが!でもよ、直腸に直接はマズイいんじゃねぇの、効きすぎてヘタするとよがり狂うぜ』

『ハッ、それが何だよ、どうせコイツは死ぬんだろ、かんけーねーよ』


何か生ぬるい液体が流し込まれた。そう思う間もなく膣の中で開いていた金属の羽根が、内壁の肉を挟んだ
まま勢いよく閉じて引きずり出される。神経がひき千切られるかの様な激痛に、私の脳髄は赤く染まって痺れ
た。


『おい、弄ぶのは構わないが傷は付けるな。無傷で生け捕ってこいと三代目からの命令だ。』

『チェッ、とっ掴まえたのはオレ達の手柄なのに、一人で楽しむ気かよ、ジィさんは。』

『直接尋問するんだろ。それから医療班に下げ渡して人体実験の道具か、あるいは孕まされるか・・・案外お
前にお鉢が回ってくんじゃねーの』

『冗談言うな。コイツの流した情報のお陰で、何人の仲間が死んだと思ってる。この場で八つ裂きにしても足り
ないってのに。』

『お、効いてきたみたいだぜ』


__熱い。とても、とても熱い。


さっきまで流していた冷や汗とは違う、身体の中から沸騰するような熱さが、全身に玉のような汗を滴らせて
いた。身の置き所のない膿んだ熱が多少身を捩ったところで発散される筈も無く、身体の内を外を這い回る。


『けどよ、こうしてるとこの女もなかなかソソるよな、受付所じゃあ何とも思わなかったけどな。』

『こんだけクスリが入れば、誰だってこうなるさ。見ろよ、ヤル気マンマンって顔だぜ?』

『言っとくが中には挿れるな。三代目にバレたらドヤされるどころの騒ぎじゃないぞ』


__いや!嫌!嫌!嫌!!


お願い、お願いだから、後生だから、__そんなことは言わないで!!何度も挿れて、突いて、擦って貰わな
ければ、この熱は__内臓すべてが溶けながら流れ出てしまいそうな、このどうしようもなく淫蕩な欲求は_
_私の身体を、精神を焼き尽くし、脳を犯し、私という人格を崩壊させるだろう。だから、だから__


『鼠ちゃんがこんなになってるのに、お預けかよ?そりゃねえよ』

『まあそう焦るなよ、下の口がダメなら上の口があるだろ?追いかけっこに付き合わされた責任は、きっちりと
ってもらおうぜ。』

『鼠ちゃん、かわいい声で鳴いてみな?上手に出来たらご褒美あげてもいいぜ』


男達は一斉に笑い声を上げると私の猿轡を外し、右腕の関節が戻された。ジッパーを下ろす音が響き渡り、
私は歓びの涙に霞んだ眼で懇願しながら、熱い塊に震える手を伸ばそうと身を捩った。











・・・・ルカ、イルカ、

「__イルカっ!!目を開けて!!」


激しく揺さぶられて目が覚めた。息は過呼吸寸前まで上がり、寝間着は全身の冷や汗を吸ってぐっしょりと濡
れていた。


「イルカ!俺に合わせて、息をして。__そう、その調子。・・・うん、ゆっくりでいいから、俺の眼を見て。」


ああ、私はまた__また!!


「・・・可哀想に、酷いうなされようだったよ、イルカ。それに、すごい汗だ。着替えたほうがいいね。」


汗をぬぐい、ゆっくりとボタンを外してゆく夫の優しさに堪えきれず、私は声を上げて泣いた。私は夫を心から
愛している。そして子供を授かったと知った時は本当に嬉しかった。日を追う毎に成長し、元気に腹を蹴るこの
子に対するこの感情は、紛れもなく親の情愛だ。なのに__それなのに、なぜこんなにも不安なのだろう。何
度押さえつけても喉元まで迫り上がる、この恐怖の正体は__一体何なのだろう。


「そんなに泣かないで、イルカ。予定日が近くなれば、気持ちが不安定になるのは当たり前だよ。恥ずかしい
事でも、なんでもないさ。だから顔を上げて、・・・ね、イルカ、・・・俺の瞳をご覧・・・」


ゆらゆらと揺れる、赤い瞳。まるで熱を孕む様な視線は忽ちに私の精神を沈静化する。とはいえ未だ強烈に
残る悪夢の残滓を感じながら、__私は混沌とした眠りに落ちた。





翌朝、私は夫の顔を直視出来なかった。いつもの悪夢の所為とはいえ、子供の様に泣き叫んで晒した昨夜
の醜態を、思い出すだけで身が竦んだ。布団を被ったまま顔を出そうとしない私に、夫は苦笑しながら何度も
呼びかけた。


「イルカ。今日は任務の都合でウロを連れていくけれど、いい?」


私は慌てて、布団を剥いだ。ウロと一緒に過ごせない心細さもあるが、何より任務の内容が心配だった。


「大丈夫、たいしたことじゃないさ。ウロは土遁が得意だろう?それでちょっと連れていくだけだよ。その代わ
り、ホラ。」


夫は懐からまるで手品の様に、小さな生き物を取りだした。毛糸玉のように丸まって夫の腕の中に収まって
いるそれは__見事な銀色の毛並みをした、小犬だった。


「コイツを置いていくよ。まだ子供でよく動くから、飽きないよ、きっと。」

「忍犬なの?」

「いいや。そうしようと思ってたんだけど、どうやら向かないみたいでね。愛玩用だよ。」


銀というよりは白に近い、白銀の毛並み。濡れた碧色の瞳。持ち上がりくるりと丸まった尻尾。あまりの愛らし
さに目が釘付けになったまま、動けない。


「・・・名前は?」

「ギン」


大きな体でうろうろ歩くからウロ。銀色の毛並みだからギン。夫の名付けように思わず吹き出すと、安堵した
表情で夫も笑った。


「気に入った?なら今日からコイツはイルカのものだよ」


私達はギンを間に挟んだまま、何度も口付けを繰り返した。






これほど時間が早く過ぎるのも、何年振りだろう。見るもの総てに好奇心を示すギンを、追いかけ回している
だけであっという間に時は過ぎた。__そのギンの姿が見えないことに気付いたのは、昼食の用意をした後
だ。分け合おうと少し多めに盛った食事の皿を握り、私は何度もギンの名を呼んだ。


だが返事はない。


家の中にいないと見切りをつけた私は、庭に降りた。ギンの鳴き声を聞き漏らさないよう、耳をそばだてて歩
く。結構な広さの庭を探し歩くだけで、汗が滲んだ。すぐに見つかると踏んでいた私は、段々と焦り始めた。敷
地の外に出てしまったのだろうか。しかし子供とはいえ、仮にも忍犬の訓練を受けているギンが、そんな無茶
をするだろうか。もう一度大きな声でギンの名を呼んだ時、カン高い鳴き声が、私の耳に飛び込んできた。


裏庭。


それもどうやら、庭の隅にある土蔵の中から聞こえたようだった。足を向けた私は、その厚い扉の前で暫しの
間躊躇った。普段は優しい夫が、絶対に近づいてはいけないと、私に厳命していたのがこの土蔵だった。中
には様々な武器や火器類、毒薬、禁術に相当する巻物まである。素人がうかつに手を触れれば何が起こる
か分からない。だから絶対に近づいてはいけない。そう告げる時の夫の厳しさに気圧されて、私は滅多に裏
庭にさえ足を踏み入れたことはなかった。


だが__今確かに、この中からギンの鳴き声がする。


私の気配を近くに感じたのか、ギンの鳴き声がいっそう高く上がった。まるで助けを求めるかのような響きに、
私はいてもたってもいられなかった。いつもは厳重に施錠してある扉が何故開いたのかは分からない。けれど
この中にいるギンの身に、何かあったに違いない。


夫の言い付けに背くのは忍びない。しかしこのままギンを捨て置く訳にもいかない。私は意を決して扉の中に
身を滑らせた。




初めて足を踏み入れた蔵の中は思った通り薄暗く、ヒンヤリと湿った空気が澱み、カビ臭い。真ん中をはしる
通路の両側には雑多な巻物や金物が堆く積まれ、数える程しかない天窓から差し込む光の中に、細かな埃
が歩く度に舞い上がる。__物音一つしない静謐な空間に、確かにギンの呼吸音と鳴き声が響いていた。


「ギン!」


私は声を張り上げた。するとそれに呼応するように悲痛な鳴き声が上がった。


「ギン!どこ?どこにいるの!?出ておいで!!」


キャンキャンと高い声の上がる場所は、先刻から変わっていない。慎重に足を進めていた私は闇に目を凝ら
し、あっという叫び声を上げた。


突き当たりの一番奥の壁から、ギンの下肢が生えていた。いや、壁だと思っていたのは扉の間違いで、その
奧にもう一つ部屋があるらしい。見るからに重そうな扉と壁の間に、ギンの小さな身体は今にも折れそうに挟
まっていた。


「ギン!」


駆け寄って扉を開け隙間をつくってやると、ギンは突然の自由に驚いて奧の部屋に駆け込んでしまった。


「ギン!こっちにおいで!」


扉の奧に呼びかけても反応がない。おそるおそる中を覗くと足元には数段の階段が下に伸びていた。僅か数
段の段差だというのに、その先は闇に包まれたように暗い。私は再び躊躇した。しかし此処まで来てギンを連
れ帰らない訳にはいかない。


私は唾を呑み込み、ゆっくりと階段を降り始めた。




降り立った部屋の闇に目が慣れるまで、暫くの時間を要した。壁にはひとつの窓もなく、僅かに後ろから差し
込む光は、開け放ってきた扉からのものだ。


「ギン!」


呼びかけた声が暗い部屋に木霊する。ギンは私の姿を認めると一直線に駆け寄ってきた。その熱く息づく小
さな身体を抱きしめた時、私の目には安堵の余り涙が浮かんでいた。


「まったくもう・・・・心配させないで」


ギンの小さな舌が私の頬を舐める。くすぐったさのあまり顔を逸らしたその時、私は初めてその部屋の異様な
空気に気が付いた。


そう広くない部屋の天井から、何本もの金属の鎖がぶら下がっていた。汚れた壁にビッシリと這うのは唯のシ
ミではなく黴と苔だ。目を凝らせば床に幾つもの車輪や鉄棒、漏斗、荒縄や革紐が転がっている。備え付け
の棚には色とりどりの液体が入った瓶。部屋の隅にある鉄柵の檻の中には、無数の棘が突きだしている。そ
して、この耐え難い酷い臭い__排泄物や吐瀉物、それから__血の匂いだ。


部屋の中央に鎮座する、まるで分娩台の様な椅子を見た時、私の身体は震えだした。


何故__なぜだ、私はこの場所を知っている。蔵の中に足を踏み入れたのも、この部屋の存在を知ったのも
初めてだというのに。椅子の傍に小さなテーブルがあった。そこに並べられた金属の医療器具を目にした瞬
間、私は叫ばずにはいられないほどの頭痛に見舞われた。



わたし__私は__以前、ここで__この部屋で__



「イルカ」


突然後ろからかけられた声に、私は驚きのあまり飛び上がった。入り口からの逆光で顔は見えないが、長身
で痩躯の男が階段の側に佇んでいた。


「そこにいるのはイルカだろう?・・・・なぜこんな所にいるの?ここに入ってはいけないと、あれほど言った筈
だよね?」


どうして__どうしてこんな時間に__帰りは夕方になるはずなのに__いいや、私はこんな男は知らない。
見たこともない。私は腕の中のギンをきつく抱いて後ずさった。


「イルカ、こっちにおいで。災難だったね、ギンだろう?小動物は稀に結界を破ってしまうことがあるからね、心
配になって見に来たんだが・・・案の定だったな。・・・大丈夫、怒ってなんかいないよ?こんなところにいたらイ
ルカの身体にさわるよ、だからゆっくりこっちにおいで。」


手甲をはめた手が私に伸びる。__だめだ、行ってはいけない!私の中のもう一人の自分が、激しく警告し
ている。お前の名前は、イルカではない。お前のいるべき場所はここではない。もうずっと遠い、違う場所にあ
る。今すぐここから逃げろ、さもなくばお前の身は破滅してしまう。__ああ、逃げたい、逃げ出したい__ここ
からすぐに__でも一体どうやって?それに、この身体はいったい__?


「大丈夫だよ、イルカ。家に戻れば、嫌なこともすぐに忘れるよ。さ、一緒に帰ろう」


親しげに呼びかけるこの男は誰だ。いいや、声は__この声は一度、聞いたことがある。



・・・・・・両手足の関節は全部はずせ。また逃げられたら面倒だ・・・・・・


・・・・・・コイツの流した情報のお陰で、何人の仲間が死んだと思ってる・・・・この場で八つ裂きにしても足りな
い・・・・



あっという間に壁際に追いつめられる。私の身体は歯の根が合わないほど震えていた。暗闇に赤い灯がボウ
と浮かぶ。それは禍々しい光を放つ、男の瞳だった。


「イルカ、俺の眼をご覧。」


見てはいけない。そう理性では分かっているのに、身体は勝手に吸い寄せられる。男の手が私の肩を掴む。

__違う、私の名前はイルカではない。私は__私の名は__







カーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。身を起こそうとした私は、頭の中心に鈍痛を覚えて顔を顰め
た。


「・・・イルカ、もう起きたの?具合はどう?」


隣で寝ていた夫が、私の顔を覗き込む。額にあてられた手が、ひんやりとして心地よい。


「少し熱があるかもしれないね・・・・大丈夫、微熱だよ、休んでいればすぐに良くなるさ」


確かに少し怠い。私は夫にされるがまま、その胸に顔を埋めた。・・・そうだ、ギンはどうしたのだろう。あの銀
色の毛糸玉のような、愛らしい小犬は。


「ギン?・・・何言ってるの、イルカ。まだ寝惚けてる?昨日はウロと散歩に行ったんだろう?」


夫は私の髪を長い指で梳いた。そう、そうだった。私はウロと湖まで散歩に出掛け、疲れてそのまま休んだの
だ。でも__とても恐い夢を見たような気がする。私はまた、泣かなかっただろうか。夫を困らせなかっただろ
うか。


「イルカ、昨夜恐い映画を観ただろう、その所為だよ。イルカは感じやすいからね・・・」


そう、私は昨夜、どうしても結末が知りたくて、恐怖映画を最後まで観てしまった。その所為で夢を見た。もう
二度とテレビは見たくない。


「もう少しお休み・・・イルカ。愛してるよ、俺の眼をご覧。」


夫の手のひらが優しく私の頬を撫でる。赤く浮かぶ巴の紋様。まるで慰撫するように廻るそれは、私を心地よ
い眠りの沼へと引きずり込む。



__もちろん、私もこの世で誰よりも、夫を愛している。





〈 了 〉




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