読書する女



「イルカせんせーっ!!」


終業後、夕方から座っている受付所で元教え子達を出迎える。その笑顔につられたイルカが順に頭を撫でて
やると、並んだ顔が一層輝く。子供はスキンシップが好きだ。金髪の狐子は勿論、無愛想で知られる黒髪の
少年ですら頬を緩ませる。すると後ろに立っていた影が子供達を押しのけるように前に進み、報告書を差し出
した。


「こんにちは、イルカ先生」


晒されている片目が弓なりに細められてイルカを見つめる。イルカが口の中でもごもごと返答する間、カカシの
柔らかい微笑に周囲から熱い吐息が漏れる。__詐欺。詐欺師。ペテン師。里の英雄に相応しい爽やかな
笑顔を振りまくこの男の中身が、教え子達より子供だと誰が知るだろう。ごはん食べさせてくれなきゃいやだ
いやだと床に転がる昨夜の姿を、此処にいる全員に見せてやりたかった。


「先生、今日定時であがれますか?」

「・・・・いえ、少し残業になると思います。」

「そうですか、じゃあ俺先に帰って待ってますね。」


そう言って子供達と部屋を出ていく後ろ姿に幾つもの濡れた視線が貼り付き、見送るイルカの背中には羨望
と嫉妬の眼差しが突き刺さる。イルカは気持ちを切り替えようと人知れず湿った息を吐いて、書類の束に目を
落とした。





帰る、といってもカカシが自分の部屋に帰るわけがない。どうせまっすぐ、イルカの家に向かうのだ。そうして
いつまでも唯ひたすらイルカの帰りを待ち続ける。なにもせず、ただひたすら。その後イルカが帰宅し、疲れた
体にムチ打ち家事に没頭する間中も、ピッタリと傍に貼り付き口を動かし続ける。喋っている。__今日一日
あったこと、イルカと離れている間、見たこと、聞いたことを。

大の大人ならすんなりと済むはずの食事と風呂がまた問題だった。早く風呂に入れと促せば、服を脱がせて
くれなきゃいやだと駄々を捏ね一緒に入ろうといつまでもせがむ。ようやっと食卓の前に座ればイルカの身体
にデカい図体でしなだれかかり、食べさせろと口を開ける。甘いものが苦手で魚が好物という噂は大嘘。放っ
ておけばいくらでもジャンクフードを食べ続け、イルカが気まぐれに買ってきた赤福を一箱ペロリと平らげてみ
せた時は腰を抜かした。あっさりした和食よりはハンバーグやオムライス等の洋食を数段好み、先日型抜きし
たチキンライスに旗を立ててやったら嬉しさの余り泣いていた。




こんなカカシでも、数ヶ月前初めて口説かれた時は正直天にも昇る気持ちだった。

だって、あの『写輪眼のカカシ』だし。

クールビューティーな天才忍者。超絶な美男子で資産家。気性も穏やかで周囲に気配りを絶やさず、人望も
あるとくれば、神聖視されて当然だ。そんなカカシに__華やかな女性遍歴があるとしても__ふたつ名を持
つ里の誉れに正面切って告白されて、嬉しくない訳がなかった。



それなのに。


・・・話が違う。



晴れて恋人同士となった後、伝え聞いた完璧なエスコートぶりをカカシが披露することは終ぞなかった。暇さ
えあればイルカの家に上がり込み、一歩も外に出ずいつまでもダラダラと過ごす。そしてただひたすら自分を
ぶつけてくる。本を読めば取り上げられ、床に新聞を広げて読んでいたらカカシが降ってきたことさえある。も
ちろん持ち帰りの仕事などさせて貰えない。イルカが友人達と出掛けることも随分と減った。カカシが知れば
盛大にむくれるからだ。__とにかく一時も一人でいられない。かまってくれとゴネる。大人の体をした子供の
面倒を見る肉体的疲労よりも、私生活を徹底的に拘束される精神的不自由に、イルカはほとほと参っていた。
こんなのは恋人といわない。恋人同士とはお互いもっと労り合うものだ。


だがイルカは、それほど長くないカカシとの付き合いの中で、ようやっと理解し始めていた。


どうやらカカシにとってイルカは『はたけカカシ』という分厚い化けの皮を脱ぐことのできる、唯一の相手らしい。
『みんなのヒーローはたけカカシ』を演じる必要もなく、素のままの自然体でいられる快感を覚えてからは、文
字通り我慢という字を忘れている。__それにしても。

内面と外面という言葉があるにしても、いささか酷すぎやしないか。

イルカの前でのカカシは甘えと言うよりは退行__もはや別人格だ。


そんなカカシに日々振り回される苦労もつゆ知らず、周囲からはやっかみばかり増え続ける。


イヤ。もーイヤ。


とにかくこの状況をなんとかしないことには、自分の方が潰れてしまう。何とか対策を立てなければ。一体こん
な症例にはどう対処すべきなのか。それにはまず勉強だ。カカシには残業と偽った時間で、イルカは図書室
で心理学の参考文献を漁り始めた。



『改訂 臨床心理学』 『初級 精神衛生学』 『学校臨床心理学』 『新・心理診断法』 『現代社会心理学』
・・・・山と積み上げた本に次々と手を伸ばし、荒く斜め読みしていく。反動形成、抑圧、昇華、自我、イド、超
自我、防衛機制、エクスポージャー、系統的脱感作法、グシュタルト療法・・・懐かしかった。その昔教職課程
で必死に勉強した。今こうして目を通してみると随分と抜け落ちていたのを感じる。それだけ危機感の無い生
活を送ってきた証拠と反省しながらも、一方でどこかしっくり来ない。もう少し別の方向に目を向けた方が良い
のだろうか。疲労で痛む目頭を揉みながら、イルカは最後の本に手を伸ばした。今までのものとは少々毛色
の違った、若い女性向けの心理学入門書、というか性格診断の様な本だ。軽い気持ちでパラパラと捲ってい
たイルカはある項目に目を奪われた。



『思い残し症候群』

『・・・これは、親から然るべき愛情を受けるべき時期に、充分な愛情を受け取れなかったことが原因です。親
から愛され足りなかった空虚感が「思い残し」となってしまうのです。この欠けた部分が埋まるまでは、人は、
いくつになってもそれを埋めようと行動します・・・・』


これだ!!


『・・・・思い残しをはらすためには「育て直し」という方法が有効です。幼児期の人生をやり直す方法です。ビッ
クリするかもしれませんが、絵本を読んでもらったり、一緒に童謡を歌ってもらったり・・・ということをやるので
す。子供のころしてもらいたかかったのにしてもらえなかったことをもう一度やりなおすのです。過去の不快な
思い出を「快」の思い出で塗り替えていく作業です。まるでタイムマシンのような方法ですが、これが根本療
法となるのです。これを信頼できる人にしてもらうことが必要なのです。・・・・たとえば、手をつないでもらうと
か、膝枕してもらうとか、あなたがしてほしいこと、してもらったら気持ちいいだろうな、と思うことをしてもらうの
です。母性愛をもっている人ならだれでもいいです。・・・もし、相手が愛情深い人であれば、あなたは自動的
に「赤ちゃん返り」をするようになります。そこで、幼児期をもう一度やり直すのです。「育て直し」によって過去
の「不快」を「快」の記憶で塗り替えるのです。・・・・』







とっぷりと日の暮れた暗い部屋の中で、カカシは座布団を枕に身を丸めて眠っていた。起こさないようにそっと
タオルケットを掛けてやりながら、イルカはそのマイセンの磁器人形を思わせる端正な横顔を見つめた。


『いくら俺が里を愛してもね、先生』


二人が親しくなりかけた頃、カカシが一度だけ寂しげに呟いたことがあった。


『里はそれほど、俺を愛しちゃくれないんです』


その時イルカは大仰にカカシの言葉を否定した記憶があるが、今となっては良く分かる。カカシの言う『里』と
は里の人間全般を指していたのだ。如何に容姿端麗な実力者といえど、自分を偽ったままで健全な人間関
係は築けない。それはきっと、カカシにとって心底寂しい事であったに違いない。それまでのカカシの生き方を
『カッコつけ』だの『自業自得』と切ってしまうことは簡単だったが、それが幼い頃から修羅場で培われた必死
の処世術だと思えば哀れだった。


我慢して、我慢して、そればっかりの人生だったんだろうな。


手元に散らばる『でんじゃらすじーさん』の単行本を片付けながら、イルカは目を伏せた。精一杯面倒を見てき
たつもりだったが、少し思いやりが足りなかったかも知れない。ナルトから取り上げたというこの本を、面白い
のかと聞いてやったこともなかった。


「あっ!イルカ先生!!」


突然目を覚まし、ガバと抱きつくカカシの背をイルカは何時になく優しい気持ちで撫でてやった。


「あの・・・カカシさん、一つ聞いていいですか?」

「なあに、イルカせんせ」


寂しかったと大袈裟に頬ずりする、カカシの好きにさせる。


「カカシさん、いつから私のことを好きだったんですか?・・・というより、何で私を好きになってくれたんです
か?」

「えっ!?な、なに、急にどうしたの」


カカシは目を丸くしながらも、やがて遠くを見る目つきになった。


「そりゃあ、あの・・・アレです。中忍選抜試験の告知の時、ケンカしたでしょ、先生と。実は俺・・・あの時、女
性に怒鳴られたのって初めてだったんです。そりゃあ正直驚いたりもしたんですが、その時の先生の凛々しさ
に感動したというか、度胸の良さに惚れたというか、いやあの上忍とか中忍とか、格上とか格下とか、そんな
上下関係を言ってるんじゃなくてですね、人としてまっすぐな先生の気性が眩しかったというか・・・」


はぁぁ、やっぱり。

あの時は大事な生徒をゲーム感覚で潰されては堪らないと、後先考えず反発してしまっただけの話だった。
しかしカカシにしてみれば余程衝撃的な体験だったらしい。信頼する人間に叱られて育つことは子供にとって
大事なことだが、優秀だったカカシにはその経験も余りないのだろう。予想した通り、おそらくこの幼児性の原
因は幼児期、及び成長期における圧倒的な母性愛不足だ。覚悟を決めたつもりだったが、この先を思えばな
かなか道は険しいかも知れない。


延々と思い出話が止まらないカカシを横目に、イルカは嘆息した。


それでも私の『育て直し』が成功し、『思い残し』を晴らしてやった曉には、理想の『はたけカカシ』が戻ってくる
のでしょうか、岩月先生。


せんせい、すきすきと言いながら、カカシの手が身体を這う。いとも容易く息が上がりそうになる自分が情けな
い。そんな時だけ大人になるカカシの手を抓ると、イルカはオムライスでも作ってやろうと台所に立った。



TEXT

参考文献 倉田真由美 岩月謙司著 「くらたま&岩月教授のだめ恋愛脱出講座」