グッバイガール



見られている。

ずーーっと見られている。隣の女に。


俺は事後の気怠い疲労感に身を任せて、煙草を吹かしていた。そういや腹も減った。メシも食ってなかったし
な。代わりに喰った女はそれなりの味だったが、それで腹が膨れる訳じゃない。

未だ整わない荒い息を肩で逃がしている女は俺の隣でうつ伏せに横たわり、黒髪をシーツに散らしたその姿
はなかなかどうして扇情的だ。鼻柱を横に跨いで走る傷跡は、普通の女であればある意味致命的なんだろう
が、この女に限っては不可思議な愛嬌を醸し出している。身体の相性も悪くなかった、と思う。中の上、てとこ
か。あるいはもうちょい上か。ついさっきまで口すらきいた事の無い者同士でこの出来なら、まぁ上々ってとこ
だろう。

と、思ってはいたんだが。


「・・・・あのさぁ、こんなこと言って俺の自意識過剰って思われるのもアレなんだけど。どうもさっきからヤケに
アンタの視線が痛いんだけど、・・・一体何?」


えっ、と呟いて女は身を起こすと、トロンとした視線を投げていた瞳を大きく見開いた。


「す・・・すみません、あの・・・そんなに、あからさまでした?」


やっぱりね。胡乱な目を向けると叱られた子供の様に身を縮ませる女の姿が可笑しくて、俺はワザと眉間に
シワを寄せた。






久しぶりに帰った里でブラブラしていた俺を、身知らずの女が突然食事に誘ったのは二時間前だ。その軽い
調子に手慣れているのを感じて、俺は上から下まで女を眺め回しながらベタなセリフを吐いてやった。


___じゃあ、デザートでアンタを美味しく頂けるって展開はアリなの?

___あっ、それは勿論。はたけ上忍をお誘いして、手ぶらでお返しするわけにはいきませんから。


あくまで屈託のないその様子に、俺は少々唖然とした。ちょっと留守にした間に、この里のくの一も変わったも
んだ。以前帰還したときは、女達ももう少し恥じらいながら必死になって誘ってきたもんだが。まあどのみちそ
うなりゃ話は早い。メインをすっ飛ばしてデザートに手を着けるべく、目を丸くする女の手をとってさっさとホテル
にしけ込んだ。






「まぁいいよ、俺も絶滅危惧種みたいな扱い受けんのは慣れてるしさ。」


大方初めて見た写輪眼が珍しいんだろう。今まで大概の女達もそうだった。それにしちゃあ治験中の被験者
を見る様な目つきだったけどな。


「あっ、違うんです!上忍。私が思っていたのはその反対で、その、結構普通だったなぁって・・・・」


普通!?普通ってなんだ。言っちゃあなんだが、俺に対する評価はガキの頃から“上”あるいは“特上”だ。
“並”ってのはありえない。それはベッドの中でも同様だ。俺の問いを含んだ視線に、女も気まずい顔をして俯
いた。


「あのう・・・こんなこと言って何なんですが、上忍は色々と噂があるんです。それでその・・・言われていること
と大分話が違うなぁ、と・・・あっ誤解しないで下さい!違っていて良かったんです。ホッとしてるんです。だか
らその、どうか悪く取らないで頂きたいんですが・・・」


落ちる沈黙に耐えかねて、女が吐いた言葉の意味はさっぱりだった。というよりは、少なからず衝撃を受けて
いた。


「何・・・?俺、そんな非道い言われような訳?」

「あ、いえ・・・、ひどい、というかその・・・悪口、じゃないんです。上忍は外回りの任務が多くて、あまり里には
いらっしゃらないから、その間に色々と噂に尾鰭がついたというか・・・・まぁ一種の都市伝説みたいなもの
で・・・」


都市伝・・・・なんだそりゃ。するとなにか、はたけカカシは口裂け女と同義語か。いっとくが俺の好物はべっこ
う飴でも、ポマードが苦手な訳でもない。人が命削って重労働に耐えている間に、面白可笑しく笑われている
とは、いくら俺でもいい気持ちはしない。俺は煙草を揉み消して寝そべると、下から女の顔を睨め付けた。


「それで?」

「は?」

「俺は何て言われてる訳?まぁ大体予想はつくけどさ、折角だから教えてよ。」

「ええっ!私が、ですか!?あの、今、ここで・・・?」

「そんなに怯えなくってもいいよ、別にアンタが悪い訳じゃなし、怒りゃあしないよ。ただ自分に関して言われ
てることだったら知っときたいしね。」


明らかにビビッている女の心を解そうと、俺は内心のムカツキを押さえ込んで無理矢理作った笑顔を向けた。
女は暫くモゾモゾと身体を動かしていたが、やがて意を決したように俺の眼を覗き込んだ。


「それではあの・・・上忍のご要望とあれば忌憚無く述べさせて頂きますが・・・あの、ホントに怒らないでくださ
いね?」

「はいはいどーぞ」


さっきまで甘い吐息を分け合っていた余韻はどこへやら、ベッドの上で寝そべったままの俺ときちんと正座し
た女は、奇妙な形で向かい合った。





「ええっと・・・ですね、まずは・・・」


女の視線が記憶をなぞるように虚空を彷徨う。


「バイセクシュアルである」

「え」

「モノの大きさが軽く30センチを越える。真珠が5,6個埋め込んである。」

「は?」

「性行為時には薬を使用。自分だけでなく相手にも強要する。ちなみに必ずアッパー系。」

「んなっ!!」

「非常にサディスティックな性格である。行為も同様。自分で攻めきれなくなるとありとあらゆる器具を使用す
る。縛りはプロ級。」

「あぁッ!?」

「わざと避妊はしない。妊娠を告げられると中絶を強要。それを恐れて秘密裏に出産した女の落とし種が里の
此処彼処にいる。」

「・・・・ッ・・・!」

「大変特殊な性的嗜好から花街に出入り禁止を喰らう。遊女を5人は殺害している。」

「・・・・・・・」

「気に入った相手は必ず目の前で輪姦させる。同僚の猿飛アスマはセックスフレンド。性奴隷を何人も抱えて
いる。その奴隷の身体に刺青を・・・・」

「ハイ、ストーップ!!もういいっ!もう結構!!」


俺は行き場の無い怒りとやるせなさに布団をひっ被った。そうか、そういうことだったのか。道理で以前は砂糖
に群がるアリの如くだった女達が、一人も寄ってこない訳だ。俺が里に足を踏み入れて早三日、誘ってきたの
はこの女が初めてだった。いい加減の女日照りに、花街に足を向ける直前だった。

一体どうなってんだ、この里は。

そりゃあ俺もここにいる時は猫背でエロ本を貪り読む、女にだらしのない野郎かも知れない。だけどなぁ、一転
任務ともなりゃその猫背に一本スジの通った男になる。里外での長期任務ともなれば、どうしたって命のやり
取りにならざるを得ないから尚更だ。それを何だ、人の苦労も省みず好き勝手言いやがって輪姦だ?奴隷だ?
アスマがセフレだ!?想像しただけで吐き気がする。サディストと呼ばれる謂われもない。元からそっちの趣
味は全く無い。薬・・・は何度か使ったことがあるかも知れない。だがアレは完全なお遊びだ。使ったモノも殆
ど合法ドラッグと代わり映えしない、全く安全な代物だった。女にはいくらか効いたかも知れないが、俺には何
の刺激にもならなかった。何より相手も同意の上だったはずだ。ははぁ、さてはその辺が出所か。大方バッド
トリップした女が、腹いせに大きく吹いてまわったか。それにしたって、まぁ。えぇと、なんて名だったか。ユリ
か。サヤカか。ナツミか。レイか。くっそう、今度あったが百年目、唯じゃおかねぇから覚えとけ。



・・・上忍、上忍。思考のスッ飛んでいた俺は、女に身体を叩かれて我に返った。女の手が慰撫するように布
団の上に置かれていた。


「上忍、そんなに気になさらないで下さい。言ってる人間達も、全部が全部信じてる訳じゃないですよ。ほら、
ちょっと前に子供の間で流行ったでしょう、『トイレの花子さん』。あれと一緒ですよ。キャーっ、こわーい、って
言いながら実はそんな物はいないって分かってる。作り話だって知ってる。単なる暇つぶし、噛んで捨てるガ
ムと一緒です。そのうちまた別の目新しいネタが出てきたら、皆すっかり忘れてしまうに決まってますよ。」


トイレ・・・・慰めようとしてるんだろうが、言えば言うほど泥沼にハマってんのに気付かないのかこの女は。
俺は布団から両目だけ覗かせながら、軽い八つ当たりを喰らわした。


「・・・そりゃどうも。でもアンタ、よくそんな話を知りながら俺を誘ったもんだよねぇ?それとも何、そっちの方の
趣味があった?俺がノーマルで、アンタさぞかしガッカリしたんじゃないの?」


だが女は俺の直球をヒョイとかわして、実に明朗な笑い声を上げた。


「そんなことありませんよ。まぁ真珠はともかく、薬と縛りはちょっと覚悟入りましたけどね、私にその気は無い
ですから。」


俺だってねぇよ。第一玩具を使う様な情けないマネなんか、した事が無い。


「それに噂を鵜呑みにするほど子供じゃないですから、私も。でなかったらお誘いしてません。現に上忍、私の
イヤがる事なんか、何一つされなかったじゃないですか。避妊だってして下さったし。私、こうして肌を合わせ
てみれば、とても良く分かります。__上忍は、とても優しい方です。」


突然変わった風向きに、俺は咄嗟に返す言葉もなかった。あ、とかう、とか間抜けな呟きを繰り返している内
に、女はやおら居ずまいを正すと、揃えた膝の前で突然三つ指をついた。形の良い乳房がふるりと震えた。


「上忍、今日は私の我が儘に付き合って頂いて、本当に有り難うございました。」


打って変わった真摯な物言いに気圧されて、俺も慌てて起きあがった。女は瞳を閉じたまま、低く頭を垂れて
いた。


「実は私、ずっと以前から上忍が好きでした。すごくすごく好きでした。私如きが、上忍にこんな感情を抱くこと
すら烏滸がましいのは重々承知しています。でも縁あってお話していただけるどころか、こうして閨をご一緒で
きたなんて・・・夢のようです。本当に嬉しいです。私はこれから、この思い出を一生胸に抱いて生きて行けま
す。__上忍、本当に有り難うございました。」


淀みない川の様な言葉の流れに、唖然と口を開けたままだった。恐る恐る顔を上げた女の目とカチ合って、
俺は俄に夢から覚めた様に眼を瞬いた。


「前からって__いったい何時からの話・・・?」

「はい。上忍、巳の国の美墨峠の戦いを覚えておいでですか。」


・・・覚えていた。木の葉は直接関わり合いを持たないにも拘わらず、火の国の外交戦略に巻き込まれて、俺
を含めた上忍連中が随分と駆り出された戦いだった。しかしあれは__


「・・・もう随分と昔の話じゃないの。」

「はい、もう六年程前のことになります。私は当時物資の補給と医療班のバックアップで、現場に詰めており
ました。それでその時・・・・」


俺に惚れたって訳か。しかし、六年もとはまあ。その執着がちょっと恐ろしくもあり、こそばゆい様な気もした。
女は、俺の思考を見透かしたかの様に少し寂しげに笑うと、遠慮がちに手を伸ばして俺の左上腕部の古傷に
触れた。


「・・・・この傷、私が縫わせて頂きました。」


愛しげに傷をなぞる女には申し訳ないが、俺には一片の記憶も無かった。女はそれが分かっているのだろう、
緩くかぶりを振ってみせると先を続けた。


「上忍の何が私を惹きつけたのか、此処で申し上げても詮無い事だと思っております。でもこれだけは是非言
わせて下さい。あの日から今日まで、上忍の存在は私にとって生きる支えでした。道を指し示す星でした。そ
れが今日、こんな奇跡に恵まれて・・・本当に良かった。すごく恥ずかしくて、勇気が要ったけど、声を掛けさ
せていただいた甲斐がありました。これで私も、心おきなく嫁いで行けます。」

「へーおめでとう、・・って・・・・はぁっ!?」


面と向かって降り注ぐ、大仰な褒め言葉の羅列に頭を掻いていた俺は、ピシリと固まった。


「何・・・?アンタ結婚するの!?」

「はい。このまま何も異変が無ければ十日後に挙式の予定です。」


なんつーこった。俺としたことが、美味しく頂いたつもりが、実はとんでもないトラブルのタネを抱えちまったんじ
ゃないのか。相手の男が上忍か中忍かは知らないが、久方ぶりに帰還した里で、揉め事に巻き込まれるの
だけはゴメンだ。しかし、この女も許婚がいるばかりか、式も間近だってのに全くまぁ。

だが女は突然俺の首に腕を廻すと、大胆なキスを仕掛けてきた。柔らかな熱い舌が歯列を割り、俺の舌をす
くい上げる。その舌技はなかなか巧みで、その淫靡な絶え間ない刺激に俺の中心は浅ましくも勃ち上がりか
けていた。女は忍び笑いを漏らしながら伸ばした指で俺の陰茎を弄び始め、同時に口付けることも止めなかっ
た。俺の躰の奥に眠っていた熾火が燻り始め、やがて音を立てて火が爆ぜる。女の腰を抱き寄せて両手で
体中をまさぐりながら胸の突起を軽く摘むと、濡れた吐息が漏れた。受ける一方だった口付けを攻撃的な力
強さで返してやると、女はその激しさに少しばかり怯んだ様だった。すっかり固く勃ち上がった俺自身を女の
下腹部に擦りつけると、女の口から切ない喘ぎが漏れ始め、身を捩って俺にしがみつく。仰け反った白い喉に
舌を這わせると、女が震える声で俺の名を呼んだ。

女の事情を疎ましく思いながらも、こうも簡単に欲情する自分が滑稽だった。いや、逆にこの背徳的な状況が
刺激になっているのか。頬を染めすっかり息の上がった身体をゆっくりと押し倒し、改めてのし掛かろうとする
俺の耳に、女の囁きが忍び込んだ。


「・・・大丈夫です、上忍にご迷惑はお掛けしません。彼は私の気持ちを知ってます。何もご心配されることは
ありません。」


俺は女の言葉に片眉を上げた。公認ってヤツか。そりゃまた悪趣味な。だが女は俺の呟きに吹き出すと、肩
を震わせて笑い出した。


「まさか!今此処でこうしているとは流石に知りませんよ、彼は今里外の任務なんです。まぁ知られたら知ら
れたで、その時ですけどね。・・・でもきっと許してくれると思います。とても優しい人なんです。」

「もしかして惚気てる?」

「・・・ええ、多分。上忍にご紹介出来ないのが残念です。」


お気遣い有り難いけど遠慮しとくよ、言い終わらない内に女はスルリと俺の腕から抜け出ると、シャワーを浴
びると言って背を向けた。驚いたのは俺の方だ、さっきまでの絡み合いは第二ラウンド開始の合図じゃなかっ
たのか。だが女は一糸纏わぬ姿を隠そうともせず、スタスタと歩いて浴室に消えた。おいおいおい!このハン
パに昴った熱をどーすんだ。呆然と口を開けたままの俺の前に、女は扉の向こうからもう一度ヒョイと顔を見せ
た。


「上忍、念のためご忠告申し上げますが、いつもの『俺の心の傷を優しく慰めて攻撃』はもう里の女性には効
かないと思いますよ。女って所詮与えられたい生き物だし、対抗馬の不知火特別上忍が猛烈な勢いで追い
上げてますから。アダルトチルドレンを武器にするのは結構ですけど、そうそう何度も同じ手は使えないと思い
ます。それに・・・・」


あまりのいいざまに声も出ない。どうにも巡りの悪い頭でなんとか言い返してやろうと藻掻くうち、女はニヤリ
と笑ってトドメの言葉を吐いた。


「ああ見えて、ゲンマさんはとても女性にマメなんだそうですよ。」


なんつー女だ。パタンと閉じた扉の音を聞きながら、俺はベッドに倒れ込んだ。好きだと言ったそばから今度
は言いたい放題。__しかし不思議な女だ。ポンポンと言葉を投げつける割には険がない。むしろ突き抜けた
明るさがある。淫乱女の様な真似をしたかと思えば向ける笑顔はひどくあどけない。場所が場所なら手打ち
にしてもおかしくない程の言われようなのに、何故だか腹を立てる気にもならなかった。いや・・・・これはなん
だ・・?腹が立たないというよりは、頭の芯が重く霞むような・・・・眠気・・・はありえない、腹も減っているし、
第一身体の奥には未だに燃え残る熱が燻っているというのに・・・・だがどうにも横たわる躰には力が入らず、
いくら踏ん張っても瞼が落ちてくる。まさか・・・・一服盛られたか!?いや、俺も女も素っ裸だ、そんな素振り
は一切・・・・さっきのキスか!?・・・・、写輪眼のカカシともあろうものが、とんだ失態だ・・・里内での気安さに
油断した。浮かれすぎた。目的は何だ・・・・俺の命か、あるいは写輪眼か?・・・あの女は他里の刺客か!?

気が付けば歯軋りする俺の傍に女が立っていた。タオルを巻き付けただけの姿で、ベッドに乗り上げて俺の
顔を覗き込んでいる。俺は最大限の殺気を放ったが、女は気にも留めていない様だった。女の手が挙がる。
あらん限りの気力を振り絞り指先にチャクラを集めたが、雷切の発動には間に合いそうもない。残る手段は瞳
術だ。それで女を眠らせるしかない。女の瞳に照準を合わせ写輪眼を廻すタイミングを計っていると、女はま
るで子供を寝かしつけるように、俺の頭を撫で始めた。


__カカシさん、カカシさん。


女の指が俺の髪の中に潜り込み、頭頂から後頭部にかけてゆっくりと何度も往復する。柔らかな声が遠く近く
に木霊する歌声のように、俺の脳内に響いた。


__私は貴方が好きでした。ずっとずっと好きでした。そしてそれは、これからも変わることはありません。私
が人の妻になってしまっても、それは同じです。もちろん、夫になる人を、とても大事に思っています。でもそ
れと貴方を愛する気持ちはまったく別の次元のものです。私はいつ如何なる所でも、貴方の無事を祈ってい
ます。御武運を信じています。だから貴方も、もっと御自分を大事にして下さい。私の好きな貴方を、もっと愛
してやって下さい。そうして時々は、私のような女がいた事を思い出して下さいね。私はそれだけで満足で
す。


女の手のひらの温度が、脳内に浸み渡るように眠気を誘う。躰までだらしなく弛緩し始め、意識を保っている
ことも最早限界に近かった。


__こんなマネをして、言い逃げするような形になってご免なさい。でもこうでもしないと、何時までもみっとも
なく貴方に縋ってしまいそうで、恐かったんです。どうか許してください。


落ちる寸前の瞼に映ったのは、女の泣き笑いの様な、恥じらう様な表情だった。色の薄い唇が落ちてきて、
俺の頬に柔らかく口付ける。


__さよなら。


その囁きを最後に、俺の意識は暗転した。





それが、三年前の出来事だ。














アカデミーの校庭で、白木蓮が咲き誇っていた。

明らかに盛りを過ぎたその花々は、やがて散り行く定めに抗うように精一杯白い花びらを押し開げている。花
弁から立ち昇る独特の濃厚な香気が、甘く躰を包む。俺はこんな見事な大木がここにあることを、初めて知っ
た。普段上忍連中は子供達に恐怖心を与えない為にも、滅多なことではアカデミーに足を踏み入れない。だ
がそんな不文律も、俺にとっては不要なものになりそうだった。俺は長らく担わされていた外回りの任務から
外され、上忍師としての命を里長から受けていた。


帰還を許され上忍師ともなれば、一見安穏とした生活を保証されたかに見える。しかし問題はその中身だ。

俺は溜息を吐いた。

あぁぁめんどくせぇ。知らず髭の悪友の口癖を真似ていた。自由気儘、自分の実力だけを頼りに渡り歩いてき
た戦場が、懐かしかった。よりによって任された三人のガキのうち、二人が九尾とうちはとは。先のことを考え
ただけでも気が重いというのに、ガキ共は俺の頭の上に黒板消しを落としてきやがった。ボーッとしてた俺も
俺だが、ヤツら大方上忍師と聞いて、アカデミーの教師と混同してるんだろう。上忍の何たるかも知らず、バカ
な上に無知だ。まぁいいさ、今のうちせいぜい笑ってろ、ヒヨッ子ども。その代わり明日はグゥの音も出ないほ
どシゴき倒してやるから覚悟しとけ。昏い愉悦に浸りながら明日の演習の算段をする俺に、呼びかける声が
あった。


「こんにちは、はたけ上忍。うずまきナルト、うちはサスケ、春野サクラの元担任、うみのイルカと申します。
引継ぎの資料をお持ちしました。」


振り返った俺は驚愕のあまりそのまま絶句した。あの女だった。忘れもしない、ひっつめた黒髪に鼻柱の傷。
書類の束を胸に抱いて目の前に立っているくの一は、三年前俺に一服盛った挙げ句好き放題言い逃げした
あの女だった。

アカデミー教師だったのか・・・・!!

どうりで探し回っても見付からない筈だ。俺はポケットの中の髪紐を握り締めた。何も好きこのんで会いたかっ
たわけじゃない、あの夜女が忘れていったこの髪紐を突き返して、意趣返しのセリフの一つでも吐いてやろう
と思っていただけだ。だが女の大胆な行動と言動に眼を眩まされて、教師だという可能性を失念していた。加
えて今迄アカデミーに近寄る理由もなく縁もない。一介のくの一にしてやられた気まずさから周囲の人間にも
訊けず、あの夜の出来事は俺一人の胸の中に収めていた。何より俺は、この女の名前すら知らなかったの
だ。


「ご無沙汰しております。ご健勝で何よりです、上忍。」


女はしゃあしゃあと言ってのけた。何がご健勝だ、全く。言ってやりたいことは山ほどあった。上忍に対してあ
れだけの不敬、本来ならば確実に懲罰ものだ。だが、いざこうして女と向かい合うと、情けないことに渦巻く感
情の塊は堰き止められたかの様に喉につかえ、上手く言葉に出来なかった。


「・・・アンタも元気そうだね。その様子じゃ、ちゃんと式は挙げられたんだ?」


俺はわざと茫洋とした視線を女に投げた。何故か内心の葛藤を知られたくなかった。


「まさかアンタが先生とはねぇ。ダンナは?どこの部隊に所属してるの?」

「はい、お陰様で無事に挙式は出来たのですが、残念ながら・・・夫は亡くなりました。」


もう二年になります。淡々と続ける女に言葉もなかった。いつもそうだ。この女の口から漏れる言葉の数々は
全く予測不可能で、上手く切り返すことも出来ない。おかげで調子が狂うことこの上ない。


「詳しいことは申し上げられませんが、潜入任務の最中に殉職しました。慰霊碑にも名が刻まれています。」

「・・・あー・・・そう、そりゃまた・・・・じゃあ、子供は?いるの?」

「夫が亡くなったとき妊娠四ヶ月目でしたが・・・流れてしまいました。」


俺は今度こそ頭を抱えた。さりげなく話題を変えたつもりがますます泥沼だった。おそらく潜入任務と言ったら
諜報活動だろう。敵方で正体がバレて殺されたか。その男がどうされたかは知らないが、スパイの最期は大
概が拷問された上になぶり殺しだ。その精神的ショックに耐えきれなかったのか。気の利いた言葉も継げず
唸ってばかりの俺に、女は憐れむような目線をくれた。


「いいんです、子供も父親が不憫でついていったんでしょう。夫も、子供に会えるのを楽しみにしていましたか
ら。・・・静かな場所で、二人で寄り添っているんだと思います。」


それよりも、と女は教師の顔で言った。その表情に感情の揺れは全く見えなかった。


「子供達のことを、宜しくお願いいたします。まだ幼い上に短所も目立ちますが、それを上回る多くの長所も持
ち合わせております。とくにうずまきナルトは問題児扱いされがちですが・・・・人の気持ちに機敏な優しい子
です。どうか上忍のお力で、あの子達を正しい方向に導いてあげて下さい。」


それでは、と会釈して背を向けようとする女に、俺は内心酷く焦っていた。なんだどうした、どうも様子がおかし
くないか。言うだけ言ってマイペースなのは昔と変わらないが、どうにも無表情過ぎる。さよなら、と言って俺
の頭を撫でていたあの日の女の姿が過ぎった。そんなことも無いのだが、このまま別れてしまえばもう二度と
相見えることが出来ない気がして、俺の気持ちはひどく急いた。


『イルカせんせー』


言葉を継ごうとしたその時、頭上から子供の声が降ってきた。見上げると校舎の二階の窓から数人の生徒達
が顔を覗かせていた。


『___が・・・・・・しちゃって、たいへんなの、せんせいすぐきてー』


緩く吹き始めた風に浚われてはっきりとは聞き取れなかったが、切羽詰まった様子で呼びかけている。俺の
存在など忘れたように背を向けるイルカを、慌てて呼び止めた。


「ちょっと、ちょっとアンタ!!」

「・・・は?」

「は、じゃないよ、その書類!アンタそれ届けに来たんでしょうが」

「・・・ぁあっ、も、申し訳ありません。仰る通りです・・・」


イルカの顔が首筋まで朱に染まる。初めて見せる狼狽えた表情に、内なる俺がニヤリと笑う。そうそう、その
調子。とにかくガキの所に行かすな。とりあえず首根っこ押さえとけ。


「それと、一つ質問。」

「あの・・・まだ何か?殆どの事はその資料に記載されてありますが・・・」


また頭上からイルカを呼ぶ声がする。その生徒の声と俺の顔を交互に見比べながら、やがてイルカは戸惑い
ながらも視線を俺に据えた。


「『俺の心の傷を優しく慰めて攻撃』ってまだ有効?勿論アンタ限定で。」


能面の様な表情に、ヒビの入る音がした。極限まで開かれた黒い瞳を、震える細い指がゆっくりと覆った。


「何いってるんですか・・・?からかうのは止めて下さい。わたしは・・・私は、結婚前に平気で恋人を裏切るよ
うな女ですよ・・・?」

「からかうもなにも。」

大きく息を吸い込んで、俺は改めてイルカに向き直った。上忍の威厳、てのも込めたつもりだったんだがそれ
が伝わったかどうかは分からない。

「・・・・あのねぇ、あの夜アンタから聞かされたしょうもないウワサ話で落ち込むわ、ロクでもないたとえ方され
るわ他人と比較されるわ、いいところでお預け喰らって挙げ句の果てにクスリ嗅がされて気がつきゃ朝まで爆
睡だわ、アンタは勝手に消えてるわ、あのさあ、俺のプライドどーしてくれんの?もうズタズタよ?誰が傷つけ
たと思ってんの?アンタでしょ、アンタしかいないでしょ?此処までコケにされたからには当然アフターケアっ
てもんが必要でしょ?責任取るのがスジってもんでしょ!?しかも何、もしかして今の今までグジグジ悩んで
たワケ?後悔してたワケ?まぁ想像するに背伸びしすぎて大それたことしちまったとか?その所為でバチが
あたっとか?あーヤダヤダ、しょうもな。そうやって自虐に浸ってるアンタはいいよ、一人だけ気持ちよくてさ。
だけど後悔された俺はどうなるわけ?俺の立場って考えたことある?俺って何?アンタにとって俺って何?ア
ンタ確か俺のこと好きなんだよね、そーだよね!?だったら同じところグルグル回ってないでちょっとは俺のこ
と考えたらどーなの、勝手に自分の気持ち押しつけて、勝手に終わらせないでくれる?格下のくの一に一服
盛られて三年も放置プレイされた挙げ句にあんたなんか知りませんって顔された男の悲哀がわかるのかアン
タ、なんだよ辛気くさい顔してそのシレっとしたツラはそんなのアンタのキャラじゃないだろーが、アンタは言い
たいことポンポンいって大口開けて笑ってんのがアンタだろーが俺がいるだろーが俺の傍にいりゃあいいだろ
ーが俺の傍で笑ってりゃいいだろーがそれが自然の摂理ってもんだろーが・・・ッテッ!!」

『イルカせんせーをいじめるなぁ!あっちいけー、バカァ!!』


子供が上から投げつけた紙つぶてが、頭に当たった。うるさい、ガキ。支離滅裂なのは分かってんだシラフで
キレる上忍なんて滅多に見られるもんじゃなし、今日は大サービス特別授業だ黙って見てろ。


イルカの肩が細かく震えている。項垂れる白いうなじを見下ろすこの胸に、絶えずわき上がってくるこの感情を
説明するのは難しい。だがそれを言葉に直そうとすれば、たった二文字の平仮名で事足りるのかも知れなか
った。


「まぁつまり何が言いたいのかといえば、アンタが無かったことにしたがってるあの夜の事も俺にとっちゃあ結
構な意味があったってことでさ__これ」


俺はあの日イルカが置き忘れていった髪紐を取り出して、掲げて見せた。


「これを持って任務に出ると、不思議とかすり傷一つ負わなかったよ。おかげでこうして五体満足でいられるわ
けだし。そんなわけで__三年間、俺を守ってくれて、どうもありがとう。」


指の間から覗く黒い瞳から、大粒の涙が零れた。イルカはとうとう声をあげて泣き始めた。あらら、そんなつも
りじゃ無かったんだが、どうしたもんか。むしろ予想外の展開に一番戸惑ってるのは俺だって。しかしまぁ、しょ
うがない。鼻柱の傷に愛嬌を感じた時からこうなる運命だったんだろう。三年分の鬱屈を晴らせて気分爽快、
妙に少女趣味な理屈を捏ねている自分が少々薄ら寒くもあるが、とりあえずの問題は泣きじゃくるイルカをど
う宥めるかだ。


いつのまにやら窓に鈴なりのガキ共が投げるゴミを器用にかわしながら、俺はイルカの肩を抱こうと手を伸ば
した。


風に浚われた白木蓮の花びらが、白い雪の様に舞い始めていた。



〈 了 〉






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