ロング・キス・グッドナイト



「イルカ先生」


食事の後座卓の前でくつろいでいた男はやおら姿勢を正して正座をすると、イルカの目を見据えて言った。


「結婚して下さい。」


来た。とうとう来た。ついにこの日が来た。いつも自分を外に連れ出す男が、今日に限ってイルカの部屋で手
料理を強請ってきた。その時点でうっすらと異変を感じ取ってはいたが、出来れば予測可能な未来から目を背
けていたかった。しかしその望みは叶わず、男は決定的な言葉を口にした。落胆のあまり額を壁に打ち付け
たい衝動を堪えながら、イルカは男に倣って正座した。


「有り難うございます、カカシ先生。私のような者に、身に余る勿体ないお言葉です。でも、お受けすることは
出来ません。」


イルカの脳裡にカカシとともに過ごした日々が走馬燈のように過ぎった。カカシは優しかった。潤沢な資金と芳
醇な愛情でイルカが見たこともない夢をみせた。娯楽の少ない里でありとあらゆる贅沢を堪能させた。だがそ
れも今日で終わる。カカシから贈られた、高価なプレゼントは全部返そう。所詮全ては自分にとって分不相応
な幻だったのだ。イルカは今まで幾度となくシュミレーションしてきたセリフを脳裡に描くと、先を続けようと口を
開いた。


「私は木の葉の忍として、里を支え続けるため、これからも教職に生涯を捧げる所存です。これは私の長年の
夢であり存在意義です、これだけは絶対に曲げる訳にはいきませんし、出来ません。
対して貴方は他国にまで名を知られた、里の誉れであり宝です。そんな貴方のお世話を片手間で済ますこと
はできませんし、それは貴方と貴方の実力に対する冒涜です。どうか私のように半端な人間でなく、きちんと
家庭に収まって誠心誠意貴方に尽くして下さる方と、幸せな結婚生活をおくっ・・・・ん、むっ・・・!!」


カカシに口付けで唇をふさがれていた。両手でイルカの手を包み込み、握り締めながら、優しく啄むような口
付けを顔中に何度も落とす。


「そんなこと」


カカシが睫を伏せた。普段は色素が薄い為殆ど目立たないが、こうして近くで眺めれば、瞬くと風が巻き起こ
りそうな程に長い。


「そんなこと、何の障害にもなりませんよ。愛しい妻を支えてやれなくて何が夫です?それがイルカ先生の夢
だというなら俺はどんなことをしてでも協力します。それにね、俺は別に赤ん坊じゃないんです、手厚い世話な
んていりませんよ。今までだってちゃんと一人でやってきたんだし、自分の面倒ぐらい自分でみれます。第一
家庭に収まるってなんです?誰もそんなこと望んじゃいないし、事実、上忍同士で一緒になった夫婦だってみ
んな普通に生活してますよ。」

「いやあの、でっ・・・でもっ・・・!!」


イルカは言い澱んだ。こんな返答を想像しなかった訳ではない。しかし、こう立て板に水で反論されてはイルカ
も為す術がなかった。なんとか切り返したいとは思いつつも、焦るばかりの脳内には気の利いた言葉一つ浮
かんでこない。


「イルカ先生は、俺が嫌い?」


驚いたイルカは勢い良く顔を上げると激しく首を振った。嫌いじゃない。嫌いじゃないから困ってる。寧ろもうカ
カシの存在なしではいられないほどに、カカシに心を預けている。

だからこそ、この結婚話を受ける訳にはいかなかった。


「ああよかった!そうだよね!?俺たちずっと仲良くやってきたもの、嫌われてる筈は無いと思ってたけど。俺
だってイルカ先生のことが、大好き。愛してる。すごくすごく愛してる。どんな風に言ったら信じて貰えるのか分
からないけれど、本当に本当の気持ちなんです。
だからお互い同じ気持ちだったら、結婚っていうのは自然な成り行きだと思ったんだけど・・・驚かせた?」


カカシは俯いて視線を外したままのイルカを見下ろしながら、笑みを浮かべた。


「分かってます。実は俺、良く分かってるんです、イルカ先生の気持ち。先生、今まであんまりにも男運が悪か
ったから、それがトラウマになってて、いまいち踏ん切りがつかないんでしょ?」

「ええっ!?」


これまで、決してカカシに明かしたことのない事実をサラリと指摘されて、イルカは絶句した。


「俺だって幾つか知ってますよ、イルカ先生の過去。木の葉のだめんずうぉーかー、うみのイルカっていったら
そりゃあもう有名じゃないですか。」


カカシの言葉にイルカは脳天を割られた様なショックを受けた。自分がそんな言葉で揶揄されていることは
重々承知していたが、カカシの口からそれを告げられたことに激しい衝撃を受けていた。不意に滲んだ涙を隠
そうと、イルカはカカシの両手を振り払うと座卓に突っ伏した。


「いっ・・・・言いますか?それをっ・・・・ほ、本人を目の前にして!?・・・・し、信じられないっ・・・!!」

「アハハ、ご免なさい、怒った?別にからかった訳じゃないんです。俺が言いたかったのはね、そんな悲しい
思いを沢山した人は、かえって人に優しく出来るって事なんです。
俺はそんな辛い思いをしてきた過去も全部ひっくるめて、イルカ先生が好きなんです。だから余計な心配は無
用だって言いたかったんですけどね・・・イルカ先生?」


カカシの言う通りだった。イルカの男運の悪さは周囲から同情を通り越して、いつも笑いと詮索の対象になっ
ていた。



最初に付き合ったのは酷いマザコンだった。一人では何一つ決められず、いつも母親の顔色を伺ってばかり
の男に愛想を尽かし、さっさと次の男に鞍替えしたはいいがこれが実はギャンブル狂。危うく家の権利書を持
ち出される寸前で発覚し、怒りのあまり足腰立たないように痛めつけてから別れたがかなりのショックだった。
その寂しさに付け入るように近づいてきた男と付き合いだしたが今度は酒乱。病気なら自分が治してやろうと
意気込んだのは最初の内だけで、飲むたびに振るわれる暴力に閉口し逃げ出した。その時相談に乗ってくれ
た男の元に身を寄せたが、あれほど親身に話しを聞いてくれた男は同棲するやいなや豹変し、直ぐに暴力を
振るいだした。いわゆるDVだ。酒乱男も暴力を振るったが、シラフで暴れるだけ尚のこと質が悪い。その男か
ら逃げ出して別の男に拾われると、ほっとする間もなくまたDV。それを3,4回は繰り返した。その間にうっか
り不倫をしたこともある。


イルカはつくづくと思い知った。自分には男運というものが全くない。


望んでもいないのに近づいてくる男達は皆、人間のクズのようなヤツらばかりだった。そしてとことんイルカを
苦しめた。

ならばもう、男と関係するのは止そう。こんな辛い思いをし続けるなら、今後一切恋愛などしなければいい。

そう心に固く決めれば、後は容易かった。

幸い打ち込める仕事はある。口さがないが気のいい同僚や友人達に恵まれて、なんのかんのと賑やかな毎
日を送れてはいる。子供達も可愛い。

時折送られてくる秋波も、無視を決め込んでいればやがてピタリと止んだ。自分を抱きしめる腕の温もりを恋し
く思う夜もあったが、代わりに手に入れた静かな時間は、なにものにも代え難かった。

誰も自分を蹴らない。殴らない。詰らない。それはイルカにとって得難い平穏だった。


その少しだけ寂寥感の漂う、安穏とした日常の中に突如カカシが現れた。




突然自分を口説き始めた里の誉れに、イルカは当然の如く酷く警戒した。当たり前だ、話が上手すぎる。
里のキング・オブ・ステイタスが一介の中忍くの一教師に目を留める方がおかしい。不幸に晒され過ぎたイル
カの心の扉は固かった。降ってわいた幸運に順応することなど出来なかった。

だがカカシは誠実だった。

周囲もイルカも驚くほどの根気とねばり強さで、イルカに接し続けた。何度背を向けても諦めない。そうなれば
元々紳士で人格者と評判の男に、イルカの頑なな心が解れていくのに長い時間はかからなかった。気付け
ばカカシの言葉に、態度に、完全に絆されきったイルカがいた。


カカシの穏やかで深い愛情に甘え甘やかされる日々。だがカカシが言葉の端々に将来を覗かせるようになっ
てから、イルカの心に恐怖がチラつき始めた。

今までの男達もそうだった。皆最初はひどくイルカに優しいのだ。

そしてイルカがその優しさに馴染み始めた頃、決まって本性をさらけ出す。後は修羅場に一直線だ。


もしカカシから同じ仕打ちを受けたら___自分はもう耐えられない。生きる気力さえ失うだろう。


カカシを愛し始めていたからこそ、深く拘わるのが恐かった。結婚なんて尚更だ。


だからイルカは、カカシの優しさに酔いながら、いつも別れの言葉を用意していた。愛する男の汚い面を見せ
つけられるのは、もう沢山だ。深い関係を望まれるなら、その前に自分から手を離してしまった方がいい。
どんなに寂しくとも綺麗な思い出だけを胸に生きていく方が、つらい思いをするより余程ましだ。


パタパタと、涙が座卓に落ちた。


自分だって、何も不幸になりたくて男たちと関係してきた訳ではない。いつだって幸せを望んできた。今度こ
そ、今度こそと思いながらも、結果蟻地獄にはまってきた。それをカカシに笑われた。

その笑い声に、優しいと思い込んでいたカカシの本質を見たような気がした。嘲りが込められている気がし
た。やはりカカシも___過去の男達と何ら変わりないのかもしれない。
なら、別れを切り出した自分の判断は正しい。


「・・・イルカ先生、・・・せんせい?」


顔を伏せたまま一向に動かないイルカに、不安を覚え始めたカカシは何度も声を掛けた。細かく震える背中を
見て泣いているのだと知ると、驚きの余りオロオロと声を上げた。


「あ・・・あ、ご、ごめんなさいイルカ先生、・・・そんなにショックだった?俺、俺決してそんなつもりで言ったんじ
ゃないんです、馬鹿にしたつもりは毛頭なくて、その、そんな先生も全部纏めて引き受けるって言いたくて・・・
あの、そんなに泣かないで・・・あ、どうしよう、お願い、そんなに怒らないで、ね?俺謝りますから・・・頼むか
ら、こっち向いて下さい、先生・・・・イルカせんせい?」


カカシの纏うチャクラの不安定な揺れが、背を向けたイルカにまで伝わって来る。名高い写輪眼のカカシが自
分の涙に動揺している。カカシと向き合うのも今日が最後だと思えば、こうして困らせるのも小気味が良かっ
た。もっと狼狽えればいいんだ。


「せんせい、・・・ね、先生。こっち向いて。」


カカシの懇願にますます意地になって机にしがみついていると、体がフワリと揺れてカカシの腕の中に抱き込
まれていた。何をどうされたのか全く分からない。こんな形で上忍の実力を見せつけられるのも癪だったが、
見上げたカカシの色違いの双眸が不安に揺れているのを見ると、イルカは何も言えなくなった。


「ごめん、ごめんなさい先生、俺今日調子に乗りすぎたみたいです。ずっと言いたかったことを言えたから・・・
ハシャギ過ぎました、すみません。でも信じてください、決して先生を傷つけたくて言った訳じゃないんです。
俺は絶対先生を幸せにする自信があります。100パーセント保証付きです。それを知って貰いたかっただけ
なんです。」


だからどうか機嫌直して下さい、ね。言いながらカカシは手近にあったタオルで、涙に濡れたイルカの顔を丁
寧に拭い始めた。シャドウもマスカラもファンデーションも剥げて崩れて、今自分は酷い顔をしているに違いな
い。それなのにカカシは瞼に頬に唇に、愛しげに口付けを落とし始めた。柔らかい唇の感触と、暖かい抱擁に
張っていた意地が脆くも崩れていくのを感じる。


「何も今すぐ返事が欲しい訳じゃないんです。大事なことなんですから、じっくり考えてもらって構いません。
だからさっきの答えは無かったことにして・・・また後で気持ちを聞かせて下さい、ね。」


丸め込まれるってこういう事を言うんだろう。分かっているのにカカシの腕に縋っている自分が情けなかった。










浴室の灯りがついて、換気口から白い湯気が漏れ始める。風呂を遣っているのだ。


カカシはイルカの元を辞した後も気配を消したまま、夜の闇の中部屋の灯りを眺め続けた。


今頃イルカは湯船に浸かりながら自分の示した選択肢に、必死で考えていることだろう。無い頭を振り絞っ
て、茹で上がりながら。

満を持して投げたプロポーズの言葉に、イルカはカカシが想定したのと寸分違わぬ答えを返してきた。余りの
可笑しさに危うく腹を抱えて笑い出す所だったが、必死に堪えながらチョイとイルカをつつくと、今度は子供の
様に泣き出した。


その頭の悪さがどうしようもなく愛しかった。


カカシは確信していた。イルカは今晩眠らずに考え続けるだろう。今夜一晩だけじゃない、この先暫くはずっ
と。そうして考え抜いた挙げ句に、結局はカカシの申し出を受け入れる。絶対に。

もし、万が一拒否したとしても、そんなことは自分が許さない。どんなに足掻いても逃がしはしない。自分がイ
ルカを見初めたときから、結末は決まっているのだ。他に道はない。


カカシは全身を駆けめぐる高揚に既視感を覚えて首を捻った。あぁそうだ、これは戦闘時に敵忍を追いつめ
て、屠る一歩手前の感覚によく似ている。自分の握った刃をその体に突き立て、柔らかい皮膚を切り裂くひと
つ手前の緊張と興奮だ。


カカシはクツクツと喉を鳴らした。自分が狼なら、さしづめイルカは喰われるだけの野ウサギだ。腹を減らして
食らい付いた喉笛から吹き出す血潮は、どんなにか甘いだろう。


逸る自分を宥めるように、カカシは自分の肩を抱きしめた。草の影で囀る虫の音だけが、カカシの体を包み込
んでいた。










『どうか俺をがっかりさせる様な答えは、出さないで下さいね』

イルカは温かな湯に肩まで浸かりながら、去り際のカカシの言葉を反芻していた。固くイルカの手を握り締め、
真剣な面持ちで囁きながら、口唇を寄せた。カカシにしては珍しく、長い粘着質な口付けだった。


__それって結局、断るなってことじゃないの。


自分の唇に手をあてて、ゆっくりと指先でなぞった。何だか今日はキスばかりしていた気がする。それなの
に、酷く疲れた。いつもとは随分と様子の違ったカカシの所為もあるし、何より考えることが多すぎる。


自分を掻き口説いていたカカシの顔が浮かんだ。その素顔を初めて見たときは、あまりの秀麗さに腰が抜け
そうになった。ただ単に整っているというだけではない。その容貌はどこかしら中性的で、妖艶とも言える魅力
を放っていた。加えて温厚な性格、且つ比類無き実力の持ち主とくれば、文句の付けようがない。


あれほど完璧に何もかも兼ね備えた人間が、何故自分に固執するのだろう。


人は自分にないものに惹かれるというが、カカシのもっていないものどころか、最悪だった男運以外自分には
何の取り柄もない。顔ということも有り得ない。自分の顔の中心には大きな傷が走っている。大分薄くはなっ
ていたが、さりとて見過ごせる程のものでもない。では身体だろうか。いや、それだけは絶対にない。何故な
ら___イルカは一度もカカシと性的交渉を持ったことが無いからだ。イルカが拒んだ訳では無い。カカシから
一度も求められないのだ。

キスはする。身体を擦り寄せれば抱き締めてもくれる。だがそれから先には、絶対に進まない。

イルカを部屋まで送り届けても上がり込んだことなど殆どない。ドアの前で両手を握り締めておやすみのキス
をして終わりだ。そうして未練を残す様子もなく帰っていく。そのあまりのストイックさに不能かと疑ったこともあ
ったが、そういうわけでもないらしい。さりげなく理由を尋ねれば、

__イルカ先生を大事にしたいから

そう笑顔で答えられれば何も言えなかった。イルカも性欲がそれほど強い方では無い。カカシの淡泊さには胸
を撫で下ろしていたからだ。


__けれどさっきのキスは。


帰り際にカカシと交わした口付けを思い出すと、イルカの顔から火が噴いた。カカシにしては珍しく、長く濃厚
なキスだった。あれと比べたら、今までのキスなんてほんの挨拶程度だ。込められた性的な意味合いに、イ
ルカの身体の奥が久しぶりに疼いた。__あんなキスをするカカシのセックスは、一体どんなものだろう。


「あああっ!な、な、何!一体私は何をっ!!」


頭を冷やそうと勢い良く顔に水をかけた。もうどんな男にも深入りしないと誓ったんじゃないのか。いやしかしカ
カシに限っては違うかもしれない。これまでの様に本当の幸せと安らぎを与え続けてくれるかも知れない。
いや、今まで自分が幸せになりたいと願って叶ったことなどあったか?今回に限って、話が上手すぎる。自分
の身体のどこかで、激しく警報が鳴っている。これ以上前に進むなと警告している。いやいや、しかしこれは
自分にとって、おそらく最後のチャンスだろう。なにしろ相手は『写輪眼のカカシ』だ、その妻に収まる以上の
名誉があるだろうか?何より自分はカカシを酷く好いている。その気持ちに嘘はない。いやいやいや、やっぱ
りどこかおかしい、何か裏があったらどうする、いやいやいや・・・・


考えれば考えるほど煙の出そうな頭ごと、浴槽の中にイルカは潜った。溢れだした湯が派手な音を立てて流
れ出した。







イルカの危惧した通り、カカシには秘密があった。


カカシはふたなりだった。


カカシの胸には女のものよりは随分と控えめな、しかし男にしては不自然な脹らみがある。陰嚢の横にはパ
ックリと口を開けた膣があり、その奥には退化した子宮の様な袋さえあった。しかし卵巣は持ち合わせていな
いため、妊娠する事は不可能で月経も無い。


この事実を知るのは代々の火影と医療班のトップ、そして数名の医療従事者だけだ。


カカシ自身、この身体に何の感慨も無かった。生まれた時からこの身体だ、とりたてて不都合はなかったし、
他人との違いを理解していても悲壮感に浸ることは無かった。こんなものだと思いながら過ごしてきた。

しかし閉口したのは、里から男女問わず肉体関係を厳しく制限されたことだ。唯でさえカカシの体には機密が
多い。その上ふたなりだと情報が漏れれば、どこでどう利用されるか知れたものでは無い。性欲処理には花
街の老舗の店から決まった遊女が与えられ、他の女達とは触れ合うことも許されなかった。

カカシとて、体は両性具有であっても精神は健全な成人男子と全く変わりない。好きな女が出来ても迂闊に
抱き合うこともできない不自由さは、カカシを大いに腐らせた。妻を娶ることは許されていたが、背負わせるも
のの大きさを考えれば気軽に声も掛けられない。その慎重さゆえに、カカシの性格に好意的な評価がついて
まわるのも皮肉な事象だった。

肌身離さず持ち歩いている愛読書。その中で繰り広げられる男と女の恋愛ゲームは、カカシにとって憧憬と羨
望の世界だった。一対の男女が口説き口説かれ、押して引いたあげくに心を通わせ合い、熱い抱擁を交わし
快楽を分け合う。容易く手に入りそうでいて実は遠い所にある甘い果実を、カカシは指をくわえて見ているしか
無かった。__心から『恋人』が欲しかった。



イルカを初めて見たのは受付所だったか、アカデミーだったか。
その時カカシの身体を貫いたのは「一目惚れ」などという甘やかな感情ではなく、忍として、人間としての直感
だった。


__この女だ。この女しかいない。この女なら、きっと自分の総てを受け入れてくれる。


それから後は寸分の隙もなくイルカに貼り付いた。色々と探ってみれば、無駄に母性を垂れ流していたお陰
で散々な目に遭ってきたらしい。口説き落として自分のものにした後も用心を怠らなかった。今更他人にイル
カを持って行かれるなど冗談どころの話ではない。人知れずイルカに触手をのばそうとしていた人間は意外な
程多かった。頻繁に外を連れ廻し周囲にも認知させたのはその為だ。


風評を聞きつけた医療班のトップに、カカシは呼びつけられた。


__カカシ、くの一に入れ込んでいるという噂だが、大丈夫なのか。


ええ、勿論。カカシは微笑んだ。

もちろん、何の問題もない。可能な限りの布石は打った。自分はもうイルカの精神に楔のようにくい込んでい
る。何を思ってもどうにもならないだろう。後は一気に囲い込むだけだ。


男はカカシの笑みに何を感じたのか、それきり口を開こうとしなかった。




カカシはイルカとの初夜の床を思うだけで、興奮に息が詰まった。初めて晒された自分の身体を見て、イルカ
はどんな反応を示すだろう。驚愕の叫び声を上げるだろうか。声もなく逃げだそうとするだろうか。

だがどのみちイルカに逃げ場は無いし、逃がしはしない。

あの細い手首を掴んで自分の陰茎を握らせ、潤む膣に指を這わせる。想像しただけで、今にも自身が勃ち上
がりそうだった。


カカシの伴侶になるということは、カカシの秘密を墓場まで持っていくということだ。もしそれを拒否すれば、そ
の代償は命で贖わなくてはならない。つまり拒絶の果てに待ち受けるのは死だ。

しかしカカシには絶対の自信があった。そんなことは有り得ない。必ず自分が、倒錯したセックスの虜にして
みせる。自分から足を開いて、強請られずにはいられない身体にしてやる。その為に何度と無く浚われそうに
なった情欲の波に、死ぬ思いで耐えてきたのだ。

カカシは上がる呼吸に耐え切れぬように、自分の両腕を撫でさすった。決定的な最終打が、思いもかけず緊
張と高揚をもたらしているようだった。

それでもカカシは、不敵な笑みを浮かべて猫の目のような細い月を振り仰いだ。



あぁ、イルカ、イルカ、イルカ。はやくこの腕に墜ちておいで。

この世の天国と地獄を、一遍に味あわせてあげる。



カカシは窓から漏れる柔らかな灯りに目を細めて深く息を吐くと、音もなく姿を消した。



〈 了 〉






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