ダンサー・イン・ザ・ダーク
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反転した視界と背中に感じる床の冷たさで、自分が押し倒されていると知った。
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乾いた硬い音と同時に寝間着のボタンが綺麗な放物線を描いて飛んでいくのが見えた。
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玄関先で上半身を裸に剥かれそのまま男に引きずられ居間に転がされ、その衝撃で少し咳き込んだ。自分
を見つめる男の噂通り怖ろしく整った素顔を見るのは初めてだったが、現状を認識することで精一杯の脳には
何の感慨も湧かない。
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男は、自分が掌中の玉の様に育て上げた生徒を危険に晒す決断をしたばかりか、大切な命を軽んじる発言
までした。危険で不確定要素の多い環境に易々と子供を放り込む、教育者としてあるまじき価値観。唯でさ
え忍は一朝一夕に育つものでは無い。一人の忍を一人前に育て上げるには大変な労力と時間を要する。天
才と誉めそやされて育った男にはそれが何一つ分かっていない。イルカはその軽薄な物言いが許せなかっ
た。だから抗議した。責め立てた。一時険悪な雰囲気に陥ったが、結局その場は物別れに終わった。
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その男が深夜、自宅を訪ねて来た不自然さに全身が緊張した。
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しかし元生徒達の名を挙げながら突然の訪問を詫び、殊勝に頭を下げる姿に警戒を解いた。男の女癖に関す
る噂が一瞬頭をよぎったが、相手はどれも一流の女達ばかりだと聞いていた。反対に自分は才能も容姿も至
って凡庸な中忍のくの一だ、まさか自分に興味がある訳ではないだろう、今まで親しく口を利いた事すらない
のに。何より此処は戦場ではなく平穏な里の中で、男はその実力故に里の誉れと讃えられる人間なのだ。
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下着に手を掛けられてはじめて、男がこれからしようとしていることと、自分がされようとしていることの恐ろし
さに身が竦んだ。
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身を捩って台所に向かおうとすれば再び引き倒された。それならばと印を組もうとすれば指先が鉛の様に重く
上手く動かない。何か術を仕掛けられたに違いなかった。
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体中を這い廻る息の荒さに、男がかなり興奮していることが知れる。形の良い指に触れられた場所から順に
鳥肌が立った。両足を開かされ、のし掛かってくる男の重みに吐き気がする。武器も使えず印も組めないとな
れば、自分はもう唯の女だ。あらん限りの抵抗を試みて息は弾み声すら上げられないのに、振り回す腕は難
なく拘束されて頭の上で一つにされた。戦場での任務なら口内や秘所に毒薬を仕込んで望んだものだが、こ
こは里内でましてや自分の部屋だ。そんな支度をしている訳もなかった。
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今まで運良く敵に捕縛されたり陵辱されることもなく過ごしてきたのに。里の同胞の、ましてや「写輪眼のカカ
シ」からこんな陵辱を受ける羽目になろうとは。
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互いに弾む息は一つに混じり合いもうどちらのものかも分からない。情欲に濡れた視線を抗う瞳で強く跳ね返
すと男の口角が上がった。
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そう思う間もなく、足の間に熱い塊が無理矢理捻じ込まれたのを感じると極度の怒りと恐怖で脳内が白くスパ
ークした。
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男はイルカの中で数回動くとすぐに達した様だった。忙しく息を吐きながら汗みずくの体を起こすと、今度はイ
ルカの腕をとって立ち上がるよう促している。その意図を瞬時に察したイルカの口から初めて叫び声が漏れ
た。
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ヤメテ、ヤメテ、ヤメテ!! お願い、ベッドはイヤ!!!
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そこは一日の終わりに自分が最も安らぎを感じる場所だ。恋人と巫山戯合い睦み合い、満ち足りた疲労に包
まれてそのまま眠る。その恋人の移り香もそのままの、柔らかく自分の体に馴染んだ寝台でこれから再び受
けるだろう獣のような行為を思うと涙が溢れた。
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大丈夫、結界張ってあるからいくらアンタが叫んでも周りに聞こえやしないよ。
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声帯閉じちゃってもいいけど、アンタの善がり声も聞きたいし。
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会話が成り立っていない。男の馬鹿さ加減に眩暈がした。薬を使われるならともかく、犯されて感じる女が何
処にいるだろう。快楽が恐怖と嫌悪に勝ることなど絶対にあり得ない。それともそのフリをした方が早く終わる
のだろうか。
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思考に囚われていた僅かな隙を突くように腕をとられ、いとも簡単にベッドに投げられた。
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喉を這う舌のぬめりに嫌悪を覚えながらイルカは男の言葉に目を見開いた。タツキのことを指しているのか。
この腐った上忍の遊びは、これからも続くと言うのか。
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穏やかな恋人の風貌が瞼に浮かぶと、絶望でまた涙が零れた。タツキはどんなに悲しむだろう。だが最早男
の命令通り別れを納得させなければならない。でなければこの男は躊躇いなくタツキを排除するだろう。どん
な手段を使ってでも。
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イルカは、自分と恋人の前に広がっていた平穏な日常が瓦解する音を聴いた。
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そんなに泣かないでよ、困っちゃうな。オレホントは優しい男だよ?
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手のひらで流れる涙を拭う男の仕草はまるで恋人の様な馴れ馴れしさで、イルカは思わず身震いした。まとも
に愛し愛された経験などないだろう男の色違いの双眸は、硝子の様に冷涼な光を湛えている。
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人を想い、慈しみ、与え、同等の、あるいはそれ以上の労りとねぎらいを受ける歓び。それは玩具を弄ぶ行為
とは全く違う。ごく普通の人間なら皆肌で理解しているそんな感情も理屈も、おそらくこの男は持ち合わせて
いない。
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酷薄な笑みを浮かべる唇が、まるで口付けを強請るように迫って来た。素直に受け入れられる筈もなく激しく
顔を背けたイルカに、碧と朱の双眸が苦笑いに揺れたかに見えた、
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イルカは電光石火の速さでベッド下のクナイを引き抜くと、渾身の力を込めて凪ぎ払った。
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今自分が舌を咬んでもこの男は動ずることなく、自分を打ち捨てるだけだろう。それは取るに足りない虫を踏
みつぶす行為に等しいに違いない。しかし、虫には虫の矜持がある。
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この世に無駄に摘まれてよい命などない。訳なく潰されてよい魂など存在しない。
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それを一度でいい、男に分からせてやりたい。自分が死んでもいいのはそれからだ。
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男の左頬の薄皮一枚切れた傷跡から血が滲んでいるのが見えた。
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取って付けたような優しい口調とは裏腹に右腕が締め上げられ、骨の軋む音が聞こえる。痛みに体が跳ね上
がり、クナイが落下する音とイルカの叫びが共鳴した。
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気の強い女も好きだけどさ、次からこーいうのは遠慮したいね。
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針が振りきれる程の爆発力で向けた刃は、男の喉元を掠めもしなかった。持てるチャクラ全てを使い果たし指
すら動かせないイルカに今度こそ薄い唇が落ちてきて、口内を好きなように掻き回す。
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今自分を満たしている混乱や憤怒や恐怖や哀切を、理解する日が来るのだろうか。
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いつかその日が来るのなら、その可能性が僅かでもあるのなら、自分はこの恥辱のなかで藻掻きながらも生
き続けよう。そうして蹂躙される度、ひとさしの舞いの如く必殺の刃を向け続けよう。その刃が男の喉を貫くの
が先か。あるいは男が悔恨の涙を流す時が先か。
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愛しげに髪を撫でる男の言葉に目をそらすと、窓の外に下弦の月が見えた。低い笑い声が床を這い、男の指
がゆっくりとイルカの唇をなぞる。軋みながら進む時も何時かは満ちて夜明けが来る。その時部屋に差し込む
暁の光は、捻れたイルカの未来をどんな形で照らすのだろう。イルカは穏やかに過ぎ去った日々に惜別を告
げるように、ゆっくりと目を閉じた。
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〈了〉

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