When You Gonna Learn



Mountain high and river deep.
Stop it going on,
We gotta wake this world up from its sleep,
People, stop it going on

  When You Gonna Learn / jamiroquai











「お疲れ」

「おふはれー」


濡れたコットンで拭われた瞳が弧を描き柔和に笑う。鏡に向かい手早く落とされるきついメイクの下は、いつも
のあどけない、そしてありふれた女の顔だ。


「今日は良かったね、客も僕達も」

「盛り上がったよね。すごく良かった・・・・ちょっと、ていうかかなりキタ」

「うん、ちょっと無い一体感だったよ、君の声も良く伸びてたし」

「そう?ありがと」


ニ、と上がった口角が戻りきらない内に、その唇を塞ぐ。


「なに、いきなり」

「・・・ご褒美。」

「別に頼んでないけど」

「まぁそう仰らず」


うらぶれたライブハウスのバックステージ。楽屋とも呼べない狭く薄暗い二部屋の、残る一つが与えられてい
るのはバンドのメンバー中、イルカが唯一人の女である為だ。大声を出さずとも鍵すら設置されていない薄い
ドアの向こうに、重なり合う二つの気配はダダ漏れだろう。再び顎を掴み小さく開いた唇をこじ開けた。突き入
れた舌の平で口内をまんべんなく蹂躙すると、与えられる刺激に呼応してイルカの肩が揺れる。


「・・・ヤマト君さ」

「ん?」

「こんな質問、今までイヤってほどされたと思うけど」

「うん、痛いよ舌にピアス」

「うえぇ、やっぱり!?じゃなんでするの」

「いや今は全然平気だし。まぁ入れた時はさすがに辛かったけどねぇ」

「・・・質問に答えてないよ・・・」

「僕の部屋、これから来る?」

「いかない」

「どうして」

「もれなくエッチにもつれ込みそうだから」

「そりゃ当然、ソレが主要な目的であるわけだし」


まだ汗と熱の引かない首筋に歯を立てる。きつく吸い上げた跡を優しく舌で撫でると、嬌声に近い吐息が漏れ
た。身を震わせる大音響、うねり這い上がり雪崩れ込み突き上げ跳ね返る観客達の殺気立ったボルテージ。
皮一枚の身の危険と共に感じる興奮の残滓は、こうしていとも簡単に淫楽への欲求にすり替わるのに。


「・・・好きだよ」

「ありがとう」

「愛してる」

「嬉しいわ」

「で、僕の部屋来る?」

「いかない」

「・・・どうしていつもそうつれないのかなぁ。半端に弄ばれる男心、もう少し察して欲しいんだけど」

「勝手になすり付けないでくれる?弄んだ覚えはないし何度聞かれたって答えは変わらないし・・・それにエッ
チなら、いつだってしてるじゃない」

「ステージの上で、なんてベタなセリフはなしね。そんなはぐらかし一番嫌いだ」

「・・・逃げ道を塞ぐ男は嫌われるよ?優しくない」

「逃がしたくないんだから仕方がない」

「『舌先三寸』って言葉、謹んで君に進呈したげる」

「獲物に優しい狩人なんかいないさ、ハナから喰う気がないのか余程のマゾでなけりゃ」

「・・・そこまで口が廻るのに、どうしてその先の可能性に行き着かないのかな。『他に男が、いるのかも知れ
ない』」

「悲観的な憶測は一切しない質なんだ。人生一度きりだしね、楽しく生きたいじゃない?」

「あのねぇ・・・」


呆れた表情の唇にもう一度顔を寄せたが、僅かの隙に煙草を咥えられてしまった。肩を竦めて火を付けてや
る。忽ち立ち上る紫煙の向こうで黒目がちの瞳がク、と笑った。


「ホント意外性bPだよね。初めて会った時は思わなかったな、ヤマト君がこんなに軽い人だなんて」

「その形容詞は甚だ心外だなぁ。僕は君への気持ちと自分の欲求に至極正直に従っているだけであって」

「そう?」

「そう。それに意外性ってのは結構使えるファクターでもある。心理的事象に於いては突発的且つ好意的なベ
クトルに向かわせる要素を有するし」

「・・・あたま痛・・・二枚どころか三枚舌ってヤツ?ピアス効果かな」

「うん。じゃ、取り敢えず鏡に向かって手ぇ付きなよ。お尻こっちに向けて」

「はぁ!?何いって」

「いい仕事するよ?僕の舌もピアスも指もその他諸々のパーツも含めて全部。お褒め戴いた事だし、僕の部
屋が嫌なら手っ取り早く此処で」

「誰が何を褒めてんのよ!!あッ、ちょッ、ん、ん・・・ッッ、・・・AVの見過ぎじゃないの!?バカッッ!!」

「大丈夫大丈夫、心配しなくてもこれまでのユーザー様には120%の確率で大好評だったんだから」

「そーゆー問題じゃ・・・ひゃっ、何押しつけてんの!?」

「何って、そりゃナニを」

「何やってんだお前等」


二組の眼が同時に向いた先には巨漢のベーシストがいた。顔に走る数多の傷とは真逆に慎重な姿勢で楽器
を奏でる男は、それが癖であるのか心持ち首を傾げながら眼を瞬いた。


「イビキ、子猫ちゃんが発情期で身体持て余してるんだって。相手してあげて」

「えっ、僕!?僕のこと!?」

「悪ぃな、俺もソッチの気はねぇんだわ・・・イルカ、お前いつまでオーナー待たせてんだ」

「はぁい」

「いい加減待ちくたびれてるからな、一言詫び入れとけ。新米、お前もとっとと帰んな。子供はとっくに寝てる
時間だろ」

「・・・うわ、傷付くなぁその言い方。森乃さんと僕、実は一つしか違わないって知ってました?」

「所構わずサカる奴のどこがガキじゃねぇってんだよ」

「またねヤマト君、次も気持ちいいエッチしよ」

「ステージの上で、なんてつまんないオチは止めて下さいよ。直接的粘膜接触以外はセックスと認めません
からね、僕」

「アハハハハ、ホント口の減らない子だよねー。嫌いじゃないけど?愛嬌あるし」


お前等な、と額を押さえるイビキの横を擦り抜け、イルカの背がドアの向こうに消える。威嚇と殺気の混じった
一瞥を残しイビキもその後に続いた。

ぬるい人いきれと、灰皿から立ち上る細い煙だけが残される。遠ざかる大小の足音と入れ替わりに落ちる静
寂に背を押され、渋々と部屋を出た。床を蹴る己のブーツが多少の荒さを含んでいたとしても仕方がない、ま
まならない男心の発露と許して貰おう。

横目で眺めたステージは総ての照明はおろか電設をも落とされ、ヒソとの音もせず静まり返っている。その闇
は奈落の始まりのように、ポッカリと漆黒の口を開けていた。








「なんだ、タクシーまだ見つからねぇの?」

「・・・不知火さん」


背負ったギターと一緒に振り返ると不知火ゲンマが立っていた。男も見惚れる、と誰もが褒めそやす美貌と線
の細い身体は半分が深夜の闇に溶け、輪郭がはっきりしない。薄い唇の端に咥えられた煙草には、珍しく火
が着いていなかった。


「ボーッとしてどうしたよ、もしかしてイビキにシメられた?」

「いえ・・・」


後にした雑居ビルを見上げた。小規模な飲食店や貸事務所がひしめきあうヒョロリと縦長なこのビルは、丸ご
とが地下のライブハウスのオーナー、畑の持ち物だと云われていた。


「・・・ホーンテッドマンションみたいだなぁと思って」

「ハハハ、お前時々可愛いこと云うね」


この辺は人が捌けちまうと廃墟みたいになっちまうしなぁ。ゲンマが呟きながら火を強請る。肩を竦めて着け
てやった。


「いいですよね、ドラマーさんは移動が楽で。」

「何だよ八つ当たりか?セットばらして持ち歩く訳にもいかねぇだろうよ。・・・新米、お前やっぱりイビキにシメ
られたんだろ、このまんま駅まで歩くのもキツいんだったら車使えよ」

「いや、だから・・・」

「いくら待ったってイルカは来ねぇよ」


重低音の先にはそのイビキがいた。梅雨が明けたばかりのまだ滑った風に嬲られ、薄手のシャツの裾が靡い
ている。


「太鼓叩きはいいよなぁ、バチ二つ持って歩きゃあいいんだからよ」

「何八つ当たってんの!?さっきから何、オレなんかした!?」

「悪ぃ悪ぃ、お前じゃなくてコイツがな。楽屋でイルカの下着引きずり下ろしてやがった」

「マジ!?」

「いやいや、だからですね」

「まったく、なんでこうもギター弾きばっかりイルカにちょっかい出すんだかなぁ・・・すげ替えてもすげ替えても
キリがありゃしねぇ」

「そりゃポジションの所為じゃなくてさ、オレ達の鉄壁の自制心も一因だよね」

「心外だなぁ、そんな有象無象のつまんない前例達と一緒にしないで下さいよ。僕は至って真剣なんですか
ら」

「「はぁ!?」」

「・・・・自分でも分からないんですよねぇ、どうしてこんなに好きになっちゃったのか」


腹を抱えて笑う男二人の笑い声が、濁った夜空に響く。__笑いたければ笑え、恋情なんぞ元々他人の認
証も許容も必要い。


「まぁイルカが面白がってるうちはいいさ。だがオーナーに泣きつかれたら最後、指の一、二本じゃ済まねぇと
思え。そこんとこの覚悟があるってんなら、もう何も言わねぇけどな」

「・・・どういう意味です」

「新米君は知らないだろうけどさ、オーナー、絶対に肌を見せないんだよ真夏でも襟元きっちり上げてさ・・・全
身に墨入れてあるんだって、龍が五匹ものたくってるって話」

「・・・昔ヤクザだったって、あの噂ですか」

「俺は名うてのヒットマンだったって聞いたけどな、まぁそういうことさ。顔も名前も何度も変えてるらしいし真相
は定かじゃねぇが・・・少なくともカタギじゃねぇってのは確かだ。そんな人間をつついたところでどんな目に合
うのやら、お前の軽い頭でも分かるだろ」

「・・・・・」

「オレたちが何で長い間イルカのツレなのかって言えば唯一つ、アイツに絶対手を出さないからさ。ま、番犬
の意味もあるのかもしれないけど?」

「いいか、俺はちゃんと忠告したぜ。ここは歌舞伎町でもミナミでも新大久保でもねぇがそのスジの人間にとっ
ちゃ人殺しなんて簡単だ。ミンチにして重石と一緒に東京湾にでも沈めちまえば、それで終わりだからな」



__・・・私がその車に乗ったのが間違いだったと気付いた時には、もう遅かったの。もう車は、かなりのスピ
ードで走り出していて



「イビキの言ってた通り、ここでウダウダ待ってたってイルカは来ないよ。ライブの後はいつだってそうなんだ、
日が昇るまでオーナーが帰さないから」

「・・・よくヤるよなぁ、あの人も。あと四年だか五年だかで還暦なんだろう」

「えッ、マジ!?それはオレも初めて聞いた!!どう見たって四十ソコソコにしか見えないよねぇ!!」



__私はその時まだ七歳だった。学校に上がったばかりでランドセルには真新しい黄色いカバーが掛けられ
ていて、一緒に下校していた友達と別れた直後を狙われたのだけれど



「そのトシで二十代の愛人かぁ・・・男の夢だよねぇ」

「・・・そんな訳がない」

「はぁ?」

「そんな筈、絶対にない!!ある筈がないんだッッ!!」

「あぁ!?新米、お前何を」



__その時たった一つ幸運だったのは、そこに居た男達の中に幼児性愛者がいなかったこと・・・連れ込まれ
た薄暗い倉庫で、犬猫を嬲るみたいに散々蹴り上げられては転がされたけど、この災難の一因は自分の愚
かさにもあるって分かってた。・・・あれほど知らない人間にはついていくなと言われていたのに、私はそれを
あっさりと破ってしまった



「だって、親子なんでしょう!?」

「はぁ!?何の話よ、一体誰と誰が」

「オーナーと、彼女ですよ・・・!!」



__・・・お父さんが大ケガをされて大変です、そう言われて頭に血が上ってしまったの。それが嘘か真実な
のかなんて考える暇もない、私は大慌てで招き入れられたまま車に乗ってしまった・・・間違いだと気付いた
のは、ドアをロックした途端にヤツらが大声で笑い始めたから



「・・・新米、お前いい加減にしろよ。言っていい冗談と悪い冗談があるぞ」

「そうさ、仮にお前の言ってる事が・・・その、万が一本当だとしてだ、何でだよ・・・?何で、父親と娘が」

「・・・ヤマト、お前そのヨタ話、一体誰から聞いた」



__数時間前に食べた給食は勿論全部もどしてしまって胃液まで吐き尽くして恐怖と痛みで涙と震えが止ま
らない、そんな私の顔をアイツらは汚いと笑って蹴ってまた笑った。・・・正直、もうダメだと思ったわ、ここでこ
のまま蹴り殺されて死ぬんだと思った。ううん、いっそこの状況から抜け出せるなら早く死にたいとすら思った
な・・・たった一つの、願い事を除いては

__願いごと?

__うん、一目でいい、最後に一度だけ、父に会いたい。・・・一目父の顔を見て、死にたい



「え?誰から聞いたんだ!!」



__おとうさんおとうさんおとうさん、早く助けに来て、でも迎えに来て、でもない・・・ただずっと『おとうさん』っ
て、それだけを声に出さずに叫んでた。何度叫んだのかどれくらい叫んだのか分からないくらい・・・そしたら
ね、本当に父が迎えに来たの。驚いたわ



「ガセじゃねぇってんなら言ってみろ!!ヤマト!!」



__父がその場所まで何をしてどうやって辿り着いたのか、私は今でも知らない。でもあの時、一目父の顔を
見ただけで直ぐに分かった。・・・父はとても、とても怒っていた



「イビキちょっと落ち着けって、声が大きいぜ。周りに響くしイルカに知れたらコトだ」

「だがよ」



__父の身体は極度の怒りと殺意に支配されていて、一切の感情が削ぎ落ちた表情は本当に・・・本当に、
美しかった。その時、私は



「新米、ここにはオレ達しかいねぇ。オレもイビキも口は固いし誓って他言はしねぇよ、だから何処の誰から聞
いたのか言ってみな」

「それは・・・」



__私は



「ゲンマ、もういい。興奮して悪かった」

「ああ。・・・で、どうなんだよ新米。まさかイルカ本人からってワケじゃねぇんだろ?」



__私は生まれて初めて、『男』って、生き物を



その話を聞いたのは何度目かの音合わせの前だったのか後だったのか、あの狭く埃臭い楽屋でだったのか
まだ人気のない客席でだったのか。確かに思い出せるのは唯一つ、肩を並べて座る自分達の手には空けた
ばかりのコロナの瓶が握られていた。イルカは瓶の底に沈んだライムの緑色を、時折眼前に掲げ眺めては笑
みを浮かべていた。


「それは」


そう、あの時イルカは何の気紛れか突然に、殺伐とした過去の記憶の一片を切り取って見せたのだ。しかし
おそらくは個人的、或いは組織的抗争に巻き込まれた娘を単身奪い返しに乗り込んだ『父』が、何処の誰とも
明言してはいない。

スピーカーから低く流れていたハード・バップ。グラント・グリーン。だがあの夜、確かにあの男がいたのだ。
訥々と小声で語るイルカの視線の先、カウンターの暗がりの中にあの男が。


闇に同化し黙したままひっそりと佇む、『畑』と名乗るあのオーナーが。


「・・・申し訳ありません、思い違いだったかも知れません」

「「はぁッッ!?」」

「バカなことを言いました。申し訳ありません、どうか忘れて下さい」

「てッッめぇぇぇッッ!!」


重量級の拳を腹に受けても、辛うじて蹈鞴を踏んだだけの自分を褒めてやりたかった。急速に込み上げる吐
き気を唾液と共に何とか飲み込み、背後の電柱に凭れる。視界が霞む程息が上がり鳩尾に走る痺れの所為
でひっきりなしに冷たい汗が流れたが、惚れた女が幼い頃味わった苦衷を思えばこれしきの痛み、蚊に刺さ
れた程度と呼んでも良かった。


「イビキ、止せって!!」

「ちっくしょう!!巫山戯やがってッッ!!」

「・・・申し訳、ありません・・・」

「止めとけイビキ、つまんない勘違いってそれだけだろ!?二発目喰らわす程のことじゃねぇよ!!」


父、と唇から零れる度眦を染める紅。吐息に籠もる熱。あの夜、自分は恋に落ちたのだ__どんな難攻不落
のシュミレーションゲームにも勝る、前途多難な恋に。

突然視界に刺さった灯りは車のヘッドライトだった。大柄なイビキの背に縋り付きながら、ゲンマが叫んだ。


「新米、早くあのタクシーに乗っちまえ!!オレだっていつまでもコイツを止めてられねぇッッ」


すみません、と言い捨て止めた車に転がるように乗り込んだ。息を吐いて固いシートに凭れた途端、再び腹に
痛みが走る。


「・・・ッ、タタタ・・・、あの体格だもんなぁ、効くなぁやっぱり」

「お客さん具合悪いんですか?大丈夫ですか」

「ハハ、平気平気・・・これくらい」

「・・・どちらまで」

「取り敢えず、駅まで」


客の体調を気遣うよりは面倒事に巻き込まれたくない、それだけの理由で発しただろう運転手の質問に薄笑
いで答えた。狭い路地を三つほど抜け大通りに出ればやがて車外の風景はガラリと変わり、其処は無機質
で巨大なビルの立ち並ぶ所謂オフィス街だ。深夜とも云える時間帯であるのに、壁面に貼り付く無数の窓の
中は明るい輝きを放ち続けている。__その灯りの一つ一つに、うねる五匹の龍と絡み合うイルカの肢体が
浮かんだ。


「まぁ、絶望的って訳でもないさ。・・・その気になれば、チャンスなんて何処にでも転がってる」

「・・・何か?」

「ああ、いえ何でも」


ルームミラー越しに、運転手の訝しむ視線とぶつかった。__そうだ、勝機が皆無って訳じゃない寧ろ状況は
好転していると云える。おそらくイルカは自分に対し、何か特別な感情を抱いている。それだけは間違いな
い。でなければ何故長年苦楽を共にしたメンバーにではなく、新米の自分に抱える『秘密』を打ち明けた?

派手なファンファーレが鳴り響き、愛馬に跨った騎士は仲間と共に美しき姫君の元へ。目指すは囚われの姫
が救出を待つ、暗黒魔王の城。子供の頃散々にプレイしたRPGが脳裡を掠める。


「すみません運転手さん。行き先変更して、暫くこのまま真っ直ぐ走ってくれます?」


はぁ、と答えた男の眼はますます困惑に満ちていた。きっと厄介な客を拾ってしまったと、その胸の内は戦々
恐々なのだろう。

大丈夫大丈夫、誓ってタクシー強盗なんかしやしないから。尻ポケットにはちゃんと財布だって入ってるし。
__ただ少しだけ、もう少しだけ脳裡で渦を巻く思考に、道筋を付けたいだけだ。


果てさて姫君救出までの最短ルートは?必要な武器は、アイテムは?


半分ほど下げたサイドウィンドウから勢い良く風が流れ込む。喧噪を手放し対向車線はおろか、舗道に人影す
ら途絶えた街は敬虔な静けさに満ちて郷愁を誘う。

顔を打つ強い風に目蓋を閉じた。まもなく、そして誰もが望むと望まざるとに拘わらず、苛烈な灼熱の季節が
やって来る。


のたうつ龍の画は、もう見えなかった。



〈 了 〉



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