[環境消費税の根拠]

 このHPで提唱する環境消費税は、もちろん外部負経済を睨んだ税制であるが、経済学的意味での最適な効率の達成を根拠とする環境税ではない。経済政策は効率の観点からのみ選択されるものではなく、分配や衡平という観点も重要であるし、さらに環境問題は人間の基本権を侵害している側面も無視できない。環境消費税は以下のような考え方から生まれる。

[自然生命システム・経済社会システム] まず、人間と環境との関係を考えることから始めてみよう。私達人間は二つのシステム−自然が提供してきた生命活動の基盤とそのうえで育くまれてきた生命活動が織り成す自然生命システムと、人間自身が創ってきた経済社会システム−の中で生きていると考えることができる。自然生命システムも経済社会システムもその構成要素が互いに関連し影響しあいながら変転を続け、しかも、ある限度内で各々その平衡を保つ自律作用を備えている。このため、人間は経済社会システムが自然生命システムに影響を与え、そのバランスを一方向に傾け続けてしまうことに気がつかなかった。経済活動は大きければ大きいほどよく、そうすれば人間はより豊かに、よりハッピーになれるという信仰である。自然から天然資源を取り出し、生産し、消費し、廃棄する営みをいかように、そしてどのような規模で行おうとも、それは人間の経済社会システム内で収まっていると疑わず、経済社会システムが変動し新たな均衡を求めるときも、自然生命システムのことは度外視し、ただ、経済社会システムのなかだけの制約方程式により解を求めればそれが人間の進むべき道だと了解されてきた。しかし、自然生命システムもそのバランスを回復する能力に限界がある。人間の営みが経済的収支にとどまらず、物質的収支を伴う限り、経済社会システムは自然生命システムの自律性を揺るがすこともありうる。「人は環境の創造物であると同時に、環境の形成者である。」(72年6月、ストックホルムでの国連人間環境会議による人間環境宣言より)という表明にはこの認識が含まれていたのかもしれない。その後、地球温暖化が加速し、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が人間活動が地球温暖化の原因であることを公式に科学的知見に基づいて認めたことのなかに、経済社会システムのあり方・その活動水準は自然生命システムと無関係ではないということがはっきり示されたIPCCはこちら)。それどころか、改めて見廻してみると、フロン、ダイオキシン、酸性雨、農薬、干潟の埋立て、廃棄物の山、人間の生活域の膨張と動物の生息圏の圧迫、失われゆく生物多様性など、人間の経済社会活動が自然生命システムの主要な破壊者であることがよく見えてきた。

[経済社会システムと自然生命システムとの間の物質収支] 経済社会システムの自然生命システムとの間の物質収支にはさまざまの局面がある。

(1)自然生命システムから経済社会システムの内部へ資源を取り込むとき、自然生命システムに多くの傷跡を残す。例えば、アマゾンでは、そこに埋蔵される鉄鉱石を採掘するため、熱帯雨林を伐開して道路を通し、熱帯雨林を剥ぎとって鉄鉱石を採掘し、熱帯雨林を伐採して溶鉱用の燃料としている。ボーキサイト精錬用の電力を供給するため、広大な森林を水力ダム建設によって水没させている。重量比にして僅かな有用物を抽出するため、膨大な副産物が無用物のレッテルを貼られ、捨てられている。これらの無用物は自然から引離された後、今度は有害物として姿を現わし、大気水土壌を汚染している。また、大規模農業は自然生命システムに直接働きかけて意図する品種を集中的に育成する行為であるから、意図しない特定の生物種の増殖をもたらしやすく、これを抑えるため殺虫剤や除草剤を散布し、化学肥料を撒き、土壌や水を直接汚染しやすい。

(2)経済社会システムのなかに取り込まれた資源は輸送され、加工され、製品となり、梱包され、輸送され、販売される。その過程でさらに別の資源を必要とし、エネルギーを消費し、利用されなかった物質を廃棄物として排出する。触媒として利用された後利用されることなく水俣湾に捨てられた水銀は、魚の体内に蓄積され、これを食用にしていた人たちの神経を破壊した。販売された商品は、例えば、自動車のように、その利用の過程でエネルギーを消費し、廃棄物を大気中(自然生命システム)に排出する。

(3)利用された後、かつての有用物は廃棄物として自然生命システム中に排出される。廃棄物は自然生命システムにとっては異物でありそのままのかたちでは同化されない。同化されたように見えてもただ場所を変え地下水に混入して人間の生活域に戻ってきたりする。廃棄物を処理するためにはエネルギーが必要だ。例えば、東京都では下水道事業だけで都内の総消費電力量の約1%を占めている(2002年4月8日、日本経済新聞朝刊)。各家庭からディスポーザで生ゴミを流したら、この電力量はうなぎのぼりとなり、発生汚泥の処理能力もパンクするだろう。ゴミ焼却施設は固形廃棄物を気体に変え大気という自然生命システム中に捨て、地球温暖化に加勢している。

これらのことを見渡してみると、自然生命システムと経済社会システムが共存共栄していくためには、@自然生命システムから経済社会システムに取り込む物質をなるべく少なくする、Aひとたび経済社会システムの内部へ取り込んだ資源はその内部で循環させる、B自然生命システムへの還流を極小化し、還流する場合は自然生命システムに親和するかたちで行うか、または、自然生命システムと完全に遮断するかたちで管理する、以上の3点が基本的な方策となることは明らかである。これは経済社会システムの物質循環閉鎖系化政策と呼ぶことができる。製造におけるゼロエミッションの動きはこの考えを実践に移そうとするものといえるだろう。

[経済社会システムの仕組みと物質循環、その是正策] 経済社会システムの物質循環が閉鎖系を志向して行われるかどうかは、その仕組みによって異なる。私達の経済社会システムは市場主義経済と民主主義を基礎とする近代市民社会法制を特徴とするシステムと言えるだろうが、それは自然生命システムに影響を与えてしまうことを認識しないで組み立てられてきたから、閉鎖系を志向してこなかった。

私達の経済社会システムの一方の柱である市場主義経済では価格を指標としてその構成員が行動を決めている。閉鎖系を志向するしないは行動原理に無関係であり、価格を見て有利か不利かがその行動の決め手となる。自然生命システムから資源を取り出して使う方が経済社会システムの内部にあるものを再利用するより安く有利であるから、結果として反閉鎖系行動をとる。自然生命システムに排出してしまう方が安く有利だから捨ててしまい、結果として反閉鎖系行動を選択する。そして、そのような行動を延々と益々スピードを上げながら続けていく。競争社会では有利でない行動を取ることは不利な行動をとることに等しく、危険な行為である。(反閉鎖系行動は)分かっちゃいるけどやめられないのである。

他方、日本国憲法第29条は「@財産権は、これを侵してはならない。A財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。B私有財産は、正当な補償の下に、これを公共の福祉のために用ひることができる。」と定めているが、「公共の福祉」という意味が、これまた自然生命システムに影響を与えてしまうことを認識しないで与えられてきたままだから、財産権が大手を振って他人の権利そして後世代人の権利を侵害する盾の役割をになっている。人類共通の資源である空気、水、土壌、生物多様性、景観等を享受する権利は等しく同世代人及び後世代人万人に与えられる(これを仮に資源権と呼ぼう)。なぜなら、任意のAが任意のBより多く享受する権利が認められないものは万人が公平に享受するものと考えざるを得ないからである。ところが、財産や所得を多く持つものは、それを消費する過程で不相応にこれらの人類共通の資源も同時に消費したりその価値を損なったりする。同様の理由から、未だ取り出されていない資源を享受する権利も等しく同世代人及び後世代人万人に与えられる。資源はあの世に持っていけない。死ぬときはこの世に残していく。この世から得た資源はすべて借り物であり、借受けたときの状態から劣化させずに後世代に残していくものである。後世代人の権利を損なわない範囲で現世代人は資源の使用収益権をもつ。外部負経済とは同世代人及び後世代人に対する資源権侵害の別名である。

ある人Aは6000ccの排気量をもつ車で通勤し、ある人Bは徒歩と電車で通勤するとすれば、Aは公平にあたえられた酸素という資源をBより不相当に多く消費し、CO2を排出する。このとき、AがBに何らかの代価を支払うことは妥当でない。Aが関係する相手方はBのみではないからである。Bの側からみてもAから何らかの代価を受けとることは妥当でない。消費されたのはB個人に帰属する資源ではないからである。では、Aが何も負担せず資源を不相当に多く消費することは放置されるべきであろうか。これは不合理である。社会共通の資源をある特定の個人が余分に消費するわけだから、社会構成員全体を代表する団体が個人Aに何らかの負担を求め、それを団体が収受すればこの不合理を取除くことができる。これは租税なのか、負担金なのか、罰金・科料・過料・交通反則金等のような制裁の性質をもつ金銭給付なのか、加算税のように特別の性質をもつ経済上の負担なのか多くの議論がありうるだろう。しかし、経済社会システムにその存続を危うくする重大な欠陥があり、その補正のために団体がその構成員に負担を課す以外に効果的な方法がない場合には、その負担のしくみを実定法で租税と定め、関係租税法規とあわせて租税として扱うことをためらう理由を見出し難い。なぜなら、団体は経済社会システムの存続を維持する責務を持つから、もし自然生命システムへの悪影響を通じて社会経済システムの維持が脅かされる場合には、そのような脅威を生じさせる原因を可能な限り効果的に除去する責務をもつからである。資金調達を主たる目的としないから環境税は税とは呼べないという考え方は、経済社会システムが自然生命システムに影響を及ぼさないと信じられていた時代に形成された租税観であって、修正の時期に来ているのではないだろうか。

閉鎖系行動から反閉鎖系行動へ一方的に振れてきた天秤を、反閉鎖系行動から閉鎖系行動へ振り戻すというメカニズムが私達の経済社会システムに欠けている。環境消費税の根拠は、経済的効率性よりは、むしろこの重大な欠陥を是正することに求められるだろう。もちろん、環境消費税は経済学で論じる効率性の観点からも有益なものとなるだろうが、その費用便益分析や費用効果分析は経済学の研究者に委ねたい。ただし、後世代に影響を与えない費用(例えば労働のコスト)も影響を与える費用も平板に足し合せるような分析は御免こうむりたい。

[PPPと環境消費税] 環境負荷の原因者に負担を求めようとするPPP(汚染者負担原則)との関係で環境消費税をどのように考えたらよいかという問題がある。ヴァージン材起源の付加価値に対して課する環境消費税には汚染コストとの比例的関係を見出し難いからである。しかし、実際には汚染コストの計測は一意に決まらない。汚染コストの計測には多くの仮定が不可欠であり、しかも、地球温暖化に伴う白砂青松の景観や季節感の喪失のような主観を全く無視しては無意味となる計測対象も存在するため、立場によって値が大きくぶれてしまうのである。公害問題、都市公害から地球環境問題へと解決困難度を高めながら環境問題が変質してきたなかで、汚染コストの計測はますます難しくなり、PPPの厳密な適用は難しくなっているように見える。しかし、もともとPPPもピグー税のように理念であり、課税原則のうちの公平原則として捉えればいいのではないだろうか。では、公平の要件は何か。その最も重要なものは順序関係が保たれることであろう。より多く環境に負荷を与えるものはより多く負担する関係が保たれれば、公平感に反しない。逆に、より多く環境に負荷を与えるものがより少なく負担するとすれば、これは公平感を著しく害する。この順序関係は、2倍の負荷を与えるものが必ず2倍の負担をすることまで求めるものではない。そこまでの厳密性を放棄することからPPPを考え直すことが出発点であったからである。環境消費税ではより多く反閉鎖系行動をとる者はより多く負担するというルールを税額に反映するから、この緩い意味でのPPPを受け継いでいると言える。

[環境消費税の守備範囲] 完全な閉鎖系を求めても、それには限度がある。たとえば、ごみ焼却から排出されるダイオキシンを100%再利用することは考えられない。このような人の生命やDNAの危険に関わる汚染を防ぐためには、リスク税(本章末尾の参考文献に掲げた岡敏弘著「環境政策論」224頁参照)のような環境税も必要となるだろう。環境消費税の守備範囲は広いが、有効でない場面も存在する。

[本当の豊かさ] 私達の経済社会システムの物質循環が閉鎖系を志向して行われ、自然生命システムと共存共栄できるようになるとすれば、そのような社会を成り立たせる技術の集積はそれを促す経済社会システムのメカニズムと併せて、人間にとっての本当の富と呼んでよい。私達はこれからこの世に生を享ける世代にそのような本当の豊かさを引き継いでいきたいと思う。そして、そのような生活モデルを実践し、普及させることは何よりの国際社会への貢献となると思われる。


Initially posted:April 17, 2002. Updated:April 19, 2002.December 5, 2003.