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蝦夷の歴史を訪ねる旅 3 

完結編(蝦夷のご先祖はどこから来たか)

            (2006年6月20日ー7月4日)

1 素晴らしい土器の作品を残した蝦夷のご先祖の縄文人はどこから来たのか?

古代の人類は狩猟、漁労、さらに植物採集で生活していた。年間を通じて食料は潤沢であったとは思えない。動物たちがおいしそうに食べているドングリを見た古代人は、「人間もこれを食べることが出来れば食糧難が解消するのだが」と思ったことだろう。そのうちドングリを煮沸すると渋が抜けることに気付いた者がいた。今から1万2千年前のことである。各地で発掘された縄文の甕は渋抜きに用いた今でいう土鍋である。しかし、これを考案した者が日本の先住民かどうかは定かではない。縄文の甕に似たものはシベリア、中国でも発掘されている。それぞれの土地で独自に作られていたのか、あるいは人の往来に伴って土器文化が伝播したのか、土器を眺めるだけでは解決しない。ここで登場するのが自然人類学と分子人類学の分野である。 

自然人類学者は出土した古代人の頭蓋骨や歯の形状の遺伝学的研究から人類の移動を調べている。分子レベルでの研究も行われている。分子人類学者はミトコンドリアDNAの配列からヒトの類似性を決める。彼らの研究によれば、人類とチンパンジーのDNAは99.4%類似しているがオランウータンとは96.4%と類似性がわずかに低い。この結果ジャワ原人を人類のご先祖にすることをやめ、人類はアフリカで誕生したと結論した。

ヒト科のうち、森の中で植物採集だけに満足していたのがチンパンジーで肉の味を覚えたのが人類である。一つの地域で人口が増加すると食糧不足になり人類は獲物を求めて他の地域へと移動を繰り返した。そして100万年もの時間が経つと人類は地球全体に広がった。自然人類学者によれば、人間の皮膚や目の色、体型、さらに顔の相などは気候環境によって定まったという。

日本人のルーツも解明されてきた。浦和市で発掘された縄文人の骨から採取したミトコンドリアDNAのDグループの塩基配列が現代の東南アジア人のものと完全に一致した。沖縄住民のミトコンドリアDNAは本州よりもアイヌにより近いことが明らかになった。歯の調査からも同様の結果が得られている。これらの結果から次のことが推論できる。

日本列島が中国大陸と陸続きであった氷河期に東南アジアから中国東南部経由で日本列島へ人類が移動してきた。そのご海進で孤立した日本列島は縄文人と呼ばれる人種の基層が確立した。 

私が韓国一周したとき出会った人たちの顔つき、北海道立北方民族博物館の学芸員が、「サハリン南部は彫りの深い顔立ちの人が多い」と話しておられたことから、私は南方からの民族移動は日本列島だけに留まらず、韓国やサハリン南部辺りにも展開していたとみる。

中国大陸では稲の栽培が始まり、人々は稲作に適した土地探しを始める。西日本に稲作が持ち込まれたのがBC400年頃(弥生時代の始まり)とされている。米作りが狩猟や採集よりも安定した生活が出来ることを知った在住者は渡来者の暮らしに同化していったのだろう。九州北部で発掘された人骨の分布から弥生人と縄文人は近くに住んでいたことが分かった。在住者は渡来者と対等の暮らしが出来たのか、あるいは小作農の形態であったのだろうか?いずれにせよ稲作が九州から東北地方まで短期間で普及したことは巨大墳墓の分布や水田遺跡から明らかである。

最近農作物を盗むニュースをよく耳にするが、古代でも同じことがあったに違いない。米泥棒から農民を守り地域を統括する権力者が現れる。このような体制が全国的に存在していたのが古墳時代である。古墳は部族の権勢を示す象徴であった。やがて強力な武装集団が渡来し大和を根拠地として各地の部族を制圧し覇者となる。

しかし大和の支配は北海道と沖縄方面へ及ばなかったため、これらの地域は縄文人の遺伝子を温存してきた。

北海道でアイヌの研究をしてきた自然人類学者の埴原和郎が初めて那覇空港に着いたとき「『自分は今朝札幌を出発したのに、どうしてここにも大勢のアイヌ系の人たちがいるのだろう?』と目を疑った」と著書(日本人の成り立ち)に書いている。

頭蓋骨の研究から縄文人は目が大きく丸顔で二重瞼の東南アジア系とされている。これに比べ弥生人は細目で一重まぶたの平面的な面立ちの北方アジア系で朝鮮半島はもとより関西、九州に多く分布しているという。

犬の遺伝学的研究では北海道犬と琉球犬が東南アジアの犬と共通の遺伝子を持ち、本州の秋田犬、紀州犬、柴犬などは朝鮮半島、モンゴルの犬の系統であるという。

これらの研究結果から、「蝦夷のご先祖は氷河期に東南アジアから日本列島に移住し縄文文化を構築した民族であり、これを制圧した大和は東北アジアから朝鮮半島経由で渡来し中国の政治体制を手本にして国づくりを進めた民族である」と結論できる。

渡来してきた寒冷地の面構えの民族は中国で見聞した食糧増産の技術を在住民族に伝授し、これが支配を容易にしたのではないかと思う。 

大和の勢力が及ばなかった古代の北海道はどうだったか?

古代遺跡の発掘から古代の様子が明らかにされてきた。北海道の道南、道央部は、発掘品から亀ヶ岡(青森県)文化圏とされている。しかしオホーツク沿岸部には海獣狩猟を生業とする民族が渡来し独自の文化圏を築いていた時代がある。このオホーツク文化が栄えた期間は本州の古墳時代から鎌倉時代までとされている。この民族が姿を消したのは獲物とする海獣の減少によるためか、あるいは道南、道央部の縄文人に滅ぼされたのか?(アイヌのコロボックル伝説)。

参考書

日本人の成り立ち 埴原和郎 人文書院(1995)。

モンゴロイドの地球 第3巻 日本人のなりたち 百々幸雄編 東京大学出版会

1995)。

  分子人類学と日本人の起源 尾本恵市 掌華房(1996)。

  日本人の生い立ち 自然人類学の視点から 山口敏 みすず書房(1999)。

  ネアンデルタール・ミッション 赤沢 威 岩波書店(2000)。

  ルーシーの膝 人間進化のシナリオ イヴ・コバン著 馬場悠男、奈良貴史訳

紀伊國屋書店(2002)。

  ものが語る歴史シリーズ7 オホーツクの考古学 前田潮 同成社(2002)。

  蝦夷島と北方世界(日本の時代史19)菊池勇夫編 吉川弘文館(2003)。

9 インターネットで見ることが出来るオホーツク文化の詳しい解説は

西秋 良宏、宇田川洋 編 北の異界 古代オホーツクと氷民文化

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/index.html)。 

10 日本の古代遺跡 40 北海道I 森浩一企画 野村崇著 保育社(1988)、

  及び 41 北海道II1997)。


2 旅のコース

北海道の縄文文化、オホーツク文化を伝える遺物を肉眼で確認するため、遺跡と博物館を回ることにした。

奈良(6月19日)−JR−東舞鶴(新日本海フェリー)− 小樽6/20(忍路環状列石)−余市(フゴッペ洞窟の岩面画)−江別市21(札幌市埋蔵文化財調査センター)−(R231)−厚田22まで(雨で暑寒別山の登山を中止しコース変更)−旭川23(旭山動物園)−愛別町−天塩岳ヒュッテ24(天塩岳)−上川25−白滝(旧石器時代の黒曜石の産出地)−遠軽26−常呂(遺跡の館)−網走(北海道立北方民族博物館)−小清水町27−弟子屈町28−カムイヌプリ−弟子屈町29−釧路−白糠町30−豊似−天馬街道7/1R236)−新冠町−苫小牧(新日本海フェリー)−敦賀−JR−奈良(7月4日) 肩の数字は宿泊地の日付

3 古代遺物の見学

忍路環状列石

ストーンサークルは言葉のとおり環状に石を並べたもので、縄文時代後期の弔いの儀式が行われたところと説明されている。

大きな石が円環状に並べてある

フゴッペ遺跡

 フゴッペ遺跡で奈良から来たと云うと、管理人がこの遺跡にまつわる話を聞かせてくれた。金田一京助が列車から岸壁に絵文字に見えるものがあるのに気づいた。当時の天皇の要請で金田一博士が調査に来ると、寺の和尚が、「あれは俺が書いたものだ」と言うので調査を打ち切り帰京して天皇に報告した。その後洞窟が見つかり壁面に多くの絵文字が在ることが明らかにされた。しかし開放状態にしていたため、青カビが壁面を覆って来たので全面をガラスで覆い保守管理に努めているという。
 洞窟内部には続縄文時代(今から2300〜1300年前)の土器や石器などが発掘されました。


管理人から頂いたフゴッペ岩壁刻画のトレースの一部、図の下に船を漕いでいるのが読み取れる。

北海道埋蔵文化財センター

玄関前に展示してある黒曜石の原石

 

多くの土器が縄文時代の文化区分ごとに分けて展示してある。


土面  縄文人は、この面を着けて能のような舞をしたのだろうか?

旭山動物園ではオランウータンが関心の的だった。オランウータンはDNAの値でチンパンジーに敗れ我々との共通の先祖から除外された。

白滝遺跡

 北見峠を越え白滝に入る。国道脇にある食堂のお姉さんに、白滝遺跡の資料を見に役場に行きたいので場所を教えてほしいと話しているとき、偶然にも遺跡関係の担当者が弁当を取りに来られた。「午後に遺跡の発掘現場に案内しましょう」と云ってくださり、自動車で現場に案内してもらった。発掘の担当者である北海道埋蔵文化財センターの方に石器の破片について詳しい説明をして頂く。現在発掘しているところは石器の加工場跡で、此処で集めた石片から元の石斧を復元する作業が続くという。私にとっては途方もない作業に思える。白滝遺跡の見学は、私にとって思いがけない収穫であった。

発掘現場

黒曜石の欠片が出土している

右端が折れ加工に失敗した先頭器

 

常呂 遺跡の館

常呂はカーリングで活躍した女性達の出身地で全国に知られたが、古代オホーツク文化の研究のメッカで
ある。遺跡の館にはオホーツク文化とよばれる時代の埋蔵物が展示してある。

素人の私が見る場合、土器の口縁部が少し縊れているので他の文化圏と違うとしたのか?

北海道立北方民族博物館

東北アジアを中心に各地の少数民族の生活習慣が理解できるような品物が展示してあり、学芸員の説明付きである。

海獣の骨で作った婦人像、優雅さを感じさせる。

熊の像

4 北海道の山

北海道の山歩きは今回で2度目である。最初は28歳の大学院生のとき、2週間分の食料など衣食住を特大のキスリングに詰め込んで黒岳からトムラウシ山経由で十勝岳への縦走を目指した。層雲峡で入山届を出すと、前年(1962)の噴火で十勝岳は入山禁止だと注意された。大雪山系の地図はすべて持っていたので、黒岳から石狩岳経由でウペペサンケへコースを変更した。そのときのことで記憶に残っていることがある。

(その1)黒岳の8合目あたりでばててしまい、ツエルトを被って寝込んでいると膝の辺りを引っ掻いたような痛みを感じて目が覚めた。熊が出てきたのかと一瞬びっくりしたが、迷い込んだリスがツエルトの外へ出られず、「何とかしてくれ」と私に催促したのだ。

(その2)沼ノ原山からヌプントムラウシ川に下ったところにある温泉を訪ねたときのこと。温泉は間欠泉で2メートルほどの高さに吹き上げていた。近くに営林署の無人小屋があり、辺りには群生した薄荷の匂いが漂っていた。湯船に間欠的に流れ込む湯と川の水を混ぜてほどよい温度にするのだが、湯船の中に沈殿した火山灰をコッフェルで掻き出しながら入浴したことを思い出す。その夜のこと、小屋で寝袋に入っていると外で何かが動く気配がした。ヘッドランプを灯すと窓に青白く光った目が二つこちらを向いている。獣は「キェーン、キェーン」と鳴きながら立ち去った。翌朝見ると小屋の横の砂地は鹿や狐の足跡がいっぱいだった。湯浴みに来たとき、小屋に怪しい者がいると中を覗いていたのは狐だった。

(その3)石狩岳の頂上で野宿しているとき台風による大雨で寝袋の中まで水浸しになった。シュナイダーコースを下ったところの飯場を訪ね一泊させてもらった。寝袋もストーブの熱ですっかり乾燥できたのは何より嬉しかった。「内地から来たのか」と味噌汁を勧めてくれた。熊の話題になると、「ここでは伐採した木を運び出すのに馬を使っているが、馬が熊に襲われたことがある。熊は怯えた馬の両前足を肩に載せ立った姿勢で連れ去った」と話してくれた。

ニペソツから丸山まで楽に行けたが、そこからウペペサンケに向かう尾根筋は一面大きな這い松の海だった。枝が揺れると積もっていた火山灰が舞い上がる。道無き道で前に進めず縦走をやめて幌加へ下った。列車で帯広へ出ると西へ向かう鉄道は台風で不通になっていた。

今回の登山

暑寒別岳とアポイ岳が悪天候で中止にしたことで、登山は中央山地の北にある天塩岳(1557.6)、摩周湖畔のカムイヌプリ(857)の二つだけになった。

 

天塩岳は一等三角点の山で麓のヒュッテから往復5時間半の行程だった。天気は快晴で四方の山もよく見えた。北海道の人が今年は残雪が多いという。昨日の夕方、ヒュッテまでの砂利道を苦労していた私を見た人だろうか、「今日はヒュッテでのびていると思っていたのに、元気ですね」と声をかけてくれる。

天塩岳ヒュッテに向かう砂利道は9km続く

天塩岳の斜面には残雪が見られる。

 

カムイヌプリ(摩周山)の登山も天気は快晴で、霧の摩周湖のイメージと大きくかけ離れていた。途中の熊笹が覆う「けもの道」のような登山道で二匹のダニが体に食らいついていた。ダケカンバの樹林帯に入ると「ぶよ」が身体の露出している所を攻撃してくる。その数の多いこと、次々と襲う「ぶよ」との戦いで景色を見るどころではなかった。狭い頂上は岩場で虫も少なくやっと昼食にありつけた。そこで大阪から来た人と話していると、「東北南部から山登りを続けて一ヶ月になる。この後もいくつかの山に登り、北海道からの帰りは日本海よりの山に登る」とピークハントを続けるらしい。天塩岳ヒュッテで出会った岸和田の人と岡山の人もそれぞれ、百名山、二百名山を回っていると話していた。山好きな人たちの定年後の楽しみはマイカーを利用して名山と呼ばれる独立峰を踏破することらしい。

カムイヌプリ

カムイヌプリ(右)と摩周湖



5 帰り道の風景

釧路湿原(R391の展望台から)

日高山脈を横断する天馬街道(R236)の野塚トンネルは標高500mのところで

4230mの長さがある。

日高地方は競走馬の産地。自転車を止めると馬が近づいてくる。

新冠町にはハイセイコーの銅像が建っている。地元では最近の新冠の馬は千歳の馬に負け続けてきたので巻き返しを期待しているという。