2016サロマ湖100kmウルトラマラソン
禍福はあざなえる縄のごとし
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【禍福はあざなえる縄のごとし】
災いと幸福は表裏一体で、まるでより合わせた縄のようにかわるがわるやって来るものだ。不幸だと思ったことが幸福に転じたり、幸福だと思っていたことが不幸に転じたりする。成功も失敗も縄のように表裏をなして、めまぐるしく変化するものだということのたとえ



2016年2月1日
昨年に続き、この日をサロマ湖100kmウルトラマラソンへ向けた始動日に決めた。『今の状態ならどれくらい走れる』とか『この状態だと、あとどれくらい走らないといけない』とか、そういう場当たり的な判断はしないと心に決めていた。昨年と同様の練習を確実に消化する。半年間の休養を挟んでも、『これだけやれば何とかなる!』という実績がこの2年で出来上がった。直近の3年間は連続でサブ10を達成している。実績のあるトレーニング内容を敢えて変える必要はない。もしも近年の成績に不満があるなら、新しい取り組みが必要だが、この成績に納得できるなら『勝っているときは動くな!』が勝負の鉄則だ。

トレーニングの取り組み方としては、2月1日~6月26日(大会当日)までを4つのフェーズに分ける。まずは2月、これはランナーに戻るための期間。前年のサロマ終了後から1月末まで、トレーニングと呼べるような質の良い練習はしていない。その結果、1月下旬に出場した石垣島マラソンでは4時間10分掛かった。サロマ完走のボ-ダーラインは男性ならフルマラソン4時間前後、女性なら4時間30分前後という説がある。石垣島マラソン時点の走力ではボーダーラインに届いていないことになる。まずはサロマに挑戦するランナーの水準へ戻す、これが2月の役割だ。

平日は5km~10km、出来るだけ毎日走る。走る習慣を身体に思い出させるためだ。そして週末のどちらか1日はロング走を行う。第1週は16km、そこから週を追う毎に2kmずつ延長していく。2月最終週に22km、1km5分ペースで消化できたので、サロマ水準のランナーに戻ったと判断して次のステップへ進んだ。

3月は走り込みのための準備期間。サロマヘの走り込みは30km走をベースとするので、30kmを無理なく走りきれる走力を身につけるのが、この期間の目的だ。第1週のロング走を24kmからスタートして、2kmずつ延長し、最終週で30kmに到達。また並行して平日Runのうち1日だけはビルドアップ走を取り入れ、スピードの強化に努めた。これはサロマ本番の想定ペース(1km5分台前半)をラクに感じられるよう、心肺機能を高めるトレーニングとなる。

4月からは本格的な走り込み期に入る。週末の30km走を軸に距離を踏んでいく。結果的にペースは1km5分程度に安定したが、ペースそのものよりも終わってからの余裕度を優先して取り組んだ。結果として、1km5分程度で走りきれた事はトレーニングが順調に進んで来ている手ごたえになった。30km走は3月最終週~5月中旬までで合計8本を消化。さらに5月最終週には東京ウルトラマラソンで50km超の距離を7時間弱かけて踏み、時間的耐久性の確認も行えた。こうして特に故障等の致命的ダメージを負うことなく走り込み期を終える事ができた。

最終フェーズは調整期だ。距離を少しずつ縮めていく一方で、スピードをもう1段階上げる。とは言えこの時期になると気温の上昇が激しく、冬から春のように快調なペースで走る事はできないので、スピードを上げるのではなく、心肺機能を高めると言ったほうが正しい表現かもしれない。

    

走り込み期を終えた時点では、完璧といえるくらいきっちりメニューを消化できていた。前年の内容と比較して、それを上回る練習の質と量をこなせていたので、調整期の出来次第では大きな目標(サブ9やPB更新)を視野に入れても良いのではないかと思うようになっていた。PBを更新するために必要なペース、さらにはサブ9を達成するために必要なペース、序盤をどの程度のペースで入れば可能性を繋げるか、そんな事を考え始めた矢先に歯車が狂い始めた。

6月11日(土)の夕刻、喉の違和感発症。2日後には風邪の典型的な症状が現れ、微熱が発生。大会まで2週間、回復に費やせる時間は充分にあったので、長引かせないことを優先して3日間トレーニングを中止した。症状が落ち着くのを待ち16日(木)から練習再開したものの19日(日)、早朝、目を覚ますと、今までに経験したことのない激しいめまいと吐き気に襲われ、ダウンした。とても走れる状態ではなかったので、3日間練習を中止した。2月1日サロマヘ向けたトレーニングを開始してから5月末まで、月に2日程度しか休んでいなかったのに、直前で6日間も休む羽目になった。

直前の調整がうまく行かなかった事、風邪の後遺症で咳がおさまらないこと、さらにはめまい再発の不安。5月末までの好調ぶりから一転、不調の波に飲みこまれていくような嫌な流れを感じつつ、サロマ遠征出発の朝を迎えた。風邪もめまいも最悪の状況からは脱し、スタートラインに立つという意欲までは奪われなかったが、『今年が最後になるかもしれない』という予感めいたものが、心の奥に潜んでいた。それでも大きな動揺は無く『やるだけの事はやったので、どんな結果でも受け止めよう』という覚悟が出来ていた。

今年もサムズアップ・チームサロマ2016というチームを組んでサロマへ乗り込んだ。選手26名(サポート1名)、 “全員完走”を目標に掲げて集まった仲間たちと、サロマを走れるという思いは、直前の躓きから来る心の燻りを吹き飛ばし、『やれる事をやる、なるようになれ』という単純明快な思考を心に芽生えさせてくれた。

    

6月26日(日)午前5時、サロマ湖100kmウルトラマラソン自身15回目のスタートが切られた。この瞬間に思い浮かんだ出来事は、ちょうど1週間前の朝、目がさめた時に物凄い勢いで回りだした天井の様子だった。ただ事ではないのを察し、何か途轍もない事が自分の身に起きているのではないかと不安になり、“サロマ断念”という言葉が頭をよぎった。幸い大事には至らず、この時、この場に身を置けている。もしかしたら訪れることの無かった瞬間を、味わっているのかもしれないと思うと、この場にいられる幸福感と、ゴール目指して走り続けなければならないという使命感を同時に感じていた。

スタート前、東の空には朝焼けが広がっていた。天気は西から東へ変わって行く。東の空が朝焼けということは天気が崩れる事を意味する。それを証明するかのようにスタート直後から、小雨が降り出した。気温は低いが身体に影響するほどではなかった。レースの気象条件として悪くはないが、降水量が増えてくると色々影響が出そうが気がした。5km地点は25分30秒で通過した。走り込み期の30km走では、1km5分30秒程度からスタートして、体の温まりとともにペースアップして5km付近で1km5分ペースに落ち着く事が多かった。トレーニング時の5km通過は26分~27分が標準で、レース本番ではそれよりも少し抑えて入る意識を持っていたので5km25分30秒というのは意外だった。原因は練習してきた神奈川とサロマの気温差がひとつ、それに直前の練習回避によるサボリバネが発揮されたものだろうと推測できた。ちなみにこの時点での気温は12度だった。

    

オーバーペースになる事を懸念して抑えようとしてはみたが、リズムの悪さを感じて、止めた。呼吸が苦しいわけではないし、脚の動きに無理がある訳でもないので、暫くはこのペースを、いや、ペースではなくこのリズムを重視することにした。遮るものが何もない畑の中の農道が終わり、林が見えると10km地点が現れた。50分13秒で通過した。1km5分のリズムが定着していた。

コースはサロマ湖沿いへと移る。これまでの農道は比較的、道幅を広く使えていたので、左右の傾斜(バンクや轍)は、さほど気にならなかったが、湖畔のコースは時折急な左右傾斜が現れる。昨年はこの傾斜を意識せず、ずっとコース左寄りを走っていたら、左足の甲を痛めた。シューズとの相性もあるので必ずしもコースのせいとは言い切れないが、ケア出来る事はしておいたほうが良いと思い、走る位置を左側、右側と折をみて移動した。これにより左右の足へ掛かる負担を分散させたのだ。

雨は時に強く、時に弱く、また止んでいるときもあった。走ることに関してはこれといった異変はなく、淡々と距離を踏めていた。トップ選手とすれ違い、暫くすると竜宮台が見えてきた。例年ならば、威勢の良いサロマ湖太鼓の音が鳴り響くこのポイントだが、雨の影響か今年は太鼓の演奏はなかった。そして三里番屋の折り返しポイントを、チームサロマ2016の仲間とすれ違うことなく迎えた。

誰ともすれ違わないという事は先頭であるという事だ。折り返し地点は約18km、このまま最後まで行けるとは思っていないが、走力に勝る仲間を後ろに従えて、ここまで先頭で走れたという事実は気分が良い。折り返してみると、すぐ後ろにフルマラソンサブ3ランナーのウッチーが居たことに気づく、さらに続々とすれ違う仲間達。このあと、いくらもしないうちに飲み込まれていく事が予想されたが、それは特別に意識すべきところではない。あくまでも自分のリズムを刻み続けること。これが今の自分に出来る最善策だ。

20km地点の通過は1時間40分9秒だった。直近の10kmも1km5分のリズムで走っている。軽い空腹感を覚えたので、エイドの手前で最初のジェルを補給した。またスーパーヴァームも口に含んで水で流し込んだ。エネルギー補給と脂肪燃焼効率を上げる事はウルトラマラソンでは欠かす事が出来ない大切な作業だ。20km地点を通過して背後にウッチーの気配を感じた。すれ違う仲間との掛け声が後ろから近づいてきたのだ。しかしある距離まで近づくとそれ以上接近する気配が感じられなくなった。彼はサブ3ランナーだ。潜在的なスピードでは遥かに私の上をいく。同じ1km5分ペースでも余裕度は彼のほうが大きい。余裕しゃくしゃくのランナーを後ろに置いて走り続けるのは、あまり居心地の良いものではない。彼の存在を意識することで、自然の流れで作られたペースが、意図的に作り出すペースになってしまうからだ。25kmエイドの手前付近で、合図をして先へ行くよう促した。

25kmの通過は2時間5分8秒、依然として1km5分ペースを維持できていた。これと言って気に留めるような症状は発生していないが、レースへの意識が高く、走りに集中し過ぎているような気がした。フルマラソンならば最後までレースに集中して押し通すべきなのだろうが、10時間近く掛かるウルトラマラソンでは適度に意識を開放させてあげないと心も身体も破綻してしまう。そんな息苦しさを少し感じ始めたのがこの辺りだった。25km付近のエイドで、歩きに近いペースへ落とし、ゆっくりと水分補給したのを切っ掛けに、これまでのリズムをリセットした。いったん精神的にも肉体的にもラクだと感じられるまでペースを落としておいて、そこからもう一度自然な流れでリズムを作り直す事にしたのだ。ウッチーの背中が少しずつ、遠ざかっていった。

30km地点のスペシャルドリンクエイドが近づくと雨足が少し強くなってきた。畑の中を通る一直線の農道に、雨を凌げるところは何もなく、コースには水溜りが広がり始めていた。ウェアは水分をたっぷりと含み、蹴りだすシューズからは水しぶきが飛んでいた。これで風が強くなろうものなら、“好条件”は一転して“悪条件”になるが、幸いな事に風は弱かった。30km地点の通過は2時間31分2秒。直近の5kmには26分を要した。1km5分12秒ペースで走った事になる。当初、想定していたペースはこれくらいだった。『悪くはない』悪くはないがウェアが雨に濡れたせいか、または30km走った事による疲労のせいか、なんとなく体が重くなってきた気がした。30kmのエイドで預けておいたボトルを取り、中に入れていたエナジージェルとスーパーヴァームを歩きながらザックのポケットに収納しようとしたが、動作がスムーズに運ばない。そうこうしているうちにゼネラルフードテーブルの前に到達してしまった。スポーツドリンクと梅干を取るために立ち止まらざるを得なくなった。大きなロスではないが、スムーズに来ていた1つの流れがここで途切れた。

    

エイドステーションを発ち、農道を左折して2km弱進むと国道238号線にぶつかる。網走と稚内を結ぶオホーツク海に面した主要道路でオホーツクラインと呼ばれている。32km付近から60km過ぎのキムアネップまではこのオホーツクラインがコースとなる。これまで走ってきたところはほぼ平坦で単調だったが、ここからは月見が浜の迂回道路を除けば、平坦なところは少なく、大きなスパンで緩やかな登り下りを繰り返していく。自分自身の体調が1つの節目を迎えたのと同時に、コースはここから新たなステージへと突入していく。

オホーツク国道を3kmほど走ると下り坂が始まり、35km地点を通過する。直近5kmのラップタイムは26分54秒だった。エイドでのもたつきを差し引けば、ペースとしては5km26分程度、気に留めるようなペースの落ち込みはない。コースが国道へ移ると、走れるゾーンは路側帯と歩道に限られるため、狭くなり、前のランナーに接近すると、その都度、後ろにつくのか、追い抜くのかという選択を迫られる。後ろについて、ペースを落ち着かせ体力温存を図るという作戦もあったが、走りのリズムを大切にしたかったので、“抜く”という選択肢を選び続けた。

何軒かの牧場と芭露という小さな集落を通過し、標高差25m程度の小さな丘を超えると月見ヶ浜道路へと進入する。この道路はかつて網走と中湧別を結ぶ湧網線の廃線跡で、サロマ湖に面した2kmほどの国道迂回コースになっている。この手前に40kmポイントがあった。直近5kmのラップタイムは27分18秒。緩やかにペースは下降線を辿っているが動きが鈍ったという自覚はない。コースの形状と、エイドで要する飲食のロスタイムが影響しているように思えた。月見ヶ浜には42.195kmの常設ポイントがある。通過タイムは3時間36分37秒。毎年、4時間以内で通過する事を目標にしているので、大きく上回っている事にニンマリした。

    

42.195kmポイントの先には妻の声援があった。毎年ここでチームサロマのメンバーへ声援を贈っている。ひと言、ふた事、言葉を交わした気がするが何を話したかは覚えていない。ここまでのペースがあまりにも良かったので、その反動を恐れて不安な事を口にしていたのかもしれないし、楽天的な言葉を言い残したのかもしれない。胸の内では両方の思いがせめぎあっていた。

月見ヶ浜道路からオホーツクラインへ戻ると、40mほどの高低差がある丘をふたつ越える。その二つ目の坂の途中に50km地点がある。通過タイムは4時間19分、直近5kmのラップは27分18秒。2つの上り坂をクリアした事を考慮すれば悪くないペースだ。中間地点を終えて、サブ10ペース(1km6分ペース)に対して41分の貯金が出来た。60分以上の貯金ができればサブ9達成となる。あと20分の貯金・・・残り50kmで20分の貯金を作り出すのに必要なペースを弾き出した。10km56分ペースで行けば良い。オーバーペース気味の飛込みをしているので、後半の落ち込みを考えたら厳しいことは確かだが、ノーチャンスでもない。

50kmから60kmの区間にはコース全体を通してもっとも起伏が大きく、長い坂がある。さらにはレストステーションも存在するので、とかくペースを落としてしまいがちな区間だ。もしもこの難区間を56分以内でクリアできたら、サブ9達成のチャンスは広がる。とは言え、ここはまだ中間地点、アクセルを踏み込むべきところではない。次の10kmはサブ9を目標に見据えるかどうかの見極め区間にしようと決めた。断続的に降り続く雨のため、景色は淋しげに映り、気分が高揚する事はなかったが、代わりに自分自身と向き合う時間を、たっぷりと与えてくれた。

50kmの看板を超え、坂を下り始めると、サロマ湖に直面する。晴れていれば真っ青な湖面を眺められる絶景ポイントだが、今年はどんよりと雨に煙っていた。国道に出てから現れ始めた起伏で、走りに関する顕著な特徴が現れていた。上り坂は小気味良く登れるのだが、下りになると走りがギクシャクする。上りでペースが落ちるのは必然だが、落ちたペースを下りで、取り返さないといけないのに、その下り坂で逆に苦戦してしまうのだ。ピッチとストライドのバランスがかみ合わず、後傾になり着地がバタつく。本来なら、リラックスできるはずの下りが逆にストレスになった。

サロマは50km地点を過ぎると、距離表示がそれまでの5km毎から1km毎に変る。52km付近、サロマ湖に面した所から湖越しに前方を見渡すと54kmレストステーションのルートイン・グランティアサロマ湖(旧緑館)を視界にいれる事ができる。このレストステーションの手前からコース全体を通して、最も長く、大きな坂が始まる、距離5km、最大標高差40m、緩やかな上りと下りを繰り返して、再び湖に接するのだが、その坂を上り始めた時に最初の異変が発生した。左足ふくらはぎに痙攣発生。ピクッピクッと大きな脈を打つような違和感から始まり、徐々に強くなっていった。気温が低かった事もあり、ここまでは塩分補給に関して、あまり神経を払っていなかった。これが原因と思われる。幸いまだ“攣る”という状態には至っていなかったので、この場は我慢してレストステーションで塩熱タブを4錠噛み砕いた。レストステーションではスタート時に預けた荷物を受け取れる事になっている。着替えをする選手、シューズを履きかえる選手、食事をする選手・・・このポイントを後半戦への準備に使う選手は多いが、そもそも荷物を預けていなかったので、他のエイドと同じように給水・給食だけで済ませ、足早にエイドを離れた。

    

長い上り坂の序盤にレストステーションがあるので、上り坂はまだまだ続く。ふくらはぎの痙攣が治まっていなかったので、ストライドを狭め、ピッチをあげて上った。上りは依然としてリズムが良い。ランナーを追い抜くときや、水溜りを避けるときなど不規則な動きをする時さえ注意を払えば、特に問題にはならず、やがて坂を上り終える頃には違和感を忘れていた。

だらだらと続く長い坂を上り終えた後に現れる、北勝水産前の下り坂は50km付近の景色とよく似ている。相変わらず雨は降り続き、景色はパッとしない。坂を下り終えて1kmほど進むと60km地点が現れた。通過タイムは5時間17分27秒、直近10kmは58分32秒掛かっていた。10km56分ペースがサブ9達成の必須条件だったので、クリアできなかった事になる。今後、10km55分30秒ペースへ上げる事ができれば達成できる目標ではあるが、“高低差が激しい難区間にも関わらずペースを落とせない”という潜在的なプレッシャーに、精神力と体力を大きく削られた気がしていた。次の10km、もう一度チャレンジしてみるという選択肢は残されている。残されてはいるが、冷静に体力と精神力を分析してみれば賢い選択とは言い難かった。

サブ9という目標をいったん消し去り、残り距離と残っている力を見つめなおし、この瞬間に発揮できるベストな走りを取り戻そうと心に決めた。60km地点を過ぎるとコースは新たなステージへ突入する。オホーツクライン(国道)を外れ、キムアネップ岬へ続く農道、そして道道(北海道道)858号線へ入る。ここから80km地点のワッカ原生花園までは起伏が少ないので、本来なら走りやすい場所なのだろうが、疲労が蓄積してきている状況では、たとえコースが平坦でもペースを立て直すのは容易ではない。またこのステージには魅力溢れる私設エイドが点在するので、つい足を止める時間が長くなってしまう。

キムアネップ岬へ向かう農道を右にカーブし、道道858号線へ入ると63.5km地点にスペシャルエイドが存在する。30km地点のエイドと同様、エナジー系ジェルとスーパーヴァームの入ったボトルを預けておいたので、ザックに収納した。ジェルは10kmに1つ、ヴァームは20kmに1つ、規則的に補給していたので、この時点でザックのポケットは空になっていた。次のスペシャルエイドまで必要な分をここで補充した事になる。ゼネラルのテーブルでスポーツドリンクを飲んでいるとチームサロマの仲間である英晴くんが現れた。

英晴くんが補給している間に、ひと足早くエイドを発ったが、魔女の森と呼ばれる林道ですぐに追いつかれた。彼の脚の運びは軽快そのもので、抜き去って行くスピードは、段違いだった。その背中は見る見るうちに遠ざかっていく。『あのくらい脚が動けば、まだサブ9のチャンスがあるかも・・・』と思ったが、既に頭の中から“サブ9達成”という意欲は消失し、PB(自己ベスト)更新が新たな目標になっていた。2007年、サロマ出場6回目のこの大会で9時間23分17秒というタイムを記録している。これが現時点でのPBだ。

    

PBを更新するためにはサブ10ペース(10km1時間ペース)に対して37分の貯金が必要となるが、60km地点で既に42分の貯金を作っているので、10km1時間ペースを維持できれば目標クリアになる。サブ9を視野に入れていたときは、“貯金を作る=攻める”という意識が働いていたが、PB更新が目標になると、“貯金を残す=守る”という意識に変る。この先、さらに疲労が蓄積し、身体の動きが悪くなったり、痛みが出たりしたら、“どこまでペースを落とせるか”という負の思考回路が働きだすに違いない。こうなると負のサイクルは加速する一方で、PB更新という目標は2ndべスト、3rdベスト・・・と落ちる一方になってしまう。

そうならないように、もう1つの目標を掲げた。『スタート~ゴールまで10km単位の全ての区間を1時間以内で走ること』 “1km6分ペースならばしっかりと走れている”これが私なりの解釈で、このペースを死守できれば、レース全体をコントロールしたと言える気がするのだ。魔女の森を抜け、白帆のオアシス(私設エイド)での補給は最低限に留め、休みたい衝動を必死に抑えて先へ進んだ。ようやく現れた70km地点は6時間15分26秒で通過した。直近10kmのラップは57分59秒、かろうじて“1時間以内”という目標はクリアできた。

1つの節目を越えると、ガックリと疲労する事がある。70km地点の手前100mと通過後の100m、肉体的ダメージはさほど変らない筈なのに節目を越えた途端、動きが鈍った。“あそこまでは頑張ろう”という意識で動かしてきた身体が“あそこ”を超え、次の目標が遠ざかった途端に気が緩んだのだろうか。70km~80kmまでの10kmは変化に乏しい単調な区間だ。74km付近にある鶴雅リゾートには、お汁粉とソーメンが食べられる私設エイドが設置されているが、これを除けば楽しみになるようなポイントはない。

鶴雅リゾートまでは粘った。1km6分を超えないように必死に粘って走った。鶴雅リゾートで脚を止め、ソーメンとお汁粉を流し込み、いざスタートという段になった時、心底、走る事が嫌になってきた。サロマヘ向けてトレーニングをしている時もこんな事があった。5月中旬、30km走の6本目が終了した頃だったと思う。週末が近づき、30km走をいつ、どこで走ろうか、考え始めると憂鬱になり、たかが趣味ごときで何故こんな気分になるのだろうとふさぎ込んだ。早くレース当日を迎えて、一刻も早く開放されたいと心から願った。『本当は走る事が嫌いなんじゃないか』と真剣に思ったし、今年限りで辞めようとも思った。あの時と似た心境だった。そんな思いが頭をひと巡りした次の瞬間、驚いたことに脚が動き出していたのだ。

坐骨の辺りが痛み出し、胃はむかつき、ふくらはぎは痙攣を再発していた。降り続く雨は鬱陶しく、気分は最悪だった。それでも脚は動いた。前半のように力強くはないが、弱弱しくも確かに次の一歩を刻んでいた。“PB更新がなんだ?” “10km1時間以内がどうした?”“何のために走っているんだ?” “こんな事をいつまで続けるつもりなんだ?”何ひとつ頭で整理出来てないのに脚は動き続けていた。

80km地点の手前、ワッカへの散策路に入る前にスペシャルエイドがある。ここのボトルにはカフェオレとジェル、スーパーヴァームを入れておいたが、ジェルは胃が受け付けなかったので処分した。ジェルだけでなく固形物も受けつけなかった。この先20km走る分のエネルギー補給は飲み物に頼らざるを得ない。そういった点でカフェオレは正解だった。スポーツドリンクも、オレンジジュースも味に飽きていたので、コーヒー風味の飲料は新鮮だった。

“10km1時間”というこだわりは、心の隅っこに隠れていたが、消えてはいなかった。80km地点まであとわずか、ストップウォッチのラップタイムへ目をやるとカウントダウンに突入していた。ラップは1時間00分06秒、6秒間に合わず・・・結局今年も、“レース全体をコントロールする”という目標は達成出来なかったが、最後の希望、“PB更新”へ向けては、少し明るい光が差してきた。80kmの通過タイムは7時間15分32秒。次の10km、もう一度“1時間以内”というペースに拘れば、チャンスは大きく広がる。ここまで来たら、“走るリズム”なんて上品な事は言っていられない。欲しいのは結果だ。80kmを超え、最終ステージであるワッカ原生花園を迎えた。

    

ワッカ原生花園は長いスパンで見れば平坦だが、実際目にすると、小さなアップダウンが果てしなく続く。このアップダウンをうまく利用して走りのリズムを掴めれば、ペースを取り戻すことが可能だ。過去の経験からして、苦手意識はない。林の中を抜け、オホーツク海を見下ろすポイントに差し掛かったとき、魔女の森で先行して言った英晴くんの背中が見えた。チーム内で競い合っているという意識は、さほど強くないが、あれだけ元気に抜き去っていった彼が目の前にいるという事実は、鶴雅リゾートで突然芽生えた“ふて腐れた思考回路”を吹き飛ばすのに充分だった。

じわじわと一歩一歩差をつめ、横に並んだ。そう言えば、魔女の森で会話を交わしたとき、彼は『ワッカ苦手なんで・・・』と言っていたが、ワッカに入った途端に追いつくとは、想像していなかった。これで先行する仲間はウッチーのみ、ひょっとして?・・・なんて嫌らしい考えが思い浮かんだのは言うまでもない。

ワッカを走っていて“ある事”に気づいた。スタートしてからここまで一度もトイレに行っていないのだ。こんな事は珍しい。過去14回の出場歴でも、記憶にない。トイレに行っていないという事はロスタイムがないと言うことだ。昨年は5回トイレに駆け込んでいるので、それだけで10分近くのロスがあったと思われる。こんな珍事に恵まれているのだからPBを更新しなくては・・・PB更新への思いが、より一層強くなってきた。

“ひょっとしたら、チーム内で一番になれるかも?”という思いは折り返しまで残り1km付近で海の藻屑と消えた。ウッチーとすれ違ったのだ。折り返しまで1kmという事は実質2kmの距離差がある。残り10kmで逆転するのは現実的ではない。ウッチーはすれ違うときに『すげぇ坂あるよ!』という言葉を投げかけていった。サロマ湖の湖口に新設された橋の事だと分かったが、特に気に留めてはいなかった。しかし、それから数分後、うっちーのひと言が大げさでなかった事を思い知らされる。サロマ湖とオホーツク海を繋ぐ湖口に新設された橋、ひと言で表現するならばそれは“壁”だった。聳え立つ立派な橋は、ランナーの行く手を阻んでいるようにさえ思えた。

90km近く酷使してきた脚で走り通すのは、あまり賢いやり方ではないように思えたが、怯んでいる場合ではない。ラップへの拘りが強かったので、勢いをつけて駆け上がろうとした。次の瞬間、ふくらはぎの痙攣が“攣る”という状態に変った。いや変ろうとしていた。ここで動きを止めれば確実に攣る。完全に攣ってしまうと歩く事もままならなくなってしまう。“ゆっくり動き続けること”これが攣りそうなときに有効な対処法である事は過去の経験で裏づけされていた。歩くようなスピードで走る。1歩、2歩、3歩・・・橋の中腹くらいまで来たとき、横を颯爽と抜いていく人影があった・・・ 英晴くんだった。

    

魔女の森で抜かされ、ワッカの入り口で抜き返し、折り返し目前で再び抜かれた。もう一度、着いていって最後にひと勝負したかったが、そこまでの戦闘能力は残されていなかった。英晴くんの背中はすぐに遠ざかっていった。まずは“半攣り”の状態から抜け出すのが先決だ。1歩1歩慎重に足を置き、ザックから塩熱ダブを取り出し、ガリガリと齧りながら走った。橋を超え、折り返し地点をUターンして、もう一度橋を越える。エイドステーションでカリウムが含まれているスイカを摂取して、“攣り”の状態から脱却しようとしたが効果は現れなかった。そんな状態で90km地点を迎えた。

90km地点の通過は8時間14分18秒、直近10kmのラップは58分46秒だった。数字的には文句ない。“目標どおり10km1時間以内”で走れたのだから。一度落としたラップをよく巻き返せたと思う。しかしながら肉体的な状況を合わせみれば余談は許さなかった。残り10km、1km7分ペースに落としたら、ゴールタイムは9時間24分を超えてしまう。PBは水泡に消すのだ。

歩くことはできない!どんなにペースを落とそうとも、走り続けなければならないのだ。“果たして出来るのか?”自問自答した。“出来るかどうかじゃなく、やるのかやらないのかだ!”脚が答えた。燃え尽きようとしている脚が、心に反して次の一歩を繰り出す。心と身体が格闘した。そんなときだ、爽やかな笑顔を湛えたチームサロマの仲間とすれ違ったのは・・・ 完走9回、今回サロマンブルー達成が掛かっている渋下さんだった。苦しさと喜びが入り混じったような笑顔をみたとき、もうひとつのモチベーションが生まれた。

“サロマンブルー達成の瞬間を見るのだ!”
彼と知り合ったのは初めてサロマに挑戦した15年前だった。彼はその大会が2回目の出場だったので、私にとっては、当時、サロマを知っている数少ない経験者だった。アドバイスを仰いだ事もある。“スタートしたときの格好でゴールするのがウルトラランナーの流儀だ”そんな教訓も彼から伝え聞いた。知りあって以来、ずっとサロマを中心としたお付き合いをさせて貰っている。サロマの魅力に取り憑かれた者同士、たくさんの思い出がある。彼は事情により何度か欠場しており、サロマンブルーに手を掛けるまで時間がかかったが、昨年は余裕でサブ9を達成したエキスパートだ。レース前、出来ることなら先にゴールして出迎えたい・・・そんな思いを持ってはいたが、順当にいけば、それは高過ぎる目標だった。

その“高すぎる目標”が現実的な目標になった。競う相手が“時間”というのは、なんとも味気ないが“生身の人間”となれば話は別だ。冷めかけていた心に火がついた。それからは、脚の状態に気を使うのではなく、後ろから忍び寄る影に気を配った。時間はいつも同じようにしか流れないが、生身の人間はゆっくり走ることもあれば、信じられない程、速く走ることもある。少しでも油断したら、あっという間に掴まってしまう。『彼に勝ちたい訳ではない、サロマンブルー達成の喜びをその場で分かち合いたいのだ』でもその思いは当人には伝わらない。彼に余力があれば、ジワジワと差を詰めてくるに違いない。ターゲットを見つけたときの彼の強さは、これまで何度も目にしている。

    

それからあとの事はあまりよく覚えていない。気がついたらワッカの終わり、林道の入り口に差し掛かっていた。後ろから迫ってくる見えない影に、怯えつつも、その緊張感を楽しんだ。仮に追いつかれたとしても、その場所がゴールに近ければ、食い下がって一緒にゴールすることもできる。彼の存在が仲間と共に走る楽しさを思い出させてくれた気がする。74km鶴雅リゾートで走る気持ちが萎えたときに、身体が勝手に動き出したのは、“仲間と共に走る楽しさ”を覚えていた身体が本能に目覚めたのかもしれない。思い起こせば練習はずっと1人だった。“仲間たちも練習している”それを励みに走ったが、やはり退屈で、つまらなかった。やると決めたメニューを消化してきたが、そこに喜びは無かった。でも今は違う、遠く離れたところを走っている仲間も、目の前にいる知らないランナーもみな、同じ目標に向かって走っている。その流れの中に身を置いているから、脚が動くのだ。

残り1km、後ろを振り返ったが、彼の姿は見えなかった。“ゴールで出迎える”という目標を達成した。タイムをチェックすると9時間10分を少し過ぎたところだった。PB(9時間23分)の更新も間違いない。強い雨が降り続く中、最後のコーナーの手前にいた妻は、サロマンブルー達成の祝い旗と花束を持ち、『渋下さんは?』と声を掛けてきたので、『もうすぐ来る!』と答え、ゴールへ向かった。ゴールタイムは9時間16分5秒。ゴールしてスピードを緩めた瞬間、ふくらはぎが攣った。全てを出し尽くしてのフィニッシュだった。

    

3年前の秋頃から、急激に走る意欲が衰えた。それまでは走っても、走っても、走ろうという意欲が枯れることはなく、こんこんと湧き続けていた。シーズンオフなど存在せず、1年中コンスタントに走っていた。しかし、サロマのフィニッシュラインを超えた今、その“走る意欲の泉”は完全に枯れ果てた。“この泉が満たされる日は来るのだろうか?”ふと考える。毎朝、毎週末、4ヶ月以上も掛けて走り続けてきた記憶を振り返ると、また最初からやり直す気持ちには到底なれない。“時間が何とかしてくれる?”きっとそうなのだろう。だから、ここにいる。でも今は考えたくない。その日がやって来れば、またサロマヘランナーとして戻って来るのだろうし、その日が来なければ、これが最後のフィニッシュラインになる。ただそれだけの事だ。

完走メダルを掛けてもらい、タオルを頭から被って、妻のもとへ向かった。ふくらはぎの痙攣で硬直した左足を引きずりながら歩き、彼が戻ってくるのを待った。冷たい雨は降り続き、走った後、身体にこもっていた熱気が消えかけた、そんなとき、彼は戻ってきた。妻は祝い旗を広げ、彼の肩にかけ、そして花束を手渡した。クールな一面を持ち合わせている彼がどんな反応をするのか、興味深く見つめていると、予想に反して喜びを全面に押し出してゴールへ向かう姿がそこにあった。チームサロマ4人目の、サロマンブルー達成の瞬間だった。15年前、この地に集った仲間が揃ってサロマンブルー達成したというのは感慨深いものがある。これまでの思い出をしみじみと振り返りながら、酒を酌み交わすのが楽しみで仕方ない。

    

その一方で、ここ数年、選手として、いつサロマから身を引くかを強く考えるようになった。“サロマ、完走できなければ卒業する”これは今後も変らない決意だが、サロマヘ向けた練習をやり遂げる覚悟が出来なくなったとき、そんな状態で果たしてスタートラインに向かう事が出来るのだろうか。“力尽き、リタイヤして卒業”これは潔い。だが、立ち向かう勇気がなくなって辞めるというのは、どうにも切ない。打上げパーティーの席で『今回の自己ベスト更新を置き土産にサロマを卒業します!』と宣言した。誰も本気と受けとめてくれなかったが、もしもあの時、『お疲れ様!』という拍手が沸いていたら、あの瞬間を引き際にしていたかもしれない。完走メダルは15個になった。競技歴17年、47歳で自己ベストを更新した。もはや完走メダルを獲得することも、記録を更新することも、大きな原動力にはならない。でも、ひとつだけ心を揺さぶられるものがある。それは仲間と培ってきた絆だ。

お互いの緊張感を解きほぐすスタート前の円陣、お互いの存在を確かめ合う竜宮台のハイタッチ、お互いの苦しさを笑顔で分かち合うワッカ、それにお互いの健闘をたたえ合うゴール。これらのシーンを俯瞰している、自分の姿を想像したら、目に涙が溜まってきた。もう少し、この仲間達と同じ苦しみを味わうのも、悪くないかもしれない。

    



禍福はあざなえる縄のごとし
災いと幸福は表裏一体で、まるでより合わせた縄のようにかわるがわるやって来るものだ。成功も失敗も縄のように表裏をなして、めまぐるしく変化するものだということのたとえ。たとえば、完璧に練習をこなせたと思っても、一転して体調を崩したり、体調が芳しくないので慎重なペースで行くつもりが、快調なペースに転じたり、ありえない様な好結果に指先が届いたと思ったら、結果なんてどうでも良くなって逃げ出したくなったり、止めようと思ったのに、身体が勝手に動いたり、極寒の雨に心が折れ完走率は低くなると思いきや、熱中症の危険がなくなり過去2番目の高完走率になったり・・・   ちなみにサロマの女神は禍福の縄をあざなうのがとても上手だと言われている



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