ALCYON'S GARDEN [ main contents/entrance/courtyard ]
perfect circle
presented by leida himemiwa
白い指先が中空に真円を描く。 その軌跡を目で追いながら、低く響く声をぼんやりと聞いていた。 「─────これが、私たちの世界………」 声は、かすかに震えていたように思う。 わずかな迷いすらなく全き円をたどるその指先は、優雅な力に満ちているというのに。 「─────私たちの……」 |
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北の国境は町のすぐ側にある。 隣国は、かつて共産主義国でありながら盟主ソビエト・中国のいずれにも敵対し、鎖国政策によってあらゆる外界との交流を拒みつづけていた、怯える子どもが体を強張らせるのにも似た痛ましい存在の方法を選んだ貧しい小国であった。 高い鉄条網の柵と軍隊によって堅く閉ざされていたその国境が、ソビエト連邦の崩壊と歩みを同じくして崩れ去ったのは、ほんの数年前の出来事だった。 国境の柵を越え、満ち潮が入り江に寄せるようにあふれ出したその国の人々が難民、あるいは不法入国者としてこの町に押し寄せていたその頃、自分たちは最後の戦いの渦中にあった。 すぐ間近で人々が日々の糧のために、その日の生命を繋ぐために戦いつづけていることなどまるで無関係であるかのように、正義とは何か、真実とは何かを敵に味方に問いながら、その答えのために血を流し、命を奪い合っていた。 それが、サガにはどこか、ひどく滑稽に思えてならない。 そして、自分たちのしてきたことが、どれも途方もなく愚かしいことに思えてならなかった。 その当時、黒衣の難民で溢れたという湖畔の広場に面したカフェで、二人は町並みを眺めながら定期船の到着を待っていた。 今となってはもう往時の混乱を偲ぶよすがもなく、静寂に包まれた城壁沿いの通りには、午後の授業に急ぐ大学生の姿しかない。まだ、シーズンには早いせいか観光客もまばらで、二人のほか、船を待つ者もいない。 縞の子猫がアイオロスの足元にじゃれ付いていた。 「静かだねぇ…」 子猫をあやしながら、アイオロスが呟く。 定期船が艀にたどり着いた。 緑に濁った水面が、いちどだけ大きく揺れた。 三十人ほども人が乗れば一杯の小さな定期船は、アイオロスの祖父母が暮らす、湖に浮かぶ葦原に囲まれた小島をめざす。 船員はアイオロスの顔を覚えていて、陽に焼けた笑顔で頷いていた。 |
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船を下り、島に唯一の村を通り抜けて、足許に葦の湿原が広がる松林に、二人はもう何時間も佇んでいた。 七つの修道院がひしめき合う小さな島はひっそりと鎮まりかえり、風が枝を渡る音のほかには、物音ひとつない。 アイオロスは、何も言わない。 ふとサガは、何の為に自分がここにいるのかを考える。 もう、随分と長い間、二人で旅を続けていた。 あの戦いが終わってから、もうずっと彷徨いつづけている。 湖を見渡すこの草地に立つのも、何度目のことだろう。 はじめて訪れたのはいつのことだったか、もう思い出せなかった。 すぐ後ろの丘の上には、小さな古い修道院がある。間もなく午後の祈りを告げる鐘が鳴るだろう。 「……昔…」 ふと、アイオロスが話し始める。 「……むかし、子供の頃、たくさん丸を描いて遊んだの、覚えてる……?」 それは、自分の記憶だったようでもあり、そこにいたのは自分ではなかったようでもあり、サガにはうまく思い出すことができなかった。 「きれいな丸が描けると、心が落ち着くよ、って…いや、落ち着くまで丸を描いてると、きれいなのが描けるよとか、そんな風に言ってたかな……覚えてない?……小さい頃、言われて練習したの…練習だったのかな…、訓練だったかもしれないし、何か悪戯でもしたときの罰だったかもしれないんだけどね……」 「―――――私が?」 「あ…えっと……、だって、『サガ』はそういうの、得意だったからね……いつもいっぺんで、大きくてきれいな真円が描ける子だったよ」 「……覚えていないな」 「そうかぁ……サガ、見てただけだったのかなぁ?…一緒に居たとは思うんだ……俺、一生懸命練習したけど、全然ちゃんとした丸なんか描けなかったのも、覚えてるんだけどな……」 「……お前らしい…」 「今もまだ、描けないよ。どうしても歪んじゃうんだ……」 思い描く光景が、現実に自分で見ていたものなのか、アイオロスの言葉につくり出される幻影なのかサガには区別がつかない。いつ、どんな時に、どこで起こった出来事だったのか、なにひとつ思い出せない。ただ鮮やかに思い浮かぶのは、幼いアイオロスの無邪気な笑い声、自分のものであってほしいと、痛いほど思う笑顔。 そんなものを自分は本当に知っていたのだろうか。 「いつだったかな……」 ―――――解らない。 思い出せないだけなのだろうか、そんな光景を、自分は知らない。 『―――――これは、私たちの世界……』 どこかから、静かに満ちてくる声がある。 『―――――これが、私たちの……世界……』 白い指先が中空に真円を描く。 ―――――遠い空は、小さな円形だった。 いつか二人で見上げた夜空は、まるく、ちいさく、手の届かない高い場所にあった。 中空に、曲線は美しく完結する。 遠い空の輪郭をたどると、小さな真円が指先に生まれる。 それは、歪むことも撓むこともなく、張りつめた弧が取り囲む世界─────誰かが見る、夢のおわりのようだと思う。たとえば神、あるいは女神の─────。 「……聖堂のドームにあった、明かり取りの窓は?……覚えてるよね?」 「……ああ…」 「あそこから、空を見るの、好きだった……」 「……私は……好きになれなかった」 「………うん……」 ドームの頂点に穿たれた円窓を、二人はよく見上げていた。夜には星を、昼には音もなく流れる雲を―――――夢の世界の出来事のように、手の届かない遠くで時が流れているのを感じていたことを覚えている。 それは、私の世界だ―――――。 穏やかに微笑むアイオロスの横顔を、サガは為すすべもなく見つめていた。 「そろそろ、戻ろうか…」 ……何処へ? その問いに、どのように答えれば良いのだろうか。 静かに放たれたアイオロスのその一言に、サガの心は泡立つような不安を覚える。 アイオロスの前髪が、湖の風に揺れる。サガが手を伸ばしてそっと掻き上げてみると、少し驚いたようにアイオロスは瞳を見開く。 笑い方を忘れたのかと思う─────黄昏に染まって黄金色に輝く双眸に、微笑みは浮かばなかった。 葦のざわめきだけが耳に響く。 ─────家へ。 自らの問いにそう答えかけて、サガは口をつぐんだ。 そんなものが何処にあるのかと、内心自分を罵りながら、祈るようにアイオロスの笑顔を待っていた。 「うち……帰ろう。」 アイオロスは当たり前のように言うと、裾についた草を払った。 「みんな待ってるんじゃないかな……そうだ、お茶を煎れるよ。…まだ、夕方になるとこのあたりは寒いから……」 帰り道に、日没を告げる修道院の鐘が鳴った。七つの修道院が響かせる青銅の鐘の音は、共鳴して島を包み、空へゆく風に乗る。 ─────家へ………。 縋るような思いで、サガは空を仰いだ。 青紫の薄闇に、明るい星が瞬いている。 |
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破片は、散逸していた。 描いたはずの完璧な真円は砕け散り、その欠片のほとんどが、気づいたときには失われていた。迷うことも戸惑うこともなく指先が辿ったその輪郭を、もう覚えてはいないはずだった。 アイオロスを失ってしまった、あの瞬間に。 何をするべきか、どこへ行くべきか、どうしてここにいるのか─────。 矢継ぎ早の問いが円環の空洞に浮かんでは消える。 最後の戦いが終わったその瞬間から、苦悩は始まっていた。 その痛みに耐えかねて、もう一人の自分─────「善」と呼ばれたサガが消えて以来、サガの中には真円の空洞がある。なじんだ傷口の輪郭を辿ると、美しい弧が連なる円環になる。ただ、それだけのことだ─────。 「何かのために生きるっていうのも事実だけれど、生きるためにしなければならないことも同じくらい大切なんじゃないかな。」 一度失ったはずの彼が、そう言って微笑う。 煤けた土壁に囲まれた小さな部屋は暖かく、ずっとここで生きてきたかのような懐かしさに惑う。アイオロスとふたりきりで過ごす日々は、もうずっと願いつづけてきた夢の実現で、こうして安らいでいればあの日々はあまりにも現実から遊離しているようにしか思えなくなってくる。あのできごとがすべて現実でしかないことをよく知っている自分でさえ迷うほど、郷愁は濃い霧のように道程の標を包み、淡い闇に溶かし込んでゆく。 「……もう、帰ろうか?」 何かを諦めるようなアイオロスの笑顔に、とまどいを覚える。 「居場所は、何処にでもあるんだ。」 見透かしたように輝く瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。 「彼女だって、待ってる。」 成すべきことは山積している。それは、ただ人としてというだけでも、聖闘士という理由でも、 ─────そして、ギリシア人としても、あるいは正教徒としても。選びかねて迷うことは許されても、生きている限り全てを拒むことは不可能なのだろう。 生きる意味が、存在の意義がただひとつではないことが、サガにとっては苦痛だった。 「しなければならないことなんか、たくさんある。」 アイオロスの言葉に、サガは頷くことができない。 「……だから、いつでも、帰りたくなったら帰ればいいんだと思う。」 夜空には上弦の月─────窓辺に佇むサガに、アイオロスがそっと微笑む。 彼女はいまも「女神」と呼ばれ、聖域の主としてそこにいる。 成すべきことはすべて為され、神々の覇権を争う戦は終わり、それでもなお彼女はそこに存在し続けている。信じたとおりに奇蹟が起こることも、世界のすべてが救われることもなかったが、それでも彼女は「女神」であり続けている。 「手遅れにならなければいいと思うよ。」 世界に争いの火種が絶えることはなく、彼らには為す術もない。 神々の言葉の空虚さを想い、闘いあったその日々を思うことが続き、サガはやがて身動きができなくなっていた。 東の国境ではいま、海軍がトルコ国軍と睨み合っている。小さな岩礁を巡る領土争いが、たちまちのうちに両国の関係を悪化させ、ようやく辿り着きかけた和解への道のりは急速に遠ざかっていった。 もう、何百年と続く不和に、彼らはまだ飽きることがないのだろうか。 闘うことの意味すら、誰も憶えていないほどの長い年月を啀み合ってきたというのに。 そして、そのような愚かしい諍いのひとつをすら、自分には止めることができない。 「……帰ろうか…」 随分と小さな声で、アイオロスが言う。 晩課の鐘が夜空に響く。 サガは答えることができなかった。 |
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帰りたい、と心のどこかで叫ぶ声がある。 「……何処へ…?」 暫くの沈黙の後、ようやく答えたサガの言葉に、アイオロスはそっと笑う。 「……さあ…」 月明かりに青白く染まる指先が、柔らかくサガの頬に触れる。穏やかな、やさしい笑顔だけが変わることなくいつも側にある。その手に自分の掌を重ねて、はじめて自分の手が冷たいことに気づいた。 「……何処でも、いいよ」 沈む月に照らされて、湖面は青く輝いている。一日の終わりを告げる最後の鐘が響く頃、アイオロスはようやく言葉を継いだ。 「…サガが好きなところなら……何処でも。」 |
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