ALCYON'S GARDEN [ main contents/entrance/courtyard ]
ombra mai fu presented by leida himemiwa





「《初めに言葉ありき。》―――何故なの、パパ?」



エンドロールが流れだす前に、サガはビデオのスイッチを切った。
暗く静まった画面に、眉根を寄せた自分の顔がぼんやりと映っている。頭の中では、途中でちぎれたラストシーンに流れていた「マタイ受難曲」の続きが、いつまでもこだましている。サガは、ため息とともに瞼を伏せた。



―――憐れみ給え、我が神よ……

その悲痛な叫びの意味を、サガは良く知っていた。

喩えようのないいたたまれなさは、深い共感から湧き上がるものなのだろうか。
その映画から伝わる思考は、叫び出したくなるような悔恨は、自分のなかにあるそれと余りにも同質に見えた。
存在と、世界と人間とを巡る既視感。
不偏でありながら、孤高であった喪失感。
よく似た悲しみに彼の記憶は共鳴する。フィルムが静かに語るそれは彼にとって「虚構」ではありえなかった。
「虚構」であればと、振り返るたびに願ったにもかかわらず。

透明な水面に浮かぶ生贄の炎の赤、立ち昇る煙の黒のさらに向こうに続く曇り空に、サガは崩れ落ちて行くあの日の聖域を見ていた気がする。
次第に加速度を増しながらなお緩やかに、音もなく神殿が崩壊してゆく様を、自分はただなす術もなく眺めていた。




「……サガ、ただいま?」
開いた窓越しに、アイオロスが微笑んでいる。
サガは急に引き戻された現実に少し戸惑いながら立ちあがった。いつもなら石畳の小道を歩く足音で判る彼の帰宅に、いままで気づかなかった。
「ああ…おかえり」
傾きかけた午後の陽ざしに、ニレの若葉が透き通るように輝いていた。
アイオロスの頭上で、風にざわめきながら柔らかな葉影を踊らせている。

アイオロスの向こうには、遠く霞むように広がるオークの聖なる林と山並に咲き競う草花の群れ。よく晴れた春の谷の緑は窓の外に別世界のように続いていて、サガはそれ以上何も言えなくなった。
そっと、窓枠に寄りかかるアイオロスの肩を抱き寄せた。それが現実であることを確かめるように。
「……何かあったの?」
心配そうな瞳が、見上げている。



―――憐れみ給え、我が神よ……

あの受難曲の咽び泣く声が、遠い空から響いてくる。
微かな声で、すすり泣く震える音で、救いを求めている。
地上の届かぬ祈りの数々は、高い空まで至ることができず雪のように結晶して地上に降りてくる。
サガは、輝くだけの虚しい結晶が自分を蝕み続ける夢を見る。それは視界に音もなく降り積もり、皮膚を削り取るような痛みで自分を消し去ろうとしているような気がする。



―――憐れみ給え、我が神よ……

すべての祈りは、誰のものもそうして天上には届かないまま、重さも温度もない薄片になって世界に積もる。

平安を求める祈り、愛を求める祈り、神のゆるしを求める祈り―――やがてかたちも、魂もなくして心にわだかまってゆき、彼と彼の愛するものを圧し潰して沈んでゆく。



「…サガ……何かあったの?」
「何も…」
「…ずっと、何していたの。退屈だった?」
「…《サクリファイス》を観て…ちょうど、終わってすぐお前が帰ってきたから…」
アイオロスは少し躊躇いがちな笑顔を見せただけで、それ以上はなにも言わなかった。居心地の良い春の夕暮れに誘い出そうと、窓越しに声をかけたサガの横顔が、ひどく寂しそうだった理由が解って、答えられなくなった。

そこには、聖域がある。
その「虚構の世界」は、あの聖域の、双生の世界のように存在していた。



―――憐れみ給え、我が神よ……





あの日捧げられた贄はあまりに美しく、自分にとって、聖域にとってその代価はあまりにもおおきかったけれども、それは幾度となく繰り返された歴史の、一巡りの相似形に過ぎなかった。

あのとき確かに聖域に刻まれた記憶は、悠久の時のなかにたった一度のことでなどあるはずがなかった。
何ひとつが新たな存在などではないと思い知りながら、サガは自らの手でそれを実現したのだ。
事件は、良く知られた物語の再生に過ぎなかった。
裏切りも、背信も、愛した者の死も、厭きるほど反復された人類の愚行のひとつに過ぎない。

アイオロスを喪失する意味は、幾層にも重なる《犠牲》の地層に新たな犠牲を積み重ねるだけに終わるのだと、そのときサガは知っていた。

似た出来事は過去にもあり、同じ事象は未来にまた、いずれ目にすることになるのだろうと眩暈を覚えながらそのことを憎んだ。
その背信の苦悩、悔恨に身を裂かれる想いは―――かつてそこで癒されることなく沈澱し、戦いの日々のうちに闇のなかにさえ現れる影になった。

そこにいたのは、多くの「ペテロ」と更に多くの「ユダ」。口火を切った自分はそれらですらなく、加速度を増して破滅に向かう「世界」の葬送を見ていただけだ。

すべては終わったはずだった。


終わらなければならなかった。





自らの生命で贖うことによって。


ペテロは外で中庭に座っていた。すると、ひとりの下女が近寄ってきて、「あなたもガリラヤ人のイエズスと一緒にいましたね」と言った。ペテロは皆の前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、わたしにはわからない」と言った。


アイオロスを失うことだけならば、サガにとっては絶望でさえなかった。
夢に見たものが違っていても構わなかった。たどりつく場所は同じだと知っていたから、その手段も、道程も異なることさえ瑣末なことだと思っていた。
だから、その死はなにひとつサガの世界を傷つけはしなかった。

代わりに傷ついたのは、もうひとりの「自分」であって、自分ではなかった。
けれど―――

「彼」でさえ、アイオロスの不在に傷ついたのではなかった。「彼」の心を蝕んだのは、アイオロスの死を受け入れてしまった聖域だった。

その喪失を諦めることができてしまった聖域には世界を支える礎石たり得ることなどかけら程もありはしないのだと、彼らのどちらもが知ってしまった。


彼が門の方に行くと、ほかの下女がペテロを見て、そこにいる人々に「この人はナザレ人のイエズスと一緒にいました」と言った。ペテロは再びそれを否定して、「そんな人は知らない」と誓った。


ニレの若葉が揺れている。
空に―――祈りの言葉は風のなかを舞っている。
「…少し、外を歩こうよ。日が沈むまででいいから。」
アイオロスには、サガがいま、彼自身の思考の迷路に踏み惑っているのが解っていた。長い、サガの黒髪がアイオロスの額に零れる。
俯いたままのサガは、もうひとりの「彼」―――いまだ贖罪の願望と、自滅へ向かう悔恨に縛られたままの「サガ」に向かい合っているのだろう。深く、緩やかなサガの呼吸を背中に感じながら、アイオロスは必死で涙をこらえていた。


「…サガ……」
13年という歳月が培った絶望と悔恨は、「サガ」の心に深く根を張り、幾重にも取り巻き、固くその想いを封じ込めた。もはやその苦しみは苦しみですらなく、生命の営みそのものとなって魂と分かちがたく結ばれていた。
それでもなお、聖域を信じようとし、女神を愛そうとした「サガ」の強靭さをアイオロスは後になって、改めて思い知らされている。あの日失われたもののおおきさが、自分には耐えられない痛みだと解っていたから。

ただ、アイオロスの生還によって和らいだかに見えたその痛みは、なお癒えることなく「サガ」のなかで強い根と広い枝葉をもっている。培われたのと同じ歳月が、その消滅には必要なのかもしれない。
そう思って聖域を離れた。

離れて、既に4年が経つ。



しばらくして、そこに居合わせた人々が近寄ってきて、ペテロに「確かにおまえも彼らの仲間だ、言葉のなまりでそれがわかる」と言った。そのとき、ペテロは神罰もいとわないと誓って、「そんな人は知らない」と言い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」とイエズスが言われたことを思い出し、外に出て激しく泣いた。





黄昏に染まるオークの林を並んで歩きながら、つないだ手があたたかいだけで、アイオロスは泣きたくなった。
信じるものの弱さも、弱さゆえの裏切りも、「サガ」だけが引き受けてしまった。あの純粋で繊細な孤高の魂は、アイオロスの手がもう届かないところで、愛したものの背信に打ち砕かれてしまっていた。

アイオロスは、あの「サガ」が愛した聖域をよく知っていた。それが脆く崩れやすい幻想に過ぎないことも、よく判っていた。人が弱い存在であることは、世俗に限ったことではなく、生きとし生けるすべてのものはその弱さをさえ赦されてそこにあり、 聖域もまた、例外ではなかった。

正しさや強さを求めて、それを夢に見てもいたけれども、そうなれないことを責めても仕方がないと、まして誰かの咎でなどありえないのだと語り合いながら、あの「サガ」と自分はそうではない世界を心の何処かで育んでいた。やがてそれが意味するものが絶望でしかないことを知る日がくることも、同時に予感しながら。

それなのに、彼を守れなかった。

いま、このあたたかな身体の奥深くに眠りながら、「サガ」は何を考えているのだろうか。
自分の声が、聞こえているのだろうか……

「………サガ…」
群生する野ばらの花びらが、風に舞いあがる。
振り向いたサガに、それをどう伝えればいいのかは解らなかった。



黄昏の空に、真白の花びらが降る。

舞い散るかけらのひとひらごとに、祈りの言葉が刻まれている。

憐れみ給え、我が神よ、わたしのこの涙を
ご覧ください、わたしの心と眼は
あなたのみ前で泣いています
憐れみ給え、我が神よ……


二人は「サガ」が目覚めるのを待っていた。

時が満ちて、「彼」が癒される日を、眩しいほどのうつくしい無垢な笑顔に、喩えようもなく優しいあのまなざしに再会する日を待ち侘びていた。

神々との戦いが終わることですべてに終焉が訪れるはずもなく、聖域が失われることもなく、彼らの生涯さえ、そこで終えられはしなかった。
女神の勝利は、人類の歴史の完結を意味しないし、誰かが言ったような「平和」や「理想郷」が突然に現れることも意味しない。まして、「正義」が実現することなど初めからあり得ない。

彼らは生きるための、あるいは生かされるための、長い夢を見ていたのだろう。その存在のすべてを賭して。
究極、形而上の戦争の帰結は、人類の歴史の結論は人類自らが下すものなのだという意思を貫いたことに尽きる。


だから、二人は「彼」が帰ってくるのを待っていた。

人の世には多くの成すべきことがあり、彼らには解決しなければならない事象がさらに多く待ち構えている。人類の現実にもう一度対峙するとき、「サガ」の強さや優しさに、いつも傍らで触れていられるなら、それはどんなにか心強く、慰められることだろう。


「《初めに言葉ありき。》………何故なのだと思う?」
夕闇の山道をゆっくりと登りながら、アイオロスが不意につぶやいた。
映画のラストシーンに、幼い少年が囁いた言葉と同じように―――口をきけなかった少年が、最後にぽつりと空に語りかけていたそのままに。

サガはそれには答えず、そっと笑っただけだった。






ALCYON'S GARDEN [ main contents/entrance/courtyard ]

ombra mai fu presented by leida himemiwa