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「向こうに着いたら、ワインを送って欲しいんだけど…」
二人分の夕食の支度をしながら、アフロディーテが言い出した。
「…シベリアで?」
「シベリアにワインがあるなら、ぜひそれも試してみたいけれどね……ヤニナに寄るつもりだろう?」
「………うん」
旅程は、1ヵ月ほどにもなる。
空路なら1日で済むシベリアまでの道程を、ミロは列車で移動するつもりでいた。サロニカからユーゴスラビアを抜け、モスクワを経由してシベリアに向かう、その行程の途中にヤニナはない。
仮にそこへ寄るのだとしたら、メテオラで長距離バスに乗り換えるしかないのだが、話してもいないそんな予定を何故アフロディーテは気づいたのだろう。
「…だって、石返しに行くって、言ってたよ?」
「……そうだっけ?」
「…返しに、行くんだろう?」
「………うん……」
石の名を、『喜びの涙』という。
聖域に伝説とともに伝えられた宝石のひとつで、もとはといえば神話の時代から、人馬宮にあって射手座の黄金聖衣とともに射手座の聖闘士を守護していたという。
聖域の長い歴史に何度も姿を現しては消えることを繰り返すうち、石そのものが伝説と化した現代になって、『喜びの涙』はアイオロスの手にするところとなった。
琥珀色のそのトパーズは、アイオロスの祖父の手で黄金の十字架に嵌め込まれ、かつてはアイオロスの胸を飾り、いまはミロの手元にある。
それは、アイオロスの「死」に遅れること数ヶ月後のある日に、ミロに届けられた小包に入っていた。
ミロの誕生日に日付を合わせて届くように、生前のアイオロスが手配していたものだった。
彼は、自分の運命を予感していたのだろうか。それとも何も知らずにただ、そんな手の込んだ贈り物を考えついただけだったのだろうか。
さいわいが、いつもあなたを護りますように―――石に篭められた願いが、それからのミロの心の支えになった。黄金の十字架の裏には、読めない文字が彫られていた。
アイオロスが持っていた頃にはなかった、神聖文字のメッセージ―――おそらくはアイオロスの祖父が彫り留めたものなのだろう。
「…アイオロスの形見、だからね、この石…」
テーブルにワインの瓶が置かれた。
いつも二人だけで夕食をとる時に決まって出てくるものとは違う、見慣れない白ワインの瓶に、ミロは首をかしげた。
「……知らない…これ、何処の?」
「ヤニナの近くの村で作ってる。ここにはもうこれが最後でね、向こうで沢山買って、送ってくれないかな…」
「…それは構わないけど……」
名だたる銘酒がいくらでも手に入るのに、わざわざ取り寄せるほどの味だとは思えなかったが、どこか懐かしい香りで、ミロはそれを一息に飲み干した。胸の詰まる残り香―――
「……思い出さないかな…」
アフロディーテがそっと微笑った。
「子供のころ…たまに飲ませてあげたんだけど……」
「…あ……」
サガが、好きだった。
アイオロスが故郷から戻るたびに届いた荷物の中にあった、あの瓶とは形もラベルも違うけれど、あの懐かしいワインは、確かにこの香りだった。
彼の、故郷の――――
あのひとの湖を見たいと思っていた。
彼の愛した、湖に浮かぶ島で暮らす人々に会いたいと思った。
叶うなら湖の先へ、彼が生まれた場所へ、彼が聖闘士として多くの時を重ねたゼウスの神域へ行きたい―――行って確かめたいと思っていた。
アイオロスの享年をひとつ越えても、アイオロスのことはまだ解らないことの方が多かった。
何を考えていたのか、どんな夢を見ていたのか、聖域や聖闘士や、女神のことをどう思っていたのか。
知りたいと思いはじめたのは随分小さな頃だった。いまも、変わらずにそう考えている。解りはじめた事は日ごと、年ごとに増えたけれど、それにも増して解らないことがつぎつぎと浮かんでくる。
その答えのひとつが、ヤニナにあるような気がしていた。
「アフロディーテは、ヤニナに行ったことある?」
「うん…まだ、アイオロスが生きていた頃にね……殆ど通り過ぎるだけだったけど、何度か行ったよ」
「通りすぎるだけ?」
「……話したこと、なかったっけ。ドードーナは女神アフロディーテの神域でもあるから、キプロスだけじゃなくて、そこにも行っていたんだ…」
「オレがエフィラに行ったようなもの?」
「……そう」
黄道の十二星座を守護星座にもつ黄金聖闘士は、女神アテナとの盟約のほかに、守護七惑星と、さらには古代神話の各守護神との一定の契約を義務付けられている。
その契約の儀式の多くは秘儀として聖域に伝承されてきたもので、起源は曖昧でありながらも黄金聖闘士にとっては重大な通過儀礼であった。
アフロディーテはうお座、双魚宮を預かる者として、本来は海神ポセイドンと契約しなければならなかった。
ただ、何故かながく最後の契約の儀式がうまくゆかず、気を揉んだサガとアイオロスが聖域の長老会議や巫女院、世界各地に散らばるゆかりの聖地の者たちまで動員して明らかになったことは、ポセイドンの神性を宿す者が、既にこの世に現れつつあるということだった。
それは、とりもなおさずジュリアン・ソロ誕生の予言であったのだが、そのとき、新たな契約に応じた神が、海神たる女神アフロディーテであった。
古代神話には同じ名前でありながら性質の異なる神々がしばしば登場する。現代にあっては淘汰、統合の結果だけが知られているに過ぎないのだが、聖域ではそれらの神々はなおその矛盾した特性をひとつの名前に押し込めつつ、時には同じ名前の神々をそのまま複数の神として祀っていた。
アフロディーテが契約することになった女神は、金牛宮と天秤宮に坐す「愛と美と豊穣を司る」女神より遥かに古い神話に属している。
そのため、天帝ゼウスの仲介を経る必要が生じ、その保護下にあるアイオロスがアフロディーテの最後の儀礼の後見人となり、立ち会うことになった。
ドードーナは、ゼウスの聖地であるとともに女神アフロディーテの聖域でもある。
この地で、二神は父と娘としてどの神話・伝承においてより強く結びついて信仰されていた。女神アフロディーテの母たるディオ―ネは地母神ガイアの化身であり、その名はゼウスの女性形である。
複雑に伝説が入り組んだその古い聖地での秘儀を終え、さらにキプロス、スパルタでの儀式を経てようやく、アフロディーテは黄金聖闘士として聖域にその名を連ねることを許された。
「アフロディーテ」という呼称も、そのとき与えられたものだった。
その時の騒動の次第なら、ミロはよく覚えている。アフロディーテがまだ別の名前で呼ばれていて、焦りと苛立ちとから泣き出すことがたまにあって、その度にカミュと二人で、懸命に慰めようとした。
「あのときは大変だったよね……」
ミロの呟く言葉に、アフロディーテはそっと笑う。その笑顔を見ているうちに、ミロはふいに寂しくなった。
「……オレ…でかけるの、やっぱり……明日にするよ…」
「…泊まっていく?」
「……うん」
久しぶりに甘えたい気持ちが、抑えられなかった。アイオロスとサガがいたあの頃も、いなくなってしまった後も、ずっと変わらずに優しいアフロディーテは、その時も優しかった。
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