その1 妖精事件







■回覧板■


午前9時。
壊れかけた呼鈴の頼りない音が玄関に響いて、太乙は読んでいた新聞から顔を上げた。

預かって1週間になろうとする「フゲン」は、太乙のそばで熱心に絵を描いている。
山積みにした使用済みコピー用紙に埋もれて、ひどく真剣な顔で、目を覚ましてからずっとその裏面を次々に鮮やかな色で塗りつぶしていくという遊びを続けている。
声をかけても返事もしないほどの集中力に太乙は少し感心していた。
できあがる絵はどれも眩しいほどの明るく、しかも思いがけない奇抜な色彩感覚が遺憾なく発揮されていて、太乙はその「作品」にも少なからず感心していた。
案の定、呼鈴の音ぐらいでは、「フゲン」はぴくりともしなかった。


玄関に立っているのは警官ではないかと思っていた。
「フゲン」の捜索願を出してから1週間になる。
そろそろ保護者が見つかったという知らせが来てもいい頃だと思っていたから、電話のひとつもなかったけれど、巡回のついでにでも報告に来てくれたのではないかと考えていたのだ。

だから、玄関の引き戸を開けたとき、ちいさな子供がひとり立っているのを見つけて(あまりに小柄だったため、見つけるに至るまでにも時間が掛かった)、しばらく太乙はどうしていいか解らなかった。
「……オハヨウゴザイマス。」
何故かひどくぎこちない挨拶をするその子供は、隣の寺の住職の孫だった。
一生懸命な目をして、きゅっと口を結んでいる顔が随分と可愛らしい。
「…おはよう。」
太乙が穏やかに笑ってみせても、何かに緊張しているのかにこりともしない。
「……カイランバンです……」
目をそらしもせずに、ちいさな両手に持った町会の回覧板をさしだしてくる。不思議なほど真剣な表情は、何かを思いつめているのだろうか。
「うん…ありがとう」
(回覧板って、こんなに真剣にやり取りするものだったっけ…?)
太乙はそんなことを考えながら、その回覧板を受け取った。
その手から、回覧板が離れても、望はそこを動こうとしなかった。
「……どうしたの?」
さすがに太乙にも、望が何か必死な様子なのが伝わってくる。
「えっと……」
息を呑んで、望が言う、
「……ここにザシキワラシ棲んでませんか?」
突拍子もない言葉を太乙はしばらく理解できなかった。

「……ザシキワラシ?」
「………「ヨウセイ」かもしれない…」
「……ヨウセイ?」
一体なんのことだろうか。
太乙は見当もつかない望の質問に、少しの間途方に暮れていた。

「太乙さんの家の…裏庭に棲んでるんだと思う……」
「……?」
適当にあしらうには望の表情は真剣すぎて、太乙はかがんで望と同じ高さの目線になった姿勢のまま、進退窮まっていた。
家に上げて、ゆっくり話を聞いてあげた方がいいだろうかと心配になるほど思いつめた表情で、頬も紅潮していて、もしかしたら熱でもあるのかもしれない。

「……みずいろでフワフワしたヨウセイ…」
「…水色で、フワフワ?」


「……いい。……ゴメンなさい。」
太乙がもてあまし気味に相槌を打っているうちに、望の中ではすっかり諦めに似た気持ちが一杯になっていて、しばらく黙り込んだ後で、ぽつりとそう言った。

何が良くて、何がゴメンナサイなのか、太乙にはとうとう解らず終いだったが、望は泣き顔とも怒り顔ともつかない表情のままぺこりと頭を下げると、くるりとちいさな背中を向けて、さくさくと庭先に積った楓落葉を踏みながら去っていった。


随分と寂しそうな後ろ姿に、なんとか力になってあげたいとは思うものの、結局望の言いたかったことも尋ねようとしていたことも太乙には全く解らなかった。

居間に戻ると、相変わらず真剣に「フゲン」は白いコピー用紙の裏をパステルの色彩で埋める作業に没頭していた。
背中に声をかけてもやはり返事はない。

その子供の一心不乱な様子にふと思い出したのは少し前に作った押花のことで、太乙は部屋の片隅に積んだ辞書や辞典の下敷きになっていた古新聞を引っ張りだしてテーブルの上に広げた。
「フゲン、押花できてるよ。」
鮮やかな真紅の曼珠沙華は、新聞紙の間で無事に透明な薄い押花になっていた。
「フゲン」がここに来たその翌朝、どこから摘んできたのか両手一杯に曼珠沙華を抱えていたのには太乙も驚かされたが、次第に枯れていく花を悲しそうに見つめている「フゲン」に押花の作り方を教えたのは3日ほど前のことだった。







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