その1 花降る日







■3■


がたん、と大きな音で我に返る。
いつのまにか授業は終わっていて、隣を振りかえると実に複雑な表情の普賢と目が合った。
「…なんだ?」
「望ちゃん…なに、その締まりのない顔…」
おぬしの子供の頃を思い出しておった、とはさすがに言えず、望はあいまいに微笑んだ。
「…ねえねえ、普賢君!」
普賢が更に何か言おうとした時、女子のひとりが声をかけてきた。
同じ中学から進学してきた顔なじみの中では、彼女だけが高校でも同じクラスになった。
「数学、解らないトコがあるんだけど教えて?」
「あ…うん」

「普賢君って、数学得意なんだ…?」
普賢の前の席の女子が、物珍しそうに普賢に話しかける。
それが合図のように、三々五々、離れた席からも生徒たちが集まってくる。

人一倍親しみやすい望と違って、少し浮世離れした雰囲気のある普賢には、興味があってもなかなか話しかけるきっかけが掴めずにいた者がそれなりにいたのだろう。堰を切ったようにめいめいが次々と声をかけてくるせいで、最初に声をかけてきた女子はいつまでも肝心の回答を得られずにいる。
引く手数多の恋人のそんな様子を眺めながら、相変わらず頬の緩んだままの望に普賢が気づいているのかいないのかは解らない。
窓ガラスの向こうでは、わさわさと勢いよく揺れて花びらを散らす桜が、角度の変わった日ざしにわずかに彩りを変えていた。


「……桜の花は目の毒だのう」
帰路、校門まで続く桜並木を振り仰ぎながら望がつぶやくと、
「…望ちゃん、反省が足りないよ」
隣を歩く普賢がすぐに答える。
「……おぬしだって思い出しておっただろう…」
「望ちゃんのせいだもん」
どうやら口ごたえは許されていないらしい。
逆らうのを諦めて、黙って歩く。

手をつなぎたい気持ちを一生懸命こらえているのは普賢も同じはずで、少し離れて並んだ影が重なり合わずに伸びていくのがなんだか切ない。
花びらは淡い茜色に染まって、もう風も止んだ地面に吹き溜まっている。
「…桜が散ると、お寺の掃除も大変だね」
「…明日あたりからかのう」
花の咲く樹が多いのは古刹の常で、桜を待たなくても山茶花や木蓮が、既に寺の玉砂利に花びらを落としていたのだけれども。

「…明日、日曜日で良かったね」
盛りの桜を見に、寄り道しながら歩く道すがら、普賢が言う。
「…僕、お寺の桜がいちばん好きだよ。満開をゆっくり一日見ていられるの、ウレシイな」
「そうだのう…」
玉虚寺の桜の老樹は、どれも街中のソメイヨシノよりも満開が遅く、ちょうど明日あたりが満開になる。
「……商店会のお花見まで、桜もつかな?」
毎年恒例の商店街の青年会が主催する花見の宴は、玉虚寺の庭を借りて催される。幼い頃からふたりにとっては楽しみな宴会で、今年は週明けの火曜日の夜を予定していた。
賑やかな花見の席も悪くないけれど、今日と明日は静かにふたりでお花見しようね、と普賢が笑う。


「玉虚寺」と大きく書かれた額の掛かった、古い瓦葺の山門をくぐると、開けた視界は見事なまでに咲き誇る桜の花に埋め尽くされて、その色彩に圧倒される。
毎日見慣れているはずの風景なのに、改めて胸に迫ってくるものがあって、望はため息をついた。
「…お墓の方の桜も見にいこう?」
ただいま、と小さな声を互いに交わしてから、本堂の縁側にカバンを置いてふたりは裏庭に続く墓地に向かった。
どちらからともなく差し出した手をしっかりと握りあって。

「…こっちはまだみたいだね…」
墓地の隅に枝を広げる枝垂桜は、生来の性質なのか日当たりがあまり良くないせいなのかまだ蕾が膨らみはじめたばかりで、花開くのは少し先のようだった。

「…望ちゃん?」
いつのまにか普賢の手を離して、望はその場にしゃがみこんでいた。
声をかけても背中を丸めたままで、曖昧な返事を返してくる。
「……どうしたの?」
「…ん」
膝を折って同じ目線で尋ねてくる普賢に、望はそっと笑った。
「いいものを見つけたのだ。…ちょっと手を貸せ」
「何?」
左手首を優しく引かれて、バランスが崩れるのを踏みとどまりながら、普賢は望の嬉しそうな顔につい見惚れる。
「…ほら」
得意げに望が掲げる普賢の左手の薬指に、タンポポの黄色がまぶしい。
「懐かしいであろう?」
言葉が出なくて、普賢はただ頷いただけだった。
大輪のタンポポが、ふわふわと手の甲をくすぐる懐かしい感触。
こみあげてくる優しい気持ちに心を奪われていると、ふいにこめかみに望の唇が触れた。
「…望ちゃん…」
目の前には掃除の行き届いた小さな墓地。
その向こうには相変わらずの、太乙がつくりあげた正体不明の瓦礫の山。
ロマンチックなデートスポットには程遠い風景だったが、ふたりには幼い頃からの大好きな思い出の場所だった。もう随分と傾いた西日が、桜もタンポポも墓石もガラクタも同じ朱色に照らしながら沈んでいく。

木魚の音が本堂から響いてくる。

ふたりは顔を見合わせて、そっと微笑を交わした。







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