その1 花降る日
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「…大丈夫?」 教室の隅のささやかな騒ぎに気づいた教師が、教壇を降りて歩み寄る。教室中の視線が望に集まって、居心地悪いことこの上ないのだが、それどころではなく普賢にどう言い訳したものかと思案する望の向こう側で、当の普賢が教師に向かって、 「あの…体質らしいですから」 そんな風に答えている。 「…保健室に行かなくても大丈夫?」 体質と言われても、目にとまった望のハンカチはもう真っ赤で、結構な量の出血だったのが誰の目にも明らかなのを心配して教師が更に言い募るのを、今度は望が済まなそうに制止した。 「…じゃあ、授業続けるわよ?」 教師の言葉に、望はこくっと頷いた。横から突き刺さる普賢の視線が痛い。 余談になるが、この日以降も血の気の多い望が鼻血を出すというできごとは何度もあったのだが(そして大抵同じような理由で出血していたのだが)、この日の普賢の発言が効を奏してか、あるいはそんな些細な体質など気にとめていられないほどの望の人徳のせいか、この後の長い高校生活の中で、その原因が追求されることもなく「呂望君は鼻血体質」という一言ですべてが片付いてしまうことになった。 真っ赤に染まってしまったハンカチを洗うために、望は校舎の外に出た。あまり人目のあるところで鼻血とはいえ血を洗い流すのが憚られたせいもあるが、なにより外の桜がきれいで風が心地よくて、薄暗い建物のなかにいるのが勿体ない気がした。 ざぶざぶと力を入れてハンカチを濯いでいると、普賢が後ろから声をかけてきた。 「…血、止まった?」 「……うむ……」 四月とはいえ屋外の水道水はまだ冷たく、それがかえって望には気持ちが良かった。洗いあがったハンカチを軽く絞って普賢に渡すと、そのままざっと顔を洗って、一息ついた。 「…あ…望ちゃん、上…」 普賢に背中をつつかれて見あげると、視界いっぱいにきらきらと輝きながら、たくさんの桜の花びらが空に吹き上げられていくのが見えた。白と薄紅の柔らかな欠片が、風に乗って次々と舞いあがっている。 「気持ちいいね…」 空を仰いでほんとうに気持ちよさそうに笑う普賢に、望はつい見惚れてしまう。 ふと、望のその様子に気づいて、普賢は先刻の騒ぎを思い出したのだろう。 「……望ちゃん…」 少し咎めるような、呆れたようなその声音には本心から責める気持ちは含まれていないのだろうけれど、望はうろたえてしまう。照れ隠しにもならないが、「もとはと言えば責任の一端はおぬしにもあるのだ」と、心の中だけでつぶやいて、そのままうつむく。 同じことを思い出しているはずの普賢は、やはり少し恥かしそうで、俯いてしまった望にそれ以上声もかけずに、空を流れてゆく花びらを目で追っていた。 2時間目の始業のベルが鳴る。 授業には一向に集中できず、隣の普賢の様子ばかりが気になって仕方ない。 油断するとまた昨夜のことや今朝のことを思い出してしまって普賢のヒンシュクを買うので、望は自分でもコントロールのままならない自分の思考回路を必死で舵取りしながら、いまは子供の頃のことを思い出してこの時間をやり過ごそうとしていた。 最初に脳裏に浮かんだのは、まだ小学校にあがる前の、普賢と出会って最初の春。 いまでも鮮やかに覚えている、桜の花の満開の下――――。 本堂の縁側に並んで座って、はらはらと舞う桜の花びらを目で追いながら、ふたりは手をつないでいた。口の中には大きな飴があったから、ふたりともずっと一言も話していない。 背中に、祖父の読経の声と木魚の音が聞こえてくる。 赤精子にもらった飴は桃の味で、じっとなめているとそのうちだんだん小さくなって、すっと消えてしまった。 時折、山門の向こうを車や人が行き交うほかは、いたって静かで穏やかな昼前のひととき、どちらからともなく笑いだしたのは、一体何が可笑しかったのだろう。 風にふわふわと翻る花びらをつかまえたり、植え込みにまぶしく咲くユキヤナギを散らしてはしゃいだりして、毎日飽きることもなく遊んでいた。 普賢の薬指には、いつも望の摘んでくる花の指輪があった。なかでもタンポポがいちばんのお気に入りで、その日も墓地の縁で見つけた大輪のタンポポの茎を結んだ指輪をしていた。まだ舌足らずの嬉しそうな声で、「ぼうちゃ」と呼ばれるだけでひどくドキドキした――――。 |