| ◆今月のコトバ◆ |
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桃夭(tou-you):「夭」は「若い」という意味。桃の花のように華やかで若い女性といったところなんでしょうか。「結婚適齢期の女性」を指す言葉です。勿論、古代中国での適齢期ですから、かなり若かったハズ。最近の日本では「結婚適齢期」という言葉自体、無意味なような気もしますが、「桃夭」と題した周代の古い歌謡が伝わっていて、それがなんとなく太普っぽいかなぁ?…ということで。 |
| 9th (sun.) |
昨日の日記で少し言い足りなかったこと。 いわゆる差別用語に対する規制は必要だと思うし、差別的表現や周囲を不快にする表現というのはむやみやたらにするものではないというのも確かだろうけれど、右に倣えで何もかも隠してしまうのもやっぱり怖い。 東京はどこも桜が満開のようだ。 まだ蕾の固い近所の桜を車の中から眺めながら、桜どころではない大量の花粉が空を流れているのを見た。 うっすらと黄色い、煙のような筋が風に乗っている。 最近できた本屋に出かけてみた。 教員御用達の本屋なのか、教科書や指導要領がずいぶん充実していた。中身をじっくりみているとどれもうすら寒くなるようなお粗末な内容なのだが、気になるので斜め読みしたりしているうちに閉店時間になってしまった。 今日の和菓子:「赤福」 赤福(三重) 赤福はいくつか食べ方のバリエーションがあるのでス。かき氷に入れて宇治金時風にしていただく「赤福氷」とか、赤福をおわんに入れてお湯を注いでいただくおしることか。伊勢神宮にある本店はお茶がとてもおいしいでス。 |
| 8th (sat.) |
1日の日記に、少し反響があった。 まず、友人Aの日記サイトにほぼ全文が転載されることになった。(リンクを断ったので。)興味を持ってもらえて素直に嬉しかったが、その後向こうでの反響はどうだったのだろう。 他の友人B(ホモvs健全という対語を使用)からは、「今度から気をつけるね」という返事。別に言葉狩りをしたい訳でなし、「君がそれでいいと思って使っている言葉なら変える必要はないはずなのだが」と答えると、「そうね。本質的に同性愛を不健全だと思っていることまでは、まだ否定できないから、しばらく考えるよ」と再返答。素直さと潔さに惚れてしまいそうになった。 言葉遣いだけを変えて表面を取り繕ったところで、差別の根源は何も変わらないし、差別者の本質もただ見えなくなるというだけで少しも変わりはしない。だから1日の日記は言葉狩りを意図したものではなくて、ただこうした現状を書きとめておきたかっただけなのだ。 「ホモ」という言葉の使い方について、私は特に良し悪しを論じなかった。無自覚で無意識的な差別は確かにいただけないけれど、表面だけを取り繕って「差別をしていない」と見せかける態度はもっといただけないし正直言って不愉快ですらある。この手の言葉についてはろくな内省もなしに「使っちゃいけないみたいだから」と慌てて言葉を引っ込めるようなことだけは、するべきではないのではないかと思うし、ある意味危険でもあるだろう。 「確かに、人を好きになるのに同性だから不健全とか、異性なら健全っていうのはヘンだよねぇ」と、友人C。これまでそれほど親しくつきあっては来なかったが、この日記でなんだか私を気に入ったのだと嬉しい事を言ってくれる。(何かのワナだろうか…。)彼女は「ホモの対語は健全だと思い込んでたの。回りがみんなそう言ってたから。知らなかった」とも言っていた。そういうこともままあるのだろう。悪いとは思わないが、周囲に流されて無自覚に言葉を使いつづけてきたのは君の失態だ。責めるつもりはさらさら無いけどね(責める資格もないしねぇ)。無知を吊るし上げるのは本当に趣味が悪いことだと思うよ。(ほぼ私信。) 今日、彼女のサイトを訪れると、「ホモ」関連の言葉遣いが変化していた。今まで使っていた言葉についてのコラムと共に。紹介したいところだが、まったくの別ジャンルで秘密厳守と言うことなのでここにURLを書くことはできない。ここの1日の日記や私とのやりとりも一部転載されているので、もし見つけることがあったらすぐに判ると思う。当たり前のことのようだが、その丁寧な誠実さにやっぱり惚れなおしてしまった。 他にも微妙に反響があったらしいのだが、直接関わったのはこのくらい。三人三様の反応が興味深かったのでここに記しておく。 今日の和菓子:「いもようかん」 舟和(東京) いもようかんは舟和に限りまスね。奈良に住んでいた頃は、イベントや仕事で東京に行く機会があると必ず買って帰りました。日保ちしないのがなんといってもツライところでス。 |
| 7th (fri.) |
結婚式の引き出物というのはどうしてこう役に立たないものが多いのだろう。最近ではかさばる紙袋に一杯の引き出物をもらうよりは、商品カタログをもらう機会の方が多いのだが、それにしてもこれといって欲しくなるような品物は見あたらないのが現状だ。 今、うちでスクリーントーンと原稿類を整理するのに使っているB4版サイズの28段クリアケース(姫神より背が高い)が、実は大王が友人の結婚式でもらってきた引き出物カタログで手に入れた優れものなのだが、改めて眺めてみるとこんなもの、普通の家庭で必要だろうか。カタログの内容は今見返してもつくづくお粗末で、このクリアケースがなかったらうちは何も申し込まなかったと思うのだが、それにしてもどうしてこんなものがカタログに入っていたのか、つい不思議に思うのである。 本日の和菓子:「二人静」 両口屋是清(名古屋) 本のネタが尽きた…というか、実はあきれるほど姫神の蔵書には一般書が少ないので、甘物の話をしばらくしようかと思いついたものでスから。「二人静」は和三盆糖の打菓子で、紅白の半球形がふたつで1組になっていまス。3月の太普イベントで会場で配ってみました。アキラ君曰く「ポケモンボール」。確かに似ていまス。 |
| 5th (wed.) |
今年に入って、クロシェレース(鉤針編みのレース)を始めたのだが、つくづく編物に向いていないらしく、一向に慣れない。思えば小学生の時から家庭科は好きでも編物だけはニガテで、ずっと避けて生きてきたのに(学校の家庭科の時間にマフラーとセーターと靴下とクッションカバーを編まされたぐらいの経験しかない)何を思って鉤針レースなんかを編んでいるんだ自分、とたまに頭が痛くなる。 レース、といえばもともと好きだったのはボビンレースで、仕事でベルギーに行った時には仕事の空き時間のほぼ全部をレース屋めぐりに費やした。その後、アンティークレースの世界にも触れ、ボビンレース以外にもタッティングレースやクロシェレースの存在を再認識して今に至っているのだが、まだまだ奥が深いらしい。 高校生の頃の学校のことなどあまり記憶にないのだが、なぜか鮮明に覚えているシーンのひとつが、友達が一生懸命クロシェレースを編んでいたことだ。友達とはいえそれ程親しくもなかった彼女が、白い木綿糸でレースを編んでいるのを、当時はご苦労な事だ、とため息混じりに眺めていたのだが、今にして思えばあれは実に楽しそうだった。「難しい、難しい」と言いながらずいぶん一生懸命編んでいたのを良く覚えている。 今日の本棚:「HTMLタグ辞典」 アンク著、翔泳社 現在はIBMの「ホームページビルダー」を使ってページを作っている姫神でスが、それ以前はテキストに手書きでがしがしHTMLを書いてページを作っていました。その最初の1歩の時からお世話になっているHTML参考書がコレです。最近はあまり見ることもなかったのでスが、改めて読んでみてやっぱり良くできていると思いましタ。いまでもたまに必要になることがあるので、いつも傍らに置いていまス。 |
| 4th (tue.) |
バブーは交換してはいけない。 PSゲーム「アストロノーカ」3年目に突入したある日、ふと思い立って大王(1年目中盤)とマイバブーを交換をしたのが運の尽きだった。ゴメン、大王。知らなかったとはいえ、大変なことをしてしまった(汗)。健闘を祈るよ…。 |
| 2nd (sun.) |
「HP」は、昔からコンピューターに携わってきた人間や、少し詳しい人間にとっては「ヒューレッド・パッカード」社の略で、一般的には「ホームページ」の略語として認識されている、という話。 敬語や文法を含めた言葉の誤用や濫用については、たとえ誤った用法であっても一般の認識が多勢を占めるようになれば誤用とは言えないのだという説がある(説…というよりは事実なんだろうなぁ)。実際、言語が生きて変化していくものである以上、やむをえない変化というのは確かにあり、「ホームページ」や「HP」の用法もそうした現象の一環なのだろうと思う。だいたい、本来「ホームページ」という言葉も、厳密に言えばサイト(このサイトという言葉もどうも意味認識が妖しいが、言わんとしているところは判っていただけると思うので使わせてもらう)の先頭に立つ中心のページだけを指すのであって、サイト全体を指す言葉ではない。けれども、一般的な認識では既に「ホームページ」はサイト全体を指す言葉でもあるだろう。本屋のパソコンコーナーに並んでいる「ホームページの作り方」の本とて、トップページだけの作り方を1冊の本にしている訳ではないし、私が使用している作成ソフトも「ホームページビルダー」だ。もし、この「ホームページ」の誤用について責めるなら、使う側ではなく使わせている側に矛先を向ける方が相応しそうだ。 …という話を大王としていたところ、大王曰く「オレは「HP」といえば「ヒットポイント」の略だと思うけどな」と言われた。この勝負、大王の勝ち。 今日の本棚:「「勉強嫌い」に誰がしたのか」 西村和雄・和田秀樹著、PHP 「言いたいことはわかるが、そういう言い方ではダメだろう」という見本のような本でしタ。趣旨は間違っていないのに、手法が間違っているために、真意は伝わらないことの方が多いんじゃないだろうか。プロパガンダには戦略が必要不可欠だろうに…。 |
| 1st (sat.) |
今日は「ホモ」について。 ホモセクシュアルに対する略語としての「ホモ」という言葉について、「侮蔑的ニュアンスを含んでいると感じられるので、できれば使わないで欲しい」という要望があるのを、どのくらいの人が知っているだろうか。 私には何人ものホモセクシュアルの友人がいて、その中の誰一人としてそんな事を口にすることはなかったので、私はずっとそんなことを意識せずに暮らしてきていて、「ホモ」という言葉自体、抵抗もなく使ってきていた。「ホモ」が侮蔑的ニュアンスを含むから…という話を知ったのは、3年ほど前のことだ。 私が子供の頃から気になっていたのは、「ホモ」という言葉それ自体ではなくて、人によって「ホモ」の対語として認識されている言葉だ。ホモセクシュアルと同列に対になりうるのは、「ヘテロセクシュアル」とか、「バイセクシュアル」という言葉であるはずなのに、特に同人界でのことだが、「ホモ」の対語は、「ノーマル」とか「健全」だったりすることが多い。 これが不思議で奇異な印象があったのだった。確かに侮蔑的ニュアンスを感じるし、ココロを痛める人もいるだろう。「ノーマル」の対語は「アブノーマル」、「健全」の対語は「不健全」だ。だから、そういう対語の使い方をする人は、ホモセクシュアルを不健全で異常なものと思っているのだろうと感じざるを得ない。 現状、ホモセクシュアルが偏見の目で見られることも、好奇の的にされてしまうことも、仕方がないことだと私は思う。「同性愛者は社会的弱者」などと言われずにすむ世の中に早くなるといいと願うが、個人それぞれの心の内に潜む差別や偏見をすべて洗い出すことは難しいだろう。 私は、同人界は同性愛に対する偏見に満ちていると思う。その良し悪しを論じる気はないが、「ホモ」の対語に「ノーマル」だとか「健全」という言葉を使う人が「私はホモに偏見ないよ」と言っても信じられないことだけは事実だ。 そして、「ヤヲイ」が扱う同性愛カップリングが、現実からどこかが遊離したファンタジーの域を出ないことも承知している。ただ、それを自覚していない人にたまに出会うとオドロキを隠せないけれども。 今日の本棚:「国民の歴史」 西尾幹二著、扶桑社 さすがに厚かったので読破に3日近くかかりましタ。もともと歴史学が専攻だったので本の内容がいろんな意味でなじみやすかったせいか、ものすごく面白かったでス。学生時代の漠然としていた疑問もなんとなく解消されたし。もう一度大学で勉強しなおしたいなぁ、としみじみ思う1冊でしタ。 |