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小鳥〜version 2〜 presented by leida himemiwa
――― 彼の翼は、とても重そうだった。 波打ちぎわで、まるく削られた大理石の小石が踊っている。 褐灰色の砂利にまぎれて明るく輝きながら、真白の石は泡立つ海水に洗われ、足元をころころと透明な音をたてて転がっている。 踊るように波間に揺れるひとつを女神はそっとすくいあげてみた。 こんな風に海辺でみつかる大理石の欠片は、どこか古い遺跡の石が時に削がれて流れついたものかもしれないのだと昔、彼に聞いたことがある。 爪の先ほどの小さな欠片は、長い歳月に砥がれて柔らかくなめらかに光っていた。 そっと握りしめて、ワンピースのポケットにしまい込んだ。 振り返れば、遠くどこまでも続く海の青さも、果てのない空の澄んだ深さも、幼い頃にあの優しい声が語り聞かせてくれたとおりに、夢見たままに広がっている。 いつか彼と並んで、この海辺を歩くことができたらと、ずっと思っていた。 穏やかなまなざしの彼の人はもうこの世界のどこにも居なくて、いつのまにか子供ではなくなった自分だけが波音の合間をさまよっている。 空が眩しくて、前を向いて歩けない。 ただでさえ陽ざしの強い晴れた朝に、水面で躍る太陽の乱反射が目に痛い。 少し前を歩いていく背中は、白い輝きに溶けて、消えて行きそうな気がした。 とても大きな背中なのに、ひどく儚げに見えた。 「……待って、カノン…」 遠ざかる背中を追いかけるのも怖くなって、掠れた声でそっと呼んでみる。 もしかしたら二度と振り返ってはくれないかもしれないと、絶えず浮かび上がる不安を必死で胸の奥にしまいこむのはもう、何度目のことだろう。 名前を呼ばれてふりかえると、女神は悪夢から覚めたばかりのような表情をしていた。 額に翳した白い手の奥で、いまにも泣きだしそうに瞳が揺らいでいる。 「……どうかしましたか?」 こんな時に何を言えばいいのか、見当もつかない。 「……何を考えているの?」 責めるような口調は不安の裏返しなのかもしれない。思いもしない自分の強い声に、女神ははっとして口をつぐんだ。みつめ返してくるカノンのまなざしが、優しいのに胸に突き刺さって少し痛い。 9月の海岸は、穏やかな波の音だけが耳に心地よく響く。 波の向こうの透明な水の中を、すらりとした魚がふいに通りすぎてゆく。 カノンはいつもそう――― なにか過去の記憶に囚われているときのこの人は、すぐに手の届かない遠くに行ってしまいそうに見える。いつも側にいてくれると約束してくれたけれど、彼の寂しそうな後ろ姿を見ていると、その言葉さえ信じられなくなる。女神はその度に、言い知れない不安が心を蝕んでいくのを感じていた。 ―――ずっと一緒にいてね… もう幾度となく、同じ約束を繰り返してきたのに。 「……翼を…思い出していました…」 カノンはどうしていいか解らずに、正直に考えていたことを口にするしかなかった。 眩しすぎてどこまでも青の深い空は、いつもあの翼を思い出させた。 空を飛ぶための、力あふれる翼ではなくて、重く引き摺る鉛色の贋物。 それは、針で縫いつけたようにその背を傷つけ、鎖で括り付けたかのように身体から離れず、燦々と降りそそぐ陽光をただ虚しく鈍く反射する。 「…翼?」 「翼の…印象、と言った方が正確ですね……アイオロスの……」 「……ああ…」 ふと、女神の瞳がうつろになる。 「アイオロスの…羽根……」 聖域がまだ、女神の降誕を待つまどろみのなかにあったあの頃、いつからかアイオロスはほんとうに翼を持っているのだと噂が立ち始めた。いつか、その翼で彼は空へ行くのだと、誰もが信じて疑いもしなかった。彼こそが神々の祝福を享けた者なのだと、声高に称える者もいた。 あまつさえアイオロスが纏うこととなった射手座の聖衣を飾る黄金の大翼が、余計に人々の夢と希望を掻き立てたのかもしれない。その翼こそが聖域にとって、女神にとって来るべき勝利を約束する導であると、皆がこぞって誉めそやしていたのをカノンは忌まわしい苛立たしさとともに憶えている。 カノンにはその翼が重荷にしかみえなかった。 聖域の人々が、なかんずく彼に最も身近な者たちが彼の肩に負わせた、無用の飾りだとしか思えなかった。 アイオロスはカノンのそんな言葉を聞くと、いつも笑いながら「そんなことはないよ」と否定していたけれど、やがてアイオロスとサガが「聖域の守護天使」と呼ばれるに至っては、少し困ったように 「天使ほど、地上に無関心なつもりはないんだけどな」 そう言って、俯くようになった。 その寂しそうな横顔を十年以上も過ぎたいまでも、鮮やかに思い出す。 「兄でさえ、思い描いていたその翼……それが、ただ…私にはとても…」 宿主を喰らい尽くす寄生生物のように、その翼は彼の背で巨大に成長し、彼の生命の輝きを奪うようでカノンは心配というよりむしろ不快だった。人々に望まれたままのあり方を否定しないアイオロスにも、望みを負わせつづける聖域にも苛立ちを覚えた。彼自身にも、アイオロスの翼が見えていたことが、一層怒りに拍車をかけた。 「……とても、重そうに見えました…」 「それは罪悪感よ…」 女神は寂しそうに微笑みながら、1歩だけ、カノンに歩み寄った。 「……たぶん、それこそが……罪悪感だわ…」 ウミネコが1羽、波をかすめて通りすぎていった。 「女神…」 「だって……その羽根なら、私も見たもの。」 女神の声は、少し震えていた。 ――― 行かないで 叫んでも、どんなに泣いても届かなかった。 優しい声で自分を呼んだ、大きな翼の天使は、 もう、何処にもいない。 ――― 私をひとりにしないで 「あななたちは…みんな、残酷ね…」 その言葉の意味が、カノンには解らない。 「…特に、あのひとは……アイオロスはいちばん…酷いわ……」 真直ぐにカノンを見上げるアテナの瞳は、こらえきれない涙があふれそうだった。 強い風に、女神の長い髪がなびく。 カノンは何も答えることができなかった。 生まれたばかりの自分を抱えて、崩折れそうになりながら走っていた彼の息遣いをいまも憶えている。 伝わってくる鼓動は次第に弱く、荒くなり、生命の波動すら乱れていく。 自分に力がないのがもどかしかった。 なぜ人の赤子になど転生するのかと、自分の運命の愚かしさを呪った。 彼を救いたかった。 自分を護って傷ついた彼を護る力が欲しかった。 ――― 逝かないで どんなに叫んでも、泣いても彼の衰弱を止めることはできなかった。 刃を受けとめた手のひらから零れる血が、大地に落ちて流れることさえ、止められなかった。 ――― 私をひとりにしないで!! 女神がアイオロスのことを話題に選ぶのは、珍しいことではなかった。 冥界からの帰還以来、女神はよく彼女の生まれる前と、そして彼女がいなくなったあとの聖域の様子を聞きたがった。 カノンとてそれほど長く聖域にいた訳ではないが、彼女が知りたがるアイオロスのことを少なくとも女神よりは知っていた。望まれるまま、記憶している限りのことを、嘘や思い込みで誰かを傷つけることのないよう、細心の注意と死者たちへの敬意をこめながら、折々にカノンは語っていた。 女神は、サガとアイオロスのことをとりわけ知りたがった。 いつかカノンが何気なくその理由を聞いたとき、 「アイオロスは、ずっと私のそばにいたの。そして、いつもサガのことを心配していたの。」 その女神の言葉に、カノンは胸の奥のほうで何かが溶けていくのを感じていた。 その女神が―――あんなにも彼を慕っていたはずの女神が彼を責めるのが、カノンは意外で、返す言葉を失っていた。 答えあぐねて立ちつくすカノンに、女神は波音にまぎれそうな小さな声で言う。 「…あのひとは、運命さえ呪いもせずに、微笑みながら逝ってしまった…」 記憶を辿る女神の頬に、はらはらと涙が零れる。 「…そして……私に……悔やむことも、絶望することも許してくれない……」 あのひとに愛されていた私に、あのひとに救われた私には、挫折することも、嘆き悲しむことも、この歩みを留めることも許されないのだと、女神は震える声で呟く。 「私…アイオロスに命をもらったのだから…」 あのひとの笑顔を曇らせることがないように生きていきたい。あのひとを悲しませるすべてが、 自分さえもが許せない―――。 女神は、聖域を遠く離れて、その神性を暫く失っていたらしい。 聖域の記憶と、自分が女神アテナなのだという意識は、物心がつきはじめた頃から少しずつ取り戻され、祖父の死を境にはっきりとした形になったのだと、いつか女神本人が語るのをカノンは聞いた。 「射手座の聖衣が、きっかけだったと思うの」 祖父の死後、遺された品々の中にその聖衣の筐があり、傍らに天使がいたのだと、話していた時の女神は微笑んでいたはずだ。 「私、アイオロスが、大好きだった…」 その笑い方が、ひどくサガに似ている気がした。 聖域に帰りたいと、天使は寂しそうに呟いたことがあった。 そこにはとても愛しくて、とても心配な人がいるのだと、たった一度だけ告白してくれた。 「……いなくなってしまうの?」 この魂を、捕らえてはいられないのかと、女神は嘆いた。 どこへもいかないと、天使は誓った。 大人になるまでは、女神として目覚めるときまでは、と。 ならば女神になる日など来なければいい。 そう、心から祈っていたのに。 |
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