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daisy presented by leida himemiwa





みぞれ混じりの雨が、灰色の空から落ちてくる。

湖畔に並ぶカフェテリアはどこも冬に備えた店じまいを始めていて、道端に積み上げられたテーブルや椅子に雨糸が弾かれ、ばたばたとけたたましく、もの悲しい音を立てていた。

晩秋のギリシアの、それも山あいの小さな町を訪れようという観光客などそれほどあるはずもなく、ヤニナの街角はひっそりと静まりかえり、どこか寂れた印象すら与えずにはおかない。
冷たい雨は湖の水面を打ち、アスファルトを叩き、靄のように煙って、寒さで足早に歩く人々の足許に絡んだ。

アイオロスは、湖に張りだした赤い屋根のカフェでサガと二人、この不意の雨をしのいでいた。
窓際に頬杖をついて、湖に降る雨を硝子越しに飽きるでもなく黙って眺めている。大粒のしずくが灰色の水面に波紋を広げては吸い込まれてゆく。
空を映す湖は、いつもの鮮やかな青の色彩を失い、雲が空にうねるのをまねて波立っている。いついかなるときも空の鏡であることをやめない、小さなその湖をアイオロスはとても愛していた。


湖の名を、パンヴォティスという。
山々から豊かに水を恵まれ、懐に多彩な生態系を抱いて、古代人が「神話の時代」と呼んだ太古から人間の生命の営みを支えてきた。

時には移牧の民の憩いの水辺であり、時には旅する商人の楽しみとなり、長い歴史のうちには戦争の果てにその水面が血に染まることもあった。
かの神話叙事詩にこそ名を残すことはなかったが、民話と伝承に彩られ、精霊と妖精たちが棲む、多くの詩人や文学者に愛されてきた湖である。

そして湖はその青い水に、ギリシア民族の魂を抱いてもいた。
ニッシ島―――――アシの湿地に囲まれた、湖にただひとつ浮かぶ島は、この国の近代の始まりの聖地だった。王国独立の故郷として、いまも民族の「神話」の舞台でありつづけている。


湖を見る日には、よく思い出す。
まだ幼い頃、誇り高き愛国心と、民族を尊ぶ情熱と歴史を声高に語っていた教師、そう遠くない昔に民族の為に戦った村の老人たちの、まだ色褪せることのない思い出話。
尽きることなく物語られる、この国の苦難の道程―――――それは今も続いているのだろう。
アイオロスは、水煙に霞むその島の方をぼんやりと眺めながら、追憶に思いを巡らせていた。
いまごろは、今年最後の船が島の艀を離れる頃だ。
島はとうに夏の賑わいを失い、観光客を出迎えたその季節だけの仮住まいの人々も去って、僅かな住民と修道士たちだけが残され―――――そして静かに、静かに長い冬の眠りに就こうとしていた。



その小さな最終便の船影が、やがて二人のいる窓辺にも見えてくるだろう。今日の最後の船は、今年最後の船でもあり、一年の勤めをこれで終え、次の春まで北からの風に揺らぎながら艀で眠るのだ。

昨日一日を過ごしたその島に、明日からはもう渡ることができない。
昨日は聖フィリップの斎の最初の一日で、厳粛でありながらもあわただしく時間が過ぎてしまった。
到着早々、人手の足りない修道院の斎支度に駆りだされ、彼らは寛ぐどころか家族との再会を喜び合う間もなく、夕刻には町に帰る最終便の船に飛び乗ったのだった。


いそぐ旅ではなかったから、もう一日そこにいても良かったのかもしれない。



それでも、アイオロスはこのつかの間の帰郷に満足していた。遠い道程をこの国の歴史とともに歩みつづけた祖父母らが、その果てに迎えた穏やかな生活は、確かにいとおしく、そして美しいものだった。
たぶんそれだけを自分の目で確かめたかったのだ。
アイオロスは島に暮らす母と、祖父と祖母の平穏で暖かい、優しく閉ざされた冬の日々を思った。
安らかな、終の住処のその暮らしはアイオロスにとっては経験したことのない未知のぬくもりであるはずなのに、そこで見たものはすべてが何故かとても懐かしく思えてならなかった。
懐かしく、そしていつかそんな日々を送りたいと思う。願わくはサガと共に、愛したすべての人々と共に……。






テーブルには2客のワイングラスと白い発泡ワインのボトル、それに小さな銀の鍵がテーブルランプの蝋燭の炎に染まって、優しく光を放っている。
その向こう側で、サガはあまり仕立ての良くないペーパーバックに目を通していた。何かの論文集だろうか。読み耽るという様子でもなく、字面だけを目で追っているといった風でもなく、時折形の良い眉をひそめたりしながら、もう30分ほども味気ない装丁のその本を相手にしていた。

話しかけようとして少し躊躇っているうちに、サガの方が顔を上げた。
問いかけるようなアイオロスの視線を受け止めて、柔らかな微笑みを返す。

「……どうした?」
「……なんでもないよ。」
アイオロスは少し首を傾げて答えた。何かとてもサガと、それも沢山の話をしたいと思ったが、すぐには言葉が浮かんでこない。本当はこの長い年月の間にさえ、なにひとつ語り尽くしてなどいない筈なのに、サガの笑顔を目の前にすると、もう何も言わなくても良いのだという気持ちにもなる。
そのことが、アイオロスは寂しかった。
片時も離れずにいて、言葉など要らないと思う一方で、共に過ごす時を、空間を二人の声と言葉で埋め尽くしたいとも考える。
サガの低く、透明な声の響きをずっと、感じていたい。


「……本当はもう少し向こうに居たかったんじゃないのか…」
見透かしたようにサガが言う。額にかかる前髪をかきあげる指に、新しい銀の指輪が輝いていた。アイオロスの祖父が、予てからサガのためにと細工していたもので、古い伝承の三日月を象っていた。艶やかな黒髪に紛れて、闇に浮かぶように光を反射している。
「……止みそうにないな」
暗く濁った空を見上げて、サガは本を閉じた。
「……お前のその顔はね、甘いものでも食べたいってところか……」
たぶんアイオロスしか見たことのない、ひどく穏やかな微笑み方で、サガが尋ねる。
胸元や肩にさらさらと零れ落ちる長い髪を鬱陶しそうに片手で纏めながら身を乗りだすと、そっとアイオロスの唇にくちづけて、それからまた瞳を細めて笑った。
アイオロスは笑顔を返すのも忘れて、サガの一挙一動をじっと見つめていた。記憶の底に刻み込もうとしているかのように、あるいはずっと昔の思い出それと、現在を重ね合わせようとするかのように。

ほんの僅か口をつけただけで、長い時間放っておかれたままだったグラスの中のワインは、室温で温まってしまっていた。サガはそれをさらりと一息に飲んでしまうと、黙ったままのアイオロスにもグラスを差し出した。その仕種のひとつひとつが優雅で、満ち足りていて―――アイオロスは、ふと胸が熱くなった。






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ヤニナの城壁に囲まれた旧市街は、かつて難攻不落の要塞でもあった。
石壁の内側へ通じるたった3ヶ所のアーチのひとつは、新市街の幹線道路に向かい合っている。高い、暗いその石積に沿って、黒いケープに身を包んだ老女が歩いて行く。丸く小さな背中は、静かな日常を抱え守っているように見えた。

雨が上がったばかりの湿った空気の中を、冷水のような微風が頬をかすめていった。

アイオロスは老女の後ろ姿を黙って見送っていた。すれ違っただけの見知らぬその婦人が城壁のアーチの向こう側へ吸い込まれて行くのを見届けずにはいられなかった。
大気は長い雨に洗われて、澄んだ水の匂いがする。
そっと目を閉じて、深く息を吸った。何か聖らかなものが自分を、世界を祝福しているように感じられてならなかった。穏やかな静寂は心地よい痛みとなって風とともに胸に満ちてくる。


「……明日、午前6時にターミナルを出るそうだ…」
公衆電話のボックスからサガが出てきて声をかけた。
「それじゃあ、……今日しかここにいられないの?」
「…そういうことになるな。」
肩をすくめて微笑ってみせるサガのまなざしは、多彩な感情に満ちて、黄昏の薄闇に美しく映えた。
アイオロスは憧れをこめてその人の豊かな表情を双眸に捕らえていた。
いつも、そのまなざしに言葉を失ってしまう。慈しみと、深い愛と―――その底に僅かに見え隠れする昏い悲しみが伝わって、何も言えなくなる。


サガはその視線の意味に気づいて、そっとアイオロスの肩を抱き寄せた。幾分の照れ臭さもあるのか、いつもの癖で前髪を右手で梳きあげながら、
「私のことはいいから……」
そんなに見つめられると緊張するから、と冗談めかして言い、歩きはじめる。
アイオロスの俯いた横顔には満ち足りた微笑が浮かんでいた。サガの手が、とても温かい。

おそらく冗談などではなく、彼のまなざしに耐えられる者など多くはないのだろうと、サガは並んで歩くアイオロスの横顔にふと思う。
いかな罪人に対しても、責めるでもなく向けられるただ見つめてくるその透明な深さに、多くの者は己の忌まわしさを映して戦慄くしかない。

その瞳が慈しみに満ちてあたたかな時でさえ、自らを穢れたものと断罪させずにはおかない、神聖のまなざし―――そのアイオロスの瞳は、時にサガをすら苦しめる。

人間は、聖なるものが自分達を侮蔑の思いで見つめるのだと信じることで、自らが存在することの不正に耐えている。
己の罪悪を知る者も、知らされた者も、あるいは神、あるいは天使と呼ばれる「聖なる」存在の前に自己を恥じ、その清らかさを畏れ、そしてその神聖を憎悪すらする。
赦しを求める祈りを叫びながら、聖なるものを天の高みに追いやらずにはいられない―――そのような存在が共に地上に在ることに、人間は耐えることができない。



壁に穿たれた聖母子のための小さな祠の前で、アイオロスが足を止めた。
細い蝋燭が幾重にも取り囲み、炎が群れて明るい花のように眩しく暖かくゆらめきながら、そっと屈みこんだアイオロスの顔を照らしだす。

アイオロスは小さく十字を切ると、聖母子のイコンに祈りの言葉を短く囁いた。古びて煤けたイコンに描かれた神の子とその母は、供え物のばらの花と炎に埋もれながらやさしく彼を見つめていた。
アイオロスは、ふと先刻の老婦人の丸い、小さな背中を思い出した。



―――聖なるかな…
アイオロスの様子を後ろで見守るサガの脳裡を、ふいに降誕祭のコーラスがよぎる。
遠くから微かに鐘の音が響くような、黄金の雲に覆われた天の大軍が高い空の彼方に垣間みえたような、一瞬の幻影―――
濡れたアスファルトの上を次々と車が通り過ぎて行く。
城壁に沿ってはしる幹線道路は往来が激しく、時折大型車両の列が続くと足元ががたがたと震えた。不快な光景だったが、こうして美しくも神聖な世界と確かに共存している。
この地上で、手に届くほどの間近で。

アイオロスが立ちあがる間際、サガはそっと胸元に十字を切った。祈りの言葉は思い浮かばなかったが神の摂理に敬意を表したいと―――愛しいものの後ろ姿に感じていた。

「…サガ」
アイオロスが、サガの手をとる。
「もし良かったら……アクロポリスに登りたいんだけど…」
日はとうに沈んでいた。あかりらしい明りもない城壁の内側へ、何をしに行こうというのか。
湖を擁する地形の常で、夜の霧が、雨の湿気のせいでいつもよりずっと濃く、重くのしかかるように辺りを包み始めていた。視界はほんの数メートルで遮られ、街灯はぼんやりと霞んだ、滲む光の輪になっていく。

家路を急いで往来する人影も、やがて霧の向こうに消えて行った。

「…サガ…」
答える代わりにサガは歩きだした。
アイオロスの熱い手をしっかりと握って、少し足早に。
静かに冬の夜が更けてゆく。
空は晴れて月光と星の瞬きに満ち、地上は輝く霧に覆い隠され、町の就く眠りは永遠に醒めないのかもしれない。これは町が見る夢なのかもしれないと思うほどにあたりは静かで人通りも車の流れも途絶えたアスファルトに二人の足音だけが響く。





ヤニナは霧の美しい町だとアイオロスがよく言っていた。
アクロポリスに続く門をくぐり、丘を登り詰めたところで、サガはそのことを思い出した。水の循環がつくりだす、それはひとつの奇跡なのだろう。崩れた教会跡の瓦礫に足を踏み入れ、サガはその風景を前に、なにもかもに諦めがついたような、抵抗できない感覚に眩暈さえ覚えた。


丘を這いあがる霧の波が、澄んだ夜の冷気に向かって泡だつようなうねりを立ちのぼらせてゆく。
憧れるように空に向かって白い輝く指先を伸ばしてはまた、自らの重みに耐え兼ねて沈む。
細かな水の粒子は月光をそのひとつぶにごとに宿して乱反射し、二層の空気の境をきらきらと彷徨っている。

霧の波は次第に高くなり、やがて二人の頭上を被いはじめる。サガは、アイオロスの視線を辿って月を見上げた。
霧を通して踊るように瞬く星と、青白い半円の月―――虹のような光の輪のなかに輝いている。

2本の松が青く細い影になって、冬を―――あるいは死を番する守人のように佇んでいる。二人は無言のままその横を過ぎ、廃墟の崩れた石壁の瓦礫の上に腰をおろした。
「……朝の霧もね、とてもきれいなんだよ…」
サガの腕に抱き取られるまま身体を寄せてアイオロスはそう呟く。
「……夜明け前に……バスに乗るんじゃ、見れないね……残念だな…」
アイオロスの言葉が終わる前に、遠くからたった一度、鐘の音が響いてきた。
晩堂課を告げる島の修道院の鐘だろう。一日の勤めの終りを報せる低くこだまするその音は、町の静寂のせいか、ひどく近くに響いていた。






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1959年、聖アンドレイの祝日に、アイオロスはドドニ村の片隅にある小さな家で産声をあげた。

晴れ渡った青い空から山の斜面を翔けおりる風が朝霧を吹き払う頃、ちょうど、リトルギアの始まりを告げる教会の鐘が村中に響き、まるで彼の誕生を言祝ぐようであったと、祖父母から聞いたことがある。

その生家に、この日―――彼の誕生日その日の朝、アイオロスは初めてサガを招き入れた。

人が住まなくなってもう随分経つはずだったが、石積の垣根のなかは暖かく懐かしい空気に包まれていた。
銀の鍵が確かな手応えで扉の封印を解き、二人の前には古びた部屋が、主の帰りを待ち侘びていた。


アイオロスの家族がアテネに移り住んでからは、ここはアイオロスが聖地ドードーナに滞在するときの宿として使われるだけだった。最後にここを訪れたのはいつだったかアイオロス自身ももう、覚えてはいない。
「……掃除、しておいてくれたみたいだね」
滞在の予定は母に知らせてあった。
おそらくは近隣の村人も手伝ってくれたに違いない。
あの頃、いつもここで彼を出迎え、再会を喜んでくれた人々はいまも元気にしているのだろうか。あとで教会にでもお礼に行かなければいけないねと、もうテーブルで寛いでいるサガに話しながら、出窓のカーテンを引いて、アイオロスはにっこりと笑った。

「やっぱりね…」
青いガラスのコップに、茎の細い2本のデイジーが挿してあった。自分の好きな花を覚えて、飾っていってくれた母の心づくしが、嬉しかった。

秋の最後の名残の白い花びらが、尋ねるように僅かな風に揺れた。


「……お茶を淹れようか。」
手荷物の中から紅茶の木箱を取り出して、アイオロスは台所に立った。その後ろ姿をぼんやりと眺めながら、サガはやがてこまごまとした室内調度のひとつひとつを目に留めはじめた。
天井をわたるオークの太い梁や、漆喰の所々剥げ落ちた白い壁、あちこちに掛かる色褪せた写真やイコンの数々……


サガは立ちあがって隣室の扉を開いた。
そこは寝室で、古い素朴なオークのベッドがぽつんとひとつあるきりだった。
大きな窓から降り注ぐ朝日に黄金色に輝いて、確かにアイオロスがここで生まれたのだと証しているようにサガには感じられた。
その祝祭にふさわしい幸福で、空間は満たされていた。
場所そのものが愛していた思い出を守ろうとするように、時間を止めていたかのように―――柔らかな黄金色の光を浴びて笑う、生まれたばかりの子供を見た―――それは一瞬の白昼夢だったのだろうか。


「……どうしたの?」
あふれる陽光に染められて佇むサガの姿に、アイオロスはそっと息を飲んだ。
振り返ったサガも、同じことを感じたのだろう―――存在するということは、それだけで充分に神聖な、奇跡なのだ。

「……お茶、はいったよ。」
「………ああ…」
アイオロスの笑顔は、いつにも増して穏やかだった。





差し出された紅茶の暖かな香りは澄んでいて、華やかに部屋に広がっていった。しばらくして何かを思い出したのか、アイオロスは急に顔を上げて、サガの瞳を覗きこんできた。
「……ちがう…」
アイオロスはサガにいきなりそんなことを呟いた。
「……?……」
白いティーカップのふちに唇をつけたまま、サガはアイオロスを見ていた。
「……初めてじゃないよ、…サガが……ここにいるの…」
「いいや…初めてのはずだが……」
アイオロスが微笑んで首を振る。
「忘れてた……いたよ、絶対………私が生まれたときに!」
それはあり得ないことではなかったけれども、そんなに大切なことを二人ともが忘れていたというのだろうか―――そんな幼すぎるほどの頃のことを記憶しているはずもなかったが、いつか誰かが教えてくれたことは無かったのだろうか。

アイオロスに連れられて、聖アンドレイのイコンが置かれた、部屋の隅の古いチェストの抽斗を確かめる。
1番上の抽斗の、黄ばんだ書類や昔の手紙の山の奥から、それは出てきた。

「……ほら。」
夕暮れ時のようなセピア色に変色した小さな一枚の写真。
母親と、その腕に抱かれた生まれたばかりの赤子を守るように取囲む人々の笑顔のひとつひとつが、誰なのかも判らないほど遠くから撮った、その光景の中にいるのは―――
「……母さんの隣の…司祭さまの手前で、椅子に座ってる……ほら、このひと…サガのお母さんで……二人…赤ちゃん抱いてる……これ、サガと、カノンだよ…」

幸福という言葉の意味を、その写真は語っていた。
不穏な時代に翻弄されながら、決して豊かではなかったこの村の暮らしの中で―――あの寝室で、サガは彼を見ていたのだ。暖かな、冬の朝日が降り注ぐなかで。






サガ自身、気づかないまま流した一筋の涙を、アイオロスの手が優しく拭った。顔をあげるサガに、アイオロスは掠れたような声で、そっと微笑いながら、
「生まれたときから………サガは私を、見ていてくれたんだね…」
きっと、私もサガのことだけを見ていた―――そう言って、サガを抱きしめた。





求めたものは何ひとつ与えられなかったが
願いはすべて、かなえられた―――


何処で憶えた聖句だったかは、もう忘れてしまった。
ただ、心の底に遠くから響いてくる。


サガはまだ、アイオロスに「おめでとう」とは言えずにいた。幾度となく迎えたこの日―――彼の誕生日に、その言葉はどうしても相応しいと思うことができず、一度も口にしていない。
たった一言では言い尽くせない、その思いがいつも、言葉を失わせて何も言えない。


「……教えてくれ……アイオロス………」
腕の中でアイオロスはじっとサガの言葉に耳を傾ける。

私は、誰にこのことを―――どう感謝すればいいのだろう……?

抑えきれない喜びを、どこか外に逃がしてしまわなければ、身体が砕けそうになる。
サガは、その想いが喜びであることにすら気づくことができない―――こんな気持ちを、自分は知らない……。

ここに、こうして共に在ることを、誰が私に許したのだろう―――。





私は、何故赦されているのだろう……?




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