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国体の意味と用例、その歴史

owl 国体   
   国体とは、日本の伝統的特殊性・優越性を論拠なしに主張するときに用いる概念で、天皇を長とした国家体制や国民の倫理・規範を示すもの。
   国体が、こうした意味で用いられるようになったのは江戸時代で、儒家、神道家、国学者などが、日本人の民族的な誇りを鼓吹するために使った。神国(神が基を築き、神が守る国)思想に儒教的な忠孝思想をまぶした概念といえる。
   明治以降、ヨーロッパから自然法思想(例えば天賦人権説)を基にした自由民権運動が展開されると、政府はそれに対抗するためヨーロッパの反動思想である国家有機体説を流用して、神国思想を受け継いで"家族国家観"を構築した。日本は、「神勅」(天照大神が孫のニニギノミコトをわが国に降ろす時に授けた言葉)による天皇の統治が「万古不易」の(変わらなく永遠に続く)、「万邦無比」の(世界に例のない)体制としてとらえられ、日本民族は天皇家の延長と考えられた。
   神島二郎は、−−日本の近代化は、初めは和魂洋才的な前近代的精神要素の上に推進させられたが、近代化の進行は、このような前近代的な制度慣習を腐食したから、これを補うために国体思想の鼓吹が必要であり、ますます狂熱的権力的にならざるを得なかった−−という。
   国体思想は、1890年の「教育勅語」に組み込まれ、国定教科書などを通じて国民に植え付けられた。「国体護持」の名の下に社会主義・共産主義思想、さらには自由主義思想が弾圧された。国体思想は、つまるところ天皇制国家の維持・強化の中心イデオロギーであった。

天皇機関説排撃の動きと国体明徴(めいちょう)運動
・ 1932年(昭和七)5月15日、一部の陸海軍の青年将校が、犬養毅(いぬかい・つよし)首相を襲って暗殺した「五・一五事件」がおこった。犬養政友会内閣の後、斎藤実(まこと)、岡田啓介と軍部出身の内閣が続き、政治は政党から離れた。
・ 1935年(昭和十)2月19日、第67議会貴族院本会議で、在郷軍人議員菊池武夫は、美濃部達吉貴族院議員(学士院代表・東京帝国大学名誉教授)の「天皇機関説」を「反逆的思想」と攻撃し、美濃部を「謀反人」「学匪(がくひ)」と罵倒した。
・ 2月25日、美濃部は「一身上の弁明」ということで、貴族院でその学説を平明に説明した。貴族院では、この演説に拍手が起こり、新聞はこれを詳しく伝えたが、議会の外では、在郷軍人会や右翼団体が騒ぎ始めた。
  政友会は、軍部の機関説排撃の動きに乗じて、機関説論者の枢密院議長一木貴徳郎、法制局長官金森徳次郎の失脚から岡田啓介内閣打倒を図った。
   2月28日、衆議院の江藤源九郎が美濃部を「不敬罪」で告発する。
   3月1日、貴族院の菊池や井田磐楠(いわくす)が貴衆両院有志懇談会をつくり、機関説排撃を決議する。
   3月5日、政友会有志代議士が、機関説排撃を決議する。
   3月8日、頭山満・岩田愛之助ら右翼が機関紙撲滅同盟をつくる。
   3月16日、在郷軍人会が機関説排撃声明を発表する。陸軍は、参謀本部が中心となり、「わが国体観念と容れざる学説はその存在を許すべからず」と声明する。
   3月20日、24日、貴衆両院は、機関説排撃を決議する。
・ 政府は、軍部大臣の要求に押されて、議会終了後美濃部を取り調べ、憲法関係の本を発禁処分とし、文部省は、「国体明徴訓令」を発した。
   政府は、8月3日、10月15日の2回にわたり、「国体明徴声明」を発し、統治権の主体が天皇に存すること、を明示した。
・ 美濃部は著書を発禁にされ、検事局の取り調べを受けた。不起訴処分になったが、貴族院議員を辞職した。
   12月、機関説論者の法制局長官金森徳次郎が辞職した。
・ 1937年(昭和十二)5月、文部省は『国体の本義』を発行し、「今日我が国民の思想の相克、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによってのみ解決せらる」(緒言)ことを狙った。
 大内力は、天皇機関説事件を契機とした国体明徴運動によって−−「国体」は触れることのできないタブーとなり、ひいては日本の社会について論じ、まともに研究することができなくなった。それは国民を戦争に引きづり込んでいくために欠くことのできない地ならしだった−−と指摘する。
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天皇機関説
   以下の美濃部達吉の弁明にもあるように、「天皇機関説」とは、統治権は国家自体にあり、天皇は国家の最高機関として、統治権を行使するに過ぎない。天皇の行為も憲法や法律に従って行うものである−−という説である。
「・・・(日本の憲法の)最も重要な基本主義は、日本の国体を基礎とした君主主権主義である、之に西洋の文明から伝はった立憲主義の要素を加へたのが日本の憲法の主要な原則である・・・我々は統治の権利主体は、国体としての国家であると観念いたしまして、天皇は国の元首として、言換えれば国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬した給ひ、国家の一切の活動は立法も行政も司法も総て、天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身を一つの生命あり、その自身に目的を有する恒久的の国体、即ち法律上の言葉を以て申せば一つの法人と観念いたしまして、天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在(まし)まし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ、天皇が国法に従って行はせられます行為が、即ち国家の行為たる効力を生じると云ふことを言ひ現すものであります」(美濃部達吉の貴族院での弁明)
   国家法人説
国体明徴声明
(8月3日)
「恭しく惟(おもん)みるに我国体は天孫降臨し賜へる御神勅により昭示せられるところにして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、・・・。・・・もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使するための機関なりとなすが如きは、これ全く万世無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るものなり。・・・政府は愈々(いよいよ)国体の明徴に力を効し、其の精華を発揚せんことを期す。・・・」
(10月15日)
「・・・然るに漫りに外国の事例学説を援(ひ)いて我国体に悖(もと)り其本義を愆るの甚だしきものにして、厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず、政教其他百般の事項総て万邦無比なる我国体の本義を基とし其真髄を顕揚するを要す、・・・」芟除=刈り除く。悖り=そむく。
国体の本義
  国民精神文化研究所研究員を中心とした委員、調査嘱託により執筆され、1937年(昭和十二)5月に発行された。A5判156ページ、定価35銭。初版20万部、最終的に300万部近くが発行されたと予想されている。全国の学校、教員、教育・教化施設に配布、市販。中等学校では副読本として用いられた。
   昭和十一年度予算に「国体ノ本義ニ関スル書冊編纂」費計上。
 吉田熊次(国民精神文化研究所研究部長・教育学)、紀平正美(同研究所員・哲学)、和辻哲郎(東大教授・倫理学)、井上孚麿(さねまろ)(国民精神文化研究所研究員・法律学)、黒板勝美(東大名誉教授・国史学)、久松潜一(東大教授・国文学)、山田孝雄(よしお)(国文学)などが編集委員として依嘱あるいは命じられた。師範学校、中学校、小学校の教員の意見も聞き、草案要綱作成後、36年7月ごろ、委員会で各委員の意見を求めた(誰が主導したのかは、手元資料では不明−蛇口)。改稿は、調査嘱託の志田延義(国民精神文化研究所研究員・経済学)で、文部省の伊東延吉思想局長、小川義章調査課長(哲学)が修正加筆したといわれる。
  「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克(よ)忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、わが国永遠不変の大本であり、国史を貫いてとして輝いている。炳として輝いてウィる。而してそれは、国家の発展と共に弥々(いよいよ)鞏(かた)く、天壌と共に窮まるところがない。我等は先づ我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いてウィるかを知らねばならぬ。」(冒頭)『太平洋戦争と歴史学』(阿部猛著、吉川弘文館)、『昭和教育史  上』(久保義三著、三一書房)を介する孫引き
国民精神文化研究所
   文部省は、学生青年の左傾化の一因に、国体観念に関する研究の不徹底があるとして、1932年(昭和七)8月、「肇国(ちょうこく)ノ精神ニ則リ皇国日新ノ原則ヲ究明」する国民精神文化研究所を設置する。研究部のほかに、事業部があり、教員研究科(師範学校その他の中等学校教員を思想再教育した)、研究指導科(思想的理由で学籍を失った高等教育機関の学生・生徒を転向させるために、1年以内の個人指導を行った)があった。多数の機関誌、文献が発行された。

治安維持法
   1925年(大正十四)4月22日に公布された治安維持法は、1928年(昭和三)6月25日に以下のように、「十年以下ノ懲役又ハ禁錮」から「死刑」を含む刑罰に改正された。
「第一条 国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者、又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ、..」