2000年3月22日、自民、民主の両国対委員長は、「党首討論」の運営方法について、a.党首討論と本会議出席は、重複にこだわらず弾力的に運用する。b.党首討論と委員会の首相出席については、前週末に自民、民主の間で調整する。c.今国会終了後、予算委員会のあり方を含めて、再協議する−−と合意した。与党と民主党は1月、本会議、予算委員会、重要案件を審議する委員会に、首相が出席する週は、党首討論を開催しない、と申し合わせていた。
・自由党が野党に転じたため、4月19日の党首討論では、野党の持ち時間は、民主24分、共産8分、自由4分、社民4分に配分された。小沢一郎党首は、まともな議論をできないと訴えたことから、民主党は自由党に4分間貸し、その次の党首討論で4分間返すことにした。
2001年1月から各省庁に副大臣が新設される。各副大臣で構成される副大臣会議について、国会活性化法では「政策などに関する相互の調整のため、開くことができる」と規定しているだけで、位置づけが定まっていない。2000年の国会では、副大臣制度を先取りして、国会答弁は、大臣と政務次官が対応するようにしたが、局長が答弁に立つことが多いという。ある政務次官は、「また『盲腸』と揶揄されないようきちんと議論しなければならない」といっている。
政務官 副大臣と共に各省庁に新設される政務官は、国会活性化法で「大臣を助け、特定の政策、企画に参画し、政務を担当する」と規定され、閣僚から指示を受けた特定課題を担当し、政策づくりに参画するポストとして構想され、若手衆院議員が政策実務を学ぶ場としても期待されていた。しかし、政務官の役割は、「省庁側の国会対策担当者、国会との連絡調整」「野党側委員からの質問取りや根回し」になりそうだ。
首相の知恵袋として、予算編成や経済運営の基本方針を決める場として、当初は、「米ホワイトハウスの経済諮問委員会」のようなものを想定し、学者が議長となり、各界各層から委員を登用し、実質的な議論をする場であった。ところが、法律で民間人は4人以上とされた(議長は首相、政府側として財務相、経済産業相、総務相、官房長官、経済財政政策担当相、日銀総裁の6人)ため、閣僚会議化した。 さらに事務局には大蔵省出身者が多数入る。
12月19日、民間メンバーとして、岩田一政東大教授(54歳、経企庁出身)=内閣府統括官(事務局)、吉川洋東大教授(49歳)。財界から牛尾治朗ウシオ電機会長、奥田碩トヨタ自動車会長に決定した。
自民党への合流を狙っていた小沢一郎自由党党首は、連立政権樹立に際し、定数削減を“離脱カード”にしたてた。公明党は、比例代表の削減に反対し、中選挙区を提案してきた。自民党は、削減幅を縮小することで、公明党をもつなぎ止めた。中選挙区論者が混在する自民党だが、この機を利用し、これまでの選挙制度改革の議論を全く無視し、衆院の比例定数と小選挙区定数の比率を変更する方向へ巧みに誘導していった。議員と不採算企業の社員とは比較できないのに「民間はリストラしているのに」と感情に訴え、躍起になって通過を狙った。
経過
1998年11月18日、小渕恵三首相(自民党総裁)、小沢一郎自由党党首、自自連立を目指すことを合意。自由党は「衆参両院とも、当面議員定数を50ずつ削減(計100削減)することを目標として、両党間協議を行い、次の通常国会で、公選法改正を行う」と提案。
1998年12月18日、自自幹事長会談で、定数削減などで協議機関を設置することで合意。
1999年1月10日、公明党神崎武法代表が、衆院比例定数50削減に反対を表明。
1月12日、自自両党が、衆院比例定数50削減法案を通常国会で成立を期すことで合意。
5月13日、自自公が、衆院選挙制度改革を与野党で話し合う協議機関の設置で合意。
8月11日、衆院政治倫理・公職選挙法改正特別委で、衆院比例定数50削減法案の審議を開始。
8月13日、自自公が法案継続審議で合意。小渕・小沢会談で定数削減問題は、公明党を加えた3党で協議し、次期国会冒頭で処理することを確認。
10月4日、小渕、小沢、神崎が3党連立を合意。衆院比例代表20削減を次期臨時国会の冒頭で処理し、残る30は小選挙区を中心に法改正することを確認。
12月14日、衆院特別委で、与党20削減法案を強行可決。自由党は、会期内に成立が見込めないことに抗議し、採決時に退席。
12月15日、臨時国会閉幕。法案は事実上廃案に。自自両党は「国会閉会中も審査を行い、通常国会冒頭で可決し、成立を期する」との合意文書を交わし、小沢氏は連立にとどまる。
2000年1月13日、与党3党国会対策委員長、民主党に通常国会開会前に法案を審議するよう要請。民主党拒否。
1月17日、伊藤宗一郎衆院議長、斡旋案提示。
1月20日、通常国会開会。民主、共産、社民の野党3党、冒頭処理反対を確認。
2000年1月26日、 衆院の比例定数を20削減する公職選挙法改正案が、自自公の与党議員のみが出席した衆院政治倫理・公職選挙法改正特別委員会で可決、翌27日、本会議で可決された。
2月2日、衆院比例代表の定数を200から180に削減する公選法改正案は、参院本会議で、委員会審議を省略した中間報告がなされ、自民、自由、公明などの賛成で可決、成立した。与党3党以外に「参議院の会」の松岡、椎名氏、二院クラブ・自由連合の西川、石井氏、無所属の菅野氏が出席した。
2000年5月9日、改正公職選挙法が、自民、公明、保守の与党3党と民主・自由などの賛成により、成立した。6月の総選挙から(一部は即日)適用される。
・共産・社民両党は、「補欠選挙の統一は、国民の参政権を狭める」「比例代表は政党に投票するもので、小選挙区で得票が多かろうが少なかろうが関係ない」として反対した。
・比例代表選出議員が辞職して、小選挙区補選に立候補する"鞍替え出馬"禁止が、盛り込まれなかった。同じ議員なのに小選挙区選出議員の方が比例代表選出議員より格上、という並列制の矛盾は、解消されていない。
・5月11日、自民党の馳浩(石川選挙区)、塩崎恭久(愛媛選挙区)、平田耕一(三重選挙区)の参院議員3人が、衆院選に鞍替え出馬するため、議員を辞職した。異例の辞職ラッシュとなったのは、6月総選挙と参院補欠選挙を同日選に持ち込むため、補選を年二回とする公選法改正が適用される17日までに、辞職手続きを終えておく必要があったからだ。参院の独自性を否定する行為として批判されている。
@比例代表選出議員の政党間の移動禁止−−衆参両院の比例代表選出議員が他党に移籍した場合は、失職する。無所属になることは可能。選挙後に発足した新党に加わること、自らが新党を設立することは可能。所属する政党が解散して既存の党に合流した場合既存の党に所属すること、所属政党が解党した結果できた一つの政党に所属すること、その政党が既存の政党に合併した場合既存の党に所属することは可能。
96年の総選挙で、新進党から当選した米田建三氏(比例南関東ブロック)が選挙直後に離党、その後自民党入りした。選挙では過半数割れをしていた自民党は、新進党から次々議員を引き抜き、衆院で過半数を回復した。この中に比例代表議員が3人含まれていた。有権者無視と指摘されていた。
A比例復活当選の制限−−衆院小選挙区の重複立候補者が有効投票総数の10分の1未満で落選した場合は、比例代表での復活当選は認められない。
比例復活当選の制限の衆院小選挙区の「有効投票総数の10分の1に満たない場合」とは、供託金没収と同じである。仮に、前回総選挙とその後の繰り上げ当選を含めて考えると、社民党の3名が該当する。比例を軸に議席確保を狙う少数政党ほど、影響を受ける。
B補選の期日統一−−衆参両院の選挙区の補欠選挙を年2回に統一する。9月16日から翌年3月15日までに補選の必要が生じた場合は4月第4日曜日、3月16日から同年9月15日までは、10月第4日曜日。投票率のアップが狙い。
C補選への出馬制限−−自治体首長選への出馬など、自らの辞職が原因で行われる衆院小選挙区補選への再出馬を禁止する。
D拡声器使用制限−−選挙期間中、書籍などの宣伝を目的とした自動車・拡声器の使用を禁止する。書籍の宣伝を行っていた共産党への制限である。
E手話通訳者への報酬−−手話通訳者を選挙運動員と認めて報酬を支払うことができる。
参院の比例代表選に非拘束名簿式を導入する公職選挙法改正案が、2000年10月13日、与党自公保などのみの出席により、参院選挙制度特別委員会で可決された。斎藤十朗参院議長は、議長斡旋に失敗し、辞任に追い込まれた。10月26日、衆院本会議で可決、成立した。審議入りから21日目、実質審議は衆参両院合わせて7日間という、選挙制度改革としては、終戦直後を除いて例を見ないスピード成立となった。2001年夏の参院選から適用される。
賛成274(自公保と「21世紀クラブ」と無所属3氏),反対190。同時に3選挙区で定数を各4から2に、比例代表定数を100から96に、計252から242に削減した。
非拘束名簿式導入は、7月、久世公尭金融再生委員長が、参院比例選での自民党名簿搭載順位を上げてもらうための党費建て替え資金として、マンション業界の「大京」から資金提供を受けていたことが発覚し、辞任に追い込まれた。自民党は、急遽、自民党内の順位競争を避けられ、候補者の人気を当てにできる制度として、導入を図ったもの。党名投票では伸びが望めない公明党と、扇党首の知名度を当てにした保守党の両与党も賛成した。
この場合の「非拘束名簿式」とは−−政党が順位を着けずに提出した候補者名簿から一人を選ぶ「候補者名投票」か、政党名を投票する「政党名投票」かをする。候補者名と政党名を合算した得票数に基づき、ドント式で各党に議席を配分した後、当選者は各党候補者から得票の多い順に決定する。
・2000年3月4日、衆院300小選挙区の中で、人口が最も多い選挙区(神奈川7区59万2937人)と最も少ない選挙区(島根3区23万8448人)の「一票の格差」が2.49倍(1998年度2.45倍)となり、格差が2倍を超す選挙区は89選挙区(同83選挙区)であった。政府の衆院議員選挙区画定審議会は、10月に区割りの見直しを行うが、県の選挙区数は「5増5減」と予想される。比例代表ブロックの定数は1増1減。
・2000年9月6日、1998年7月の参院選挙区選挙で、1票の格差が最大4.98倍になったのは、違憲かどうか争われた訴訟で、最高裁判所大法廷は、合憲と判断した。15裁判官のうち5人は、違憲の意見を述べた。
2000年4月14日の閣議で、森喜朗首相は、青木官房長官ら5閣僚を順をつけて臨時代理に指定した。臨時代理は、内閣法9条に基づき、首相に事故あるとき、あるいは欠けたときに、予め指定した国務大臣がなるもの。新たな法改正は行わなかった。
・内閣法9条による首相の臨時代理の事前指定制度があったが、これまでは外遊時を除き、適用してこなかった。小渕恵三首相の緊急入院から青木官房長官の臨時代理就任までの経緯に疑義が生じたことを受けて、予め指定し、公表したもの。
・政府は、筆頭代理を内閣ごとに変えると、事実上の「副総理」となり、「後継指名」の意味合いが強まり、政争の火種になるというので、緊急的実務的なポストであることを示すために、官房長官というポストに固定することにした。官房長官は、首相の補佐役として一心同体の関係にあること、首相の外遊中に臨時代理に指定されることが多かったため、異論がない。また、官房長官が欠けた場合に備えて、内閣ごとに閣僚ポストや個人の経験などを加味して、代理に就任する閣僚順位を決定することとした。今回の指定は@青木長官、A河野洋平外相、B中山正暉建設相、C深谷隆司通産相、D瓦力防衛庁長官の順。
・米国大統領は、死亡した場合、副大統領が自動的に大統領になる。職務不可能な場合、副大統領(以下、下院議長、上院議長代行、国務長官...)が代理となる。フランスでは、大統領が欠けた場合、一定の障害がある場合、元老院議長(ただし、国民議会解散と人民投票付託権限は行使できない)。ドイツでは、首相の職務遂行に全般的事故を生ずるとき、予め臨時代理に指定された大臣がなる。これは慣例的に連立政権の与党第二党の党首が就任する副首相で、事前に指定、公表されている。
民主党の山本譲司衆院議員は、実際には仕事をしていない政策秘書の給与を私的に流用した疑いをもたれ、2000年9月1日、東京地検から詐欺容疑で事情聴取を受けた。
9月25日の毎日新聞の調査では、衆参国会議員計732人(欠員1)のうち少なくとも127人が、妻や子など身内を公設秘書(政策、第一、第二)としていた。政策秘書14人、第一秘書90人、第二秘書35人。続柄では子63人、妻43人、その他兄弟19人、親2人など。
政策秘書制度の創設が決まった1993年4月の衆院議院運営委員会で、秘書の給与が議員の収入と一体化することを懸念し、近親者を公設秘書とすることについて自粛の申し合わせが行われているが、多くの政治家が公設秘書の給与を"ピンハネ"していると言われている。給与は、月額第一秘書で43〜67万円、第二秘書で32〜50万円、政策秘書で45〜68万円。