THE HIMALAYAN CYCLIST

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冬季シベリア横断自転車ツーリング

(単独完全走破)企画計画書

Trans-Siberia Bike Expedition, 2002-2003 Winter

 

 

 

 

 

 

 

 

日本アドベンチャーサイクリストクラブ

安東浩正

Hiromasa Andow

251-0011神奈川県藤沢市渡内 3-10-12

TEL&FAX: (81) 0466-25-2462  MOBILE: 090-4436-8371

Email: andow@tim.hi-ho.ne.jp

2002年7月作成

 

 

 

1.計画趣旨

 永久凍土のツンドラと広大な針葉樹林帯タイガにおおわれる極北の地シベリア。その言葉は荒涼とした風景と凍てつく寒さをぼくらに連想させます。ロシアの民主化、対外開放が進んでいるにもかかわらず、シベリアはその極端な自然環境の為にあいかわらず人口も少なく、まだまだ辺境の地であり、そして未知の世界が広がっています。

 途方もない旅・・・・、シベリアを初めて自転車で横断したマーク・ジェンキンスは著書の中でそう語っています。全行程14000キロ(ムールマンスク〜ウラジオストックの場合)、短く見積もっても8ヶ月以上はかかる距離。しかも冬のシベリアは寒気団の名で知られるとおりの極寒の世界。今回計画された旅は、安東にとってユーラシア大陸に於ける自転車ツーリングの最後の課題ともいえます。またはエクストリーム系MTBサイクリストにとって、雄大なユーラシアの北部極地のほとんどを占める広大な土地、この横断旅行を最も厳しい冬の時期に単独で自らの行動力によってのみ横断することは、最後に残された挑戦なのです。

 安東は1991年2月にシベリア鉄道でヨーロッパから中国に入ったことがあります。その時のロシア人たちは好感の持てるフレンドリーな人々でした。そして忘れられがちではありますが、実は日本に地理的にもとても近い世界でもあります。この地をフリーダムマシン自転車でいつかは走破してみたい、目線の高さでの旅を実践してゆくことでその土地の本当の姿が見えてくるはずだ、と思い続けていました。

 1995年に冬季のチベット高原の自転車での横断に成功して以来、主に安東はチベットや雲南省をフィールドにしてきました。しかしその脳裏の片隅にはユーラシア最後の課題として冬季シベリア横断をいつも想定してきました。冬の北海道を幾度もトレーニングの為に走破し、先冬は厳冬季アラスカツーリングを敢行し土台を固めてきました。またロシアを長期にわたって自由に旅行する為の特殊なビザも、ロシアの自転車関係の機関にビザスポンサーになってもらうことができました。そして私の計画を理解していただけた数々の企業にサポートしていただくこともできました。足掛け6年近く温めてきたこの企画を、いよいよ実行に移す時がきたと考えています。

 

 

 

 

2.目的

l        日本人としては前例のないシベリア大陸の自転車による単独完全走破横断を冬季に完遂する

l        日本の隣国であるロシアに住む各民族たち、シベリアの自然を理解し、友好への架け橋となる

l        環境に最もやさしい乗り物である自転車で旅し、シベリアにおける近年の地球温暖化の影響を調べる

l        シベリアにおける人々、自然、地理、動植物、等を観察し記録や体験を文章に残す

l        日本では見られない寒冷な環境の中での自転車走行技術の向上を目指す。(装備、気象状況への対応、ノウハウ等)を検証する

l         

 

3.期間及び場所

l        期間 2002年9月〜2003年4月迄の約8ヶ月

l        出発は2002/8/20 成田発JAL447便にてモスクワに飛ぶ予定

l        場所 ロシア連邦内 ロシア共和国、ブリヤート共和国、サハ共和国など

  ムールマンスク・サンクトペテルブルグ・モスクワ・バイカル湖・マガダンorウラジオストックなど

 

 

4.シベリアについて

4.1 シベリア横断の歴史

 古くはシベリア横断の歴史は、ロシアの科学アカデミーやロシア皇帝の派遣したベーリングを始めとする探検家達の記録に見ることが出来ます。日本人の探検史を紐解いてみても、シベリアに関するものが多くあることに驚かされます。中でも大黒屋光太夫による1788年〜1791年のシベリア横断の旅が際立ってよく知られていますが、これは一重に井上靖氏の日本文学大賞を受賞した「おろしや国酔夢譚」によると思います。またこれに刺激されたテレビ局によるシベリア特集や椎名誠氏の「シベリア追跡」といった著書でも、日本人のシベリアに対する関心が見受けられます。

 光太夫の場合は探検家というわけではなく、江戸時代に千石船が難破しロシアに漂流、時の女帝エカテリーナ2世に帰国を請う為にシベリアを数年かけて横断したものですが、その著書「北槎聞略」は当時のシベリアの様子が克明に描かれた資料的価値あるものとして認められています。

 また列強入りを目指して「元気」だったころの日本が海外へと目を向け始めた明治の時代にも、屈強なる男たちがシベリアを横断し、日本の探険史に色を添えました。1878年(明治11年)ロシア駐在の全権大使であった榎本武揚、1886年にはのちに総理大臣となる黒田清隆、1892年明治日本の威信を掛けて挑んだ福島安正陸軍中佐による騎馬単独横断、そして特異なのは1892年民間人として初めての玉井喜作の横断などがあげられます。とくに玉井喜作は札幌農学校(現北海道大学)ドイツ語教授のポストを投げ打っての横断であり、金もなく行く先々で工面しながら厳冬のシベリアを茶を運ぶキャラバンにまぎれこんでの過酷なものでした。1903年のシベリア鉄道開通以後では、動力によらない陸路完全横断の記録は見受けられないようです。

 戦後シベリアの動力によらない横断を目指した日本人の挑戦としては、4年計画で犬ぞりで横断しようとしたが1年目に1000kmも進めず敗退した記録、長野オリンピックにあわせてヨーロッパから犬そりや帆船だけで北極海添いに日本へ向かったが、一部で飛行機を使わざるを得なかったなどが見受けられ、完全横断の難しさをかたっているようです。すでにシベリア鉄道や車両で数々の旅人が越えてきたシベリアですが、案外と自分の力だけでの横断は、自由に行動ができなかった旧共産国であることもあってか、見受けられません。自転車など自分の人力だけでの日本人の完全横断成功はどうやら歴史上見受けられないようです。

 

  

明治時代のシベリア横断の豪傑たち

 

 

4.2 自転車によるシベリア横断の記録

 シベリアの自転車による初横断は1989年にアメリカで知られた冒険家マーク・ジェンキンスを中心に、アメリカ人3人とロシア人4人の合同チームによってなされました。その著書は日本語にも翻訳されています。また冬季の初横断はカナダ人サイクリストによって2000年に走破されたらしいのですが、詳細は不明で問合せ中です。うわさでは彼は今フランスでその時の旅行記を執筆中と聞きます。グレートジャーニーの関野吉晴氏による極東シベリアの自転車ツーリングなどは見受けられますが、日本人サイクリストのシベリア完全横断の記録は夏、冬を通じて少なくともJACCには入ってきていません。いないものと思われます。

 

大黒屋光太夫のルート(おろしや国酔夢譚より)

 

 

4.3 冬季の自転車走行について

 冬季のツーリングは、冬山登山のようなものです。静寂な白一面の雪原を走りゆく時、雪面が陽光に輝く時、そこにはそこにしかない感動が隠されています。あるいは様々な試練、たとえば寒さとの戦い、気象条件の厳しさ、凍結した路面、積雪時の担ぎ、短い日照時間、ルートファインディングといった特殊な技術も必要になってきます。安東は今まで冬季のチベット高原、アラスカなどを積雪期に走破してきました。チベットでは夜間にテントの中で零下35度を下回る厳しさを経験しました。アラスカではオーロラの舞う下でその壮大さに思わずスゴイ!と声をあげたものでした。

 今回計画されたシベリアは、シベリア寒気団の名で知られるとおりの極寒の地。極端な大陸性気候のため、南極大陸をのぞいては世界で最も寒い土地と言われています。今回の旅でも零下40度、時として零下50度まで下がることも考えられます。厳しい気候のためにあまり人も住んでおらず、ルートが定かでないところもあります。しかし今までの自分の経緯や、シベリアを自動二輪で横断したクルト&ハルミ・マイヤー夫妻のアドバイスなどを統括すると、自転車でも技術的には行けるのではないかと考えています。

 また夏場は沼地や湿地帯のために通行が困難なところも冬は凍結します。かつてのシベリアの旅のシーズンは冬でした。大黒屋光太夫がわざわざ寒い時期に横断しているのも、このことによります。

 

 

北半球でもっとも寒い寒極のあるシベリアの一月の気温分布図

 

 

4.4 シベリア横断の定義について

 シベリアとはロシア連邦のアジア地域、すなわち西はウラル山脈から東は太平洋につながる海までを意味します。しかし大陸のスケールから考えた時、西の端も大西洋に通ずる海まで延長して考えたほうが、より完全な横断といえると思われます。その場合、西の端はバルト海に面するサンクトペテルブルグ(旧レニングラード)から東は日本海に面するウラジオストック或いはオホーツク海に面するマガダンを結び、現在のロシア連邦領内をゆくルートといえます。

 あまりにも広大なシベリアは幾つかのステージに分けられます。西からヨーロッパロシア、西シベリア低地、中央シベリア高地、東シベリア山岳地帯、極東シベリアでしょうか。西から東へとシベリア鉄道が横断していますが、自動車道は湿地帯の為に存在しないところがあります。ここの間は道路車両も鉄道の貨車で運ばれることになります。夏に自転車で走破した記録では、この区間は鉄道の枕木の路線を自転車を押して進んでいます。しかしながら、冬の間は河川が凍結する為にそこをトラックなどの通過が可能となり、鉄道を使わずに自力走破による横断が可能であると考えられます。私の予定もその凍結河川を使った横断を計画しています。シベリアの詳細な地図を見ると、実際に道路がないところがあるのですが、具体的にどの凍結河川を通過するかは、資料もなく、インフラの進んでいないロシアではモスクワの関係機関でもほとんど分らない状況です。その道は地図には載っておらず、また年によってルートが変わる可能性もあります。日本の中古車がロシアのウラジオストック港に運ばれている事はよく知られていますが、これらの車両をヨーロッパロシアに運ぶために冬の道が使われているらしく、東から日本車が走ってきた場合、この凍結路を通過してきた可能性が高く、新しい情報がそれらの運転手によってもたらされると考えています。

 完全走破の定義とは、ルート上においてヒッチハイクなどで他の交通手段の援助を借りないことを意味します。また単独とは一人で走り、自分の荷物は自分の自転車で運ぶことです。サポート車などはつきません。

 

 

 

5. 日程表及びルート (予定)

 

5.1 ルートの選定について

 ヨーロッパ側から日本へ向けて東進したいと思います。かつて大黒屋光太夫が厳しいシベリアの地を横断しなければならなかったのは、ひとえに日本へ帰る許可をもらうためでした。連日単調な景色が予測される中で、精神的な終着点も必要です。目標地が「故郷アジアへ向かう」ということは、光太夫の想いにも重なると考えています。

 

5.2 スタート地点について

 サンクトペテルブルグが大西洋に通ずるバルト海に面するために、実質上のシベリア横断の出発点ともなりますが、それより約1500キロ北にある北極海に面するムールマンスクからのスタートも考えられます。ムールマンスクは北極圏にあり、オーロラの観測も可能と思われます。サンクトベテルブルグ(旧レニングラード)はかつてのロシア帝国の首都。大黒屋光太夫は時の女帝エカテリーナ2世に会うためにここまではるばるシベリアを旅してきたのでした。スタート地をムールマンスクかサンクトペテルブルグにするかは、モスクワで私のロシアビザのスポンサーをお願いしたロシアサイクルツーリングクラブに相談して決めたいと思います。

 

5.3 モスクワからバイカル湖まで

 モスクワを通過し、ウラル山脈を越えるといよいよシベリアに入り、西シベリア低地、中央シベリア高地を走り、バイカル湖に到ります。シベリア鉄道沿いの幹線道路を走行します。シベリアの青き真珠と称されるバイカル湖。世界最古、世界最深、世界最高透明度、ここにしかいない数々の動物を持つ生態系、と何かと話題の多い湖も冬季は完全に凍結しています。またこの辺りのブリヤート族はチベット密教を信仰するモンゴル族の一派です。冬のバイカルとシベリアのチベット仏教文化を紹介します。

 

5.4 太平洋まで二つのルートの可能性

 バイカル湖以東のシベリアでは二つのルートが考えられます。一つはモンゴル、中国との国境近くを通過し、日本海沿岸のウラジオストックを最終到着点とするルート。もう一つは、ヤクーツク、コリマ街道経由でオホーツク海沿岸のマガダン最終到達点も考えられます。距離的には同じと思われますが、それぞれに魅力があります。

 

 5.4.1 マガダンルート

 マガダンへ向かうルートでは途中のオイミヤコンが南極を除く地球観測史上での最低温度を記録(−77.8℃/1938年)、マガダンの位置がウラジオストックルートの最東部のハバロフスクより経度で15度東にある、日本人捕虜強制労働で知られるコリマ街道と話題性はあります。もし最も寒い一月から二月にこのルートを走ることは命にかかわる事になり、実際零下45℃以下での走行は今の経験では不可能に近いといえます。しかし晩冬の3月であればそこまで気温が下がることもないと思います。このルートをとらなかった場合でも、北東シベリアの中心地であるヤクーツクはぜひ訪問したいので、飛行機で往復して訪問してみるということも考えられます。

 

 5.4.2 ウラジオストックルート

 シベリア鉄道が走っていますが、先にのべた道のない区間があります。ここは凍結した河川を行くためルートもはっきりせず、今回のツーリング中の山場になります。アムール川に沿って東へ進み、ハバロフスクより南下して、日本海にあるウラジオストックへ向かいます。ウラジオストックはシベリア横断鉄道の起点でもあり、日本との交流もある国際貿易港であるので日本でも知名度が高く、帰国にも定期便がでている利便性が上げられます。

 

 

 

5.5 日程表

 上記にあるルートの最終決定は現地で状況を判断してから決めたいと思います。参考に下記にはウラジオストックルートでの予定日程を記しておきます。

 

ムールマンスク〜ウラジオストック ルート

l        2002年

8月20日: モスクワ入、RCTC(ロシアンサイクルツーリングクラブ)訪問、情報収集、最終調整

9月初旬: ムールマンスク出発

10月: サンクトペテルブルグ、モスクワ通過、

11月: ウラル山脈越え エカテリンブルク 西シベリア低地 

12月: 中央シベリア高原 ノヴォシビールスク(シベリア最大の都市)

l        2003年

1月: バイカル湖 イルクーツク

2月: ウランウデ、チタ

3月: ハバロフスク

4月: ウラジオストック着 フェリーで日本へ帰国

 

 

 

 

6.装備 

 極度に低温な世界での走行が予測されます。夜間では零下50度に対応するキャンプ用品。走行時でも零下30度以下に耐えられなければなりません。また吹雪も予測され、すべての装備品について極地用の仕様が求められます。装備への対応は今までの寒冷地走破の経験から得てきたものを応用しつつ、特殊装備をはじめ考えうる最高のもので挑みます。

 

6.1  自転車装備 

シベリア特化式寒冷地仕様26インチMTB(マウンテンバイク)

ツーリング用具、修理用具、予備パーツ一式

スペシャライズド製MTBを改造したシベリア走破用マシンで挑みます。協力企業順不動。

主改造点: 幅広リム&耐寒ゴムスパイクタイヤ、防寒フード、リジッドフォーク、特殊キャリア、耐寒グリース、カンチブレーキ化、軽量化等

l        スペシャライズドブランドMTB: ダイワ精工株式会社

l        ツーリングタイヤ、特殊スパイクタイヤ: IRC井上ゴム工業株式会社、株式会社カクイチ

l        サイクルコンピュータ、安全ライト: 株式会社キャットアイ

l        軽量化パーツ: 東京サンエス株式会社

 

6.2 極地用装備

厳冬季登山用防寒衣類一式、重羽毛服、重防寒靴(零下52度まで対応)、厳冬季用羽毛寝袋、極地用キャンプ用品一式、テント(ゴアテックス)、ガソリンストーブ等。サポート企業

l        防寒衣類一式: 株式会社モンベル

l        軽量極地用テント: 株式会社アライテント

 

6.3  その他の装備 

一眼レフカメラ、リバーサルフィルム80本、GPS、気象観測機器、携帯型情報端末、等

l        フィルム(エクタクローム)提供: コダック株式会社

 

 

 

 

7.走破活動以外

 

 JACC日本アドベンチャーサイクリストクラブは国際自転車交流協会を母体にする組織です。

 安東が初めてロシアに入ったのは1991年の1月のことです。ちょうど鉄のカーテンが崩れ始め、ソビエト連邦からCIS(独立国家共同体)と名を変えて数週間後のことでした。西側の外国人が自由に旅行できるようになった先駆けでしたが、当時は物のない時代で、列車のチケット一枚買うのにもずいぶん苦労しました。しかしロシア人たちの親切さを感じたものでした。

 ロシア共和国は面積的に世界一大きな国であり、人口的にも中国、インドに続いて世界3位の国です。このような大国が隣にありながら、日本人には未だに疎遠な国です。新聞に出てくることといえば北方領土などのマイナスイメージの話題ばかり。これはお互いの国にとってももったいない事です。長距離サイクリングによるロシアと日本との友好に貢献できればと思います。

 また博物学的にもシベリアには魅力がたくさんあります。シベリアにはアジア系の少数民族だけで30近くいると聞きます。カリブーやシベリアンタイガーといったタイガに生きる動物たちをはじめとして、動植物、天候、地理、原住民の生活、習慣を調べ文章として記録を残します。

 

チベットとの関連性について

 今までチベットを中心に中央アジアをテーマに旅を続けていた安東ですが、シベリアもまんざらそれに関係しないでもありません。バイカル湖付近のブリヤート共和国はモンゴル系の遊牧民族であるブリヤート族の世界。中央アジアの探検史をかじった者ならピンとくると思いますが、ここはチベット仏教の世界です。その知られざる世界を垣間見てきたいと思います。

 

 

 

 

. 行動者プロフィール

 

安東浩正 Hiromasa Andow 血液型 RH AB+ 1970/1/23生

日本アドベンチャーサイクリストクラブ関東地区評議員

鳥取大学山岳部OB、 中国雲南省昆明登山旅遊探検協会

著書: 「チベットの白き道」 山と渓谷社 1999年 

「荒野的軸心」商智出版(台湾)2001年 その他雑誌新聞に執筆多数

出身 広島県瀬戸内っ子

 

JACCツーリングアドバイザー(中国、チベット、インドのスペシャリスト)。

その他アウトドア全般、アルパインクライミング、カヤッキング、バックパッカー、自動2輪ツーリング、血液型RH AB+、1970年1月23日生広島県出身、本来なら温和なはずの瀬戸内っ子、機械工学士(鳥取大学機械工学科流体力学専攻)、植村直己に憧れて山岳部に入部ここに流浪の人生始まる、使用言語: 日本語、英語、中国語、(ロシア語勉強中)、中央アジア探険史、山岳少数民族研究、現在神奈川県藤沢市在住、5年間の商社勤務経験にて各国訪問現在フリー、たまにライター活動、長女1歳半、ウェブサイト「ヒマラヤンサイクリスト」運営、マニア級の飛行機好き、総飛行操縦時間24時間(2002/07現在)

 

過去の活動等はWEBを御覧下さい www.tim.hi-ho.ne.jp/andow

 

 

 

9.協力協賛

 

関係機関:

l        日本国際自転車交流協会: 日本アドベンチャーサイクリストクラブ(JACC)

l        Charity Organization for Health, Education and Sport (Russia)

l        The Russian Cycle Touring Club (RCTC)

 

テクニカルサポート、スポンサード (順不同)

l        ダイワ精工株式会社 SPECIALIZED BIKE http://www.daiwaseiko.co.jp/mtb/

l        株式会社キャットアイ http://www.cateye.co.jp/

l        井上ゴム工業株式会社 http://www.inoac.co.jp/irc/

l        株式会社カクイチ http://www.kakuichi.com/

l        東京サンエス株式会社 http://www.tsss.co.jp/top.html

l        株式会社モンベル http://www.montbell.com/

l        株式会社アライテント

l        コダック株式会社 http://www.kodak.co.jp/

l        サンエースレンタカー

l        広告共和国

     

   

 

 

10.参考資料

 

l        シベリア自転車横断 マーク・ジェンキンス 心友社

l        おろしや国酔夢譚 井上靖 文春文庫 1974年発行

l        シベリア追跡 椎名誠 集英社文庫

l        シベリアに憑かれた人々 加藤九祚 岩波新書 1974年発行

l        シベリア大紀行 TBS特別取材班 河出書房

l        キサク・タマイの冒険 湯郷将和・著 新人物往来社 1989年発行

l        シベリア漂流 玉井喜作の生涯 大島幹雄・著 新潮社 1998年発行

l        榎本武揚シベリア外伝 中薗英助/著 文芸春秋 2000年発行

l        シベリア横断 福島安正大将伝  坂井 藤雄/著 葦書房 1992年発行

l        チベットの白き道 安東浩正著 山と渓谷社 1999年

 

 

 

 

11. エッセイ ロシアからの便り (地平線通信233号1999年より)

安東が1992年の1月から2月にかけて冬のロシアを旅した時のエッセイです。

 

 我々はとてもいい気分で酒に酔っていた。ロシア人のじいさんは、「この傷はドイツにパラシュートで降下した時に出来た傷なんだぜ」と袖をまくり上げタダレた腕をぼくに見せつけた。それならばと、ぼくも袖をまくって肘を見せると「これはバイクでこけた時の傷なんだぞ」と男の勲章を自慢しあうのだ。じいさんは大喜びで、同志よもっと飲めとばかりにウオッカの瓶をよこす。一口ラッパのみすると胃の中でアルコールが燃え上がった。じいさんがアメリカが嫌いだと叫ぶと、そうか実はオレも大嫌いなんだと叫んで乾杯を交わした時は、ぼくの口はもはやろれつが回ってはいなかった。気がつくとその部屋のベッドで寝ているというありさまで、朝起きても二日酔いで気持ち悪い。ウオッカなんて強い酒は普段飲みなれてないので、どうも悪酔いしたようだ。じいさんが二日酔いにはこれがいいんだと、起きるが早々またウオッカの瓶を持ってきた時には、いかんこのまま酔っぱらってるわけにはいかないんだ、すぐに出発しないと日本に帰りそびれてしまうぞ、とちょっと慌てたものである。

 季節は冬だった。二月のサンクトペテルブルグの街中には凍てついた風が吹き抜けていた。モスクワで中国行きのシベリア鉄道の切符を何とか手に入れ、出発までの空いた時間に北極圏のムールマンスクまで列車で北上してオーロラを見てきたぼくは、かつて芸術の都レニングラードと呼ばれたこの街に寄ったのだった。

 一九九二年はちょうどソビエトが独立国家共同体とかいう奇妙な国名に変わった直後のことであり、異常なインフレに経済はハチャメチャで、デパートの棚には何も物がないのに、その前で闇商品を売る人々がずらりと並んでいる奇妙な風景があった。ちょっと前みたいにパンを買うために長蛇の列に並ぶ必要はもうなくなっていたが、それもすべての物価が庶民には簡単に手が出せないほど上がってしまったからにすぎない。何がしらのドルを持っていたぼくは食うに困ることはなかったが、裏ルートで入国したのでバウチャーを持っておらず、列車の切符を買ったり、宿泊施設を見つけることは容易ではなかった。だからサンクトペテルブルグの駅で泊まるあてもなく半分途方に暮れていたところを、じいさんに誘われて家におじゃますることになったのだった。

 じいさんは生活に困っているようだった。社会主義の時代には保証されていた年金も突然カットされたのか、当時老人達は特に苦労していたようだ。食うに困ってか、名誉ある勲章なんかまで金に変えるために通りでは売られていた。ウオッカは闇市で一瓶五、六十円くらいだったと思うが、その価格でも高くてじいさんにはなかなか手が出せる代物ではなかったに違いない。泊めてもらう代わりといっては何だが、じいさんに頼まれて二、三本のウオッカを買って雑居ビルの一室に入ると、家族のばあさんと猫が一匹いた。

 泥酔の朝の気分は最悪だったが、午前中にもモスクワに出発しなければ苦労して予約を入れたシベリア鉄道に乗り遅れてしまう。この切符の予約を取るためにモスクワで三日間も切符売場に通いつめたのだ。北京行きのすべての切符は一ヶ月後まで満席であり、もうダメかと諦めかけた時に、偶然的に北朝鮮行きの列車を、憶えたてのロシアンキリル文字の時刻表から見つけ出し、運良くなんとか手に入れた切符だった。だからもう酔っぱらっているわけにはいかなかった。だけれど不思議なことに、じいさんに勧められて飲んだ少量のウオッカは二日酔いに良く効いた。さらに今思うと不思議なんだが、じいさんは英語など知るよしもなく、ぼくだってロシア語なんてしゃべれやしない。どうやら我々は魔法のウオッカを飲んでいたようだ。

 もう七年も前の話だ。ロシアは相変わらず危機的経済のようだが、じいさんも相変わらず元気にウオッカを飲んでいるのだろうか? そんなことを思い出しながら、スミノフのボトルからまた一杯、魔法の液体をグラスの上に注いだ。

 

 

(C) Hiro Andow 2002