遥かなる黄河源流行

The Origin of Yellow River Bike Expedition 1998
 
幾千年もの昔から、多くの旅人が黄河の源流を求めて旅に出た

 そこは遥か天涯の世界。なぜ旅人はそんな過酷な道をゆくのだろう

  あるいはその河源への道は、自分自身の源流へと続く道なのかもしれない

   今日もまたひとり、この茫漠たる荒野へ向けて旅立ってゆく


君不見、黄河之水天上来、奔流到海不復回・・・・

君見ずや、黄河の水天上より来たり、 奔流海に至りて復た回らざるを・・・・

きみみずや、こうがのみずてんじょうよりきたり、ほんりゅううみにいたりてまたかえらざるを・・・・


第一部: 旅の記録

第二部: チベットの子供達

地図

第一部: 遥かなる黄河源流行 旅の記録

無邪気な姉妹の妹のユェテン。その澄んだひとみは大自然の中に生活する遊牧民のやさしさを感じさせてくれます

 全長五四六〇キロ。悠久の大河黄河。その流れはチベット高原の彼方、崑崙山脈に源流を求め、ときに南下しときに北上しながら蛇行と奔流を繰りかえし、遥か中国大陸を横断して、やがて渤海へと注ぎこむ。

 中国で「河」と称する時、それは黄河を意味するのだという。黄河文明七千年来の歴史は、この母なる大河なくしては語れない。人々は黄河の治水によって農耕文化を育む恩恵をもたらされたと同時に、たびたび大洪水を繰りかえす「暴れ龍」黄河に恐れをなした。中国の歴史は黄河と共にあったのだ。

 そんな流れの最初の一滴は、いったい何処からどのようにして始まるのだろう? 雄大な流れを前にしてたたずんでいると、誰しもが一度は抱く思いだ。

 かつて吟遊の詩人李白は、「黄河の水、天上より来たり」と歌い源流へと思いをはせた。そして幾多の探求者達が、そんな源流を目指して旅に出た。

 「黄河を征する者は天下を征する、ゆきて源流の河神を祀れ!」紀元前一二六年、漢の武帝の命により張騫が西域に派遣されて以来、中国歴代王朝は威信をかけて源流へと探索隊を出し続けた。そんな遥かなる源流には、何かの根源を常に求め続ける旅人達の、熱き思いが湧きいで溢れ出していた。そしてぼくもまた、歴史を繰り返すように旅に出たんだ。

 一九九八年七月中旬、チベット高原の北東端に位置する中国青海省の省都西寧をMTBで出発。ここはすでに海抜二二七〇メートルの高原都市。辺りは黄土地帯特有の荒れ地が広がり、大陸性の気候のために夏でも涼しい風が吹いている。北西へ向かえば祁連山脈沿いに続く河西回廊、いわゆるシルクロードが始まっている。そして南には荒野へと続くチベット高原が広がっている。「千人往きて百人帰り、百人往きて十人帰る」、古来より多くの旅人が、そんな険しきチベットの荒野へ向けて、ここ西寧の街から旅立った。

 道はゴビの砂漠地帯を越え、かつて吐蕃古道と呼ばれたルートを南下する。日月山を越えると、砂漠的な黄土地帯から草原地帯へと変化する。峠には風の神様を祭ったタルチョと呼ばれる五色の旗がたなびいている。チベット高原へと高度が上がってくるに従い、地平線へと続く大地は草原に覆われてゆき、ヤクや羊が穂をはむ遊牧の世界となる。遊牧民のテントを時々見かけるが、人跡はまばらだ。

 ぼくにとってチベットをMTBで訪れるのは二年ぶりのことだ。前回は冬季のチベットを縦横無尽に走りまわった。その時の旅の詳細は、ぼくの著書「チベットの白き道」に思いっきり書いたのでよろしく!

 海抜が高くなるにつれて頭がガンガン痛くなってくる。高山病である。おまけに空気が薄いので思うように力が入らず、自転車のペダルは重くてしんどい。だけれど走り続けるにつれて頭痛も治まってゆき、しだいにぼくの体は高所に順応してゆく。

 百キロ毎くらいにある村で自転車を止めると、好奇心旺盛な村人達がぼくの周りに集まってくる。村はチベット族だけでなく、移民してきた漢族や回族、あるいはサラ族といった雑多な民族が溢れ、トラック運転手相手の食堂や売店が並んでいる。

 ぼくは以前に中国の雲南省に留学していたので中国語はお手のものだ。自転車で走り続けている間は一人ぼっちの世界だけれど、村での小さな出会いと会話が旅に色を添えてくれる。車ならただ走り過ぎてしまうだけの小さな村でも、自転車の旅ならその柔らかな雰囲気にふれあうことができる。そして道のくぼみも優しい風も、ありのままに感じ取ることができる。

 毎日、陽が暮れるまで走りつづけ、テントを張る。気ままだけれど体力勝負でくたくたの旅が続く。村にたどり着ければ旅宿に泊まることもあるし、道路修理や堤防建設の工夫達の住むキャンプや、チベットの遊牧民の家に泊めてもらったりもする。旅は人の親切を糧に進むことができる。あるいはまだぼくの見たことのない景色に誘われて前へと進み続ける。そうしてさらにチベットの奥地へと高みへと向かう。

 かつてヒマラヤよりも高い謎の山脈として、登山家の間で伝説となっていたアムネマチン山脈を越えて、いよいよ黄河の源流域に入る。アムネマチンは崑崙山脈の東の支脈であり、漢族がかつて黄河の源流があると考えた氷河に覆われた雪の頂である。チベット人にとってはカイラス山、梅里雪山に並ぶ仏教の山岳信仰の聖山であり、巡礼者が後を絶たないという。

 一九九三年にはぼくの母校である鳥取大学山岳部が未踏であった第五峰に初登頂をしている。だけれど残念ながら、ぼくはその登山隊に参加できなくて悔しい思いをしたことがあるだけに、その山容の一部を垣間見ることができただけでも、ぼくには思うところがあるんだ。

 西寧から約五〇〇キロ走り、ここで初めて黄河のほとりに出た。幅約五〇メートルの流れはすでに黄濁している。ここで東チベットを経由してラサへと向かう幹線道路を離れ、黄河に沿ってあまり確かではない道を、最初の一滴を求めて最源流部へと目指す。

 いろいろと調べた情報によると、最源流部の数十キロ手前に麻多郷という集落があり、そこより黄河の最初の一滴が湧き出している泉まで、馬で二日程かかるという。そこへ到るには、星宿海と呼ばれる無数の泉が湧き出し、大小様々の池が列星の如く広がっているという湖沼地帯をすぎる。星宿海・・・・、なんて詩的ですてきなネーミングだろう。その湿地帯は自転車をかつぐことになりそうだ。果たしてたどり着けるのだろうか? いよいよ面白くなってきた。ぼくには地球上にぜひともたどり着きたいと思っているところが数々残されているが、そんな課題の中でも今のぼくを最高に魅了するルートだ。

 遥かに続く草原の海抜は、すでに四三〇〇メートルを越えている。夏でも雪が降ることがあるといい、夜は夏用の薄手のシュラフでは結構寒くてこごえてくる。しかもちょうどこの時期は雨季の真っただ中であり、夏とはいえ冷たい雨に襲われて手はかじかんでくる。とくに七月は最悪のシーズンらしく、ダート路はぬかるみの泥の道となり、増水した川の流れをいくつも渡渉しなければならない。悪路のために自転車は降りて押すことも多々あり、なかなか走行距離が稼げない。

 車はほとんど走ってはいない。渡渉中に河川の中程でぬかるみにタイヤをとられてしまい、脱出できなくて立ち往生しているトラックを追い抜いただけだ。奥地へと進むにしたがい、道も次第にはっきりしないものになっていった。

 今回の遠征のために、NHK取材班の大黄河シリーズ第一巻「遥かなる河源に立つ」と、地図作成家富永省三氏による源流域の手書き地図を参考にした。アメリカ航空局発行TPC地形図(五〇万分の一)も持参していた。しかし河源の正確な位置は記されていないので、はたしてこの先、何百キロあるのかどうかも定かではない。本当にこの道で正しいのだろうか? 遊牧民すらほとんど見かけることはないので、誰かに尋ねようにも尋ねようがないというものだ。

 ルートに不安を抱きながら、無人の荒野を走りつづける。遠くに動くものがあり、誰か人がいるのかと期待して近づいてみれば鳥だったり、遊牧テントかと思えば単なる岩だったりした。心細さからぼくは、おお〜いと思いっきり叫んでみた。平原の彼方へとぼくの魂の叫びは響き渡った。それに答えてか、灰色に垂れ込む雲から再び冷たい雨が落ち始め、やがて風をともなった豪雨となり、ぼくの体は凍えあがった。靴はびしょびしょで体中泥まみれ、黄河の砂の味が口の中でざらついた。

 辛抱強く走り続けると、たまにだが遊牧民に出会うことがある。彼らのテントの近くを通りすぎると必ず人が出てくる。まあ茶でも飲んでゆけということになり、テントに寄って話をしたり、子供の相手をしているとすぐ二時間くらい経ってしまう。

 さらに三〇キロほど前進すると、また遊牧民の小屋があって、中からじいさんが出てきて茶を飲んでゆけということになる。チベットで茶といえばバター茶のことだ。ちょっと特殊な味だけれど、いったん慣れてしまうと栄養満点の素晴らしくうまい飲み物なのだ。ツァンパという麦の粉の主食や、ヤクのヨーグルトなどを頂戴してまた二時間くらい過ぎてしまう。ぜひとも泊まってゆけと言われるが、先を急ぐ旅であるので出発する。

 さらに数十キロほど進むとまた遊牧民に出会い、茶を飲んでゆけと誘ってくれる。どうやらチベットでは初めての人に出会うとき、茶が重要なキーワードとなるようだ。さらに進むとチベット仏教の僧院があり、若い僧たちの質問攻めから解き放たれるのに苦労する。彼らの好奇心はとても強い。クールな顔をして無関心を装う今の都会の日本人とは大違いだ。

 どこの遊牧民も犬を必ず飼っている。道を通りゆく者があれば吠えついてくるので、彼らに気づかれずにその前を走り去ることは出来ないのだ。食べ物も分けてくれるので、無人地帯で何も手に入らないかもと思いたくさん用意していた食糧も、減るどころか増えてゆく一方だ。しかし数十キロごとに一家族しか住んでいないとは・・・・。ちょっとお隣まで三十キロなんて、大陸のスケールの何て大きなことか!

 野生動物も多い。モンゴルカモシカがあちこちで草を食んでいる。小さなナキウサギが彼らの住処の穴から顔だけを出して、こちらの様子を伺っている。キャン(野ロバ)の群れが草原を走り抜け、ぼくに驚いたヒマラヤマーモットがあたふたと逃げてゆく。

 湖沼地帯ではカモメや鶴が舞い、美しい鳴き声が草原の中をこだまする。特に世界でもこの辺りにしか生息していないといわれる黒頸鶴の飛行する姿はあまりにも美しく、すぐ目の前を優雅に飛翔して湖面に着水した。

 大きな二つの湖を通り過ぎる。オーリン湖とザーリン湖だ。琵琶湖ほどの大きさがある海抜四四〇〇メートルのそれらの湖は、源流にはめ込まれた二つの真珠と呼ばれる。草原に囲まれたその湖水は、黄河の黄濁した水の色のイメージとは異なり、透きとおった清水で溢れている。風であおられ打ち寄せる波は、まるで海のようであり、さざなみはいつまでも心地よい響きを奏でていた。それはチベットの大地の奏でる神々の協奏曲だった。

 湖には西から三つの流れが注ぎ込んでおり、そのうち真ん中の川がマチュと呼ばれる本流とされる流れだ。近年の人工衛星による調査では、その三本の流れの最も南のカルチュ川の方が長いことがわかったのだけれど、川は必ずしも長ければ源流というわけではないらしく、一般にマチュが今でも本源流とされている。学者によってはカルチュを源流とすべきだと主張する人もいるようだが、ぼくも星宿海などの伝説を生んだ歴史のあるマチュを源流とすることに賛成だ。

 そんなマチュ川が、幾筋にも別れて蛇行しながら流れてゆく個所を渡渉する。一つの渡渉は長くて十メートル、深さはせいぜい膝下まで。美しく澄んだ水がゆっくりと流れゆく、この小さなせせらぎがあの悠久の黄河なのだ。もう河源にだいぶ迫ってきたように思われる。清らかなる水の流れの底には、様々な色をした小石が、まるで宝石のように散らばっている。

 かつて河源の崑崙山では、最高級の玉が産出されると信じられていた。中国人達が何よりも尊いものと考えている宝石である玉。その幻の石を求めて、多くの一攫千金を夢見る旅人が、河源を求めて崑崙を目差した。ある者は流砂に倒れ、ある者は蛮族に命を奪われた。また道教を信ずる者達にとって、そこは西王母の住む極楽浄土とされ、不老不死の神仙郷があると信じられていた。旅人達の報告は、黄河の源流にまつわるそんな数々の伝説を生んだ。そのあたりの物語は井上靖氏の「崑崙の玉」に詳しい。

 そんな黄河源流の最初の一滴が溢れ出す泉が特定されたのは、意外にも最近のことだ。一九八五年、日本ヒマラヤ協会とNHKの調査隊が、それぞれ初めて黄河の源を確定するために中国と合同で源流域に入った。それから十三年たった今、河源はいかに変化しているのだろう?

 夕暮れの光線は斜陽となって草原に降り注ぎ、その中をゆく一本の轍道は黄金色に輝いて、荒野の軸の彼方へと続いていた。やがて平原の最中に幾つもの小さな池が現れ、水の銀河のように夕日を浴びてきらめいた。数多の星の宿る海。これこそ伝説の星宿海だった。ぼくは感動に打ちひしがれながら、ただひたすらペダルをこぎ続け、水の星の海を航海していた・・・・。

 はじめて星宿海が古文書に登場してくるのは千七百年前。これは魏史倭人伝で日本の存在がはじめて文章として歴史に登場するのと同じ頃だ。おそらく河源探求の歴史そのものは、中国の歴史が始まって以来、共に続いてきたことだろう。今のご時世と違って、地球が丸いことすら知られていなかった昔、こんな荒野をゆく旅は、ぼくらの想像を絶した過酷さだったに違いない。

 星池のほとりにテントを張る。小さな池と池は小川で結ばれており、覗いてみるとメダカほどの魚が群れをなして泳いでいる。井上靖氏の本を読んで以来、幾度心に思い描いたか知れない星宿海に今、ぼくはたたずむ。西寧を出発してから、いったい今日で何泊目なのだろう? すでに幾つもの峠と幾つもの草原を越え、幾つもの流れを徒渉してきた。テントの外ではいつしか風もやみ、夜空からはすっかり雲が消え、星が満天のうちに微笑んでいた。星池の聖水は鏡のように静止し、夜空を写している。ぼくのテントは神々の精霊たちに囲まれ、そして守られているかのようだった。

 最果ての源流部に唯一、人の集いのある麻多村に至る。かつてほんの百年も前には人がたどり着くことすら困難だったこんな辺境の地にも、遊牧民が住み始めている。ここから予定では、案内役として村人と馬かヤクを雇って、源流へ向かおうと思っていたが、ここにたどり着くまでに思わぬ悪路に時間を取られてしまったため、予約をしている帰国の飛行機便に間に合うためには、もはや時間が足りなかった。

 村長さんと相談してみたけれど、河源の泉はここからさらに片道で約七〇キロはあるという。自転車で到達することは、時間的にもはやあきらめざるをえなかった。だけれども、せめてそこへ少しでも近づきたい。自転車で今日中に村に帰ってこられる所まで、行けるだけ行ってみよう。そう思った時、ここまで時間を気にしながらガムシャラに走り続けた気分が、なんだか少し楽になった。

 雨季とはいえ、日によっては大快晴となることもある。そんな時の空の色は、抜けるほどに深くて蒼い。それは宇宙に最も近いチベットの高地のなせる色合いだ。遥か遠く広がる山々は,雪化粧して白く輝いている。

青いケシの花は夏の間にチベット高原でしか見られない特別の花です。そのほかにもリンドウやサクラソウなどの色とりどりの小さな高山植物が咲き乱れています。

 黄河最源流域のヨグゾンリエ盆地に入る。この辺りは明らかに草質が今までの草原より良く、降り注ぐ太陽の光を受けて蒼々としていた。小さな花々が競うように咲き誇っている。そんな花畑の中で思いがけず青いケシの花を見つけた。チベットにしかない幻の花だ。数ある美しい花たちの中でも、最も可憐に自己を主張している。

 小さな丘陵を越える峠に達すると、幾つかの泉が湧き出していた。溢れ出た清水は水溜りを形成し、幾つも散らばっていた。本源流ではないが、これも黄河の最初の一滴の始まりなのだ。

 西寧からここまで積算計で七八四キロ、あと真なる源流まで約五〇キロ。その河源の泉にはヤクの頭骨が置かれているという。あと一日あれば、十三年前に日中合同調査隊が確定したという源流に達することができるだろうが、だがもう引き返さなくてはならなかった。さらにまだ長い長い帰りの道程が残されているのだ。

 その時、晴天だった空が突然雲におおわれ、重たい雨が襲うように降り始めた。河源を目前にして引き返さなければならない悔しさで、涙がとめどなく溢れ出してきた。雨でびしょびしょになりながら、一人荒野に立ちつくしていた。ぼくの涙は雨と共に地面に落ち、小川となって高原を流れ下り、そして黄河の奔流となってゆくだろう。その悠久の流れは、大陸の歴史と共に時間をも超えてゆき、やがて果てしのない海へと注ぎ込む。

  君不見、

   黄河之水天上来、

    奔流到海不復回・・・・。

  君見ずや、

   黄河の水、天上より来たり、

    奔流海に至りて復た回らざるを・・・・。 (李白)

 雨脚がゆるくなってきた。ぼくの目に映る源流を囲む崑崙の山々は、雨霧のなかにぼやけて霞んでいた。

 その荒野をゆく道は長く険しく行きどまりがない。河源は遥か天涯の世界、未だ伝説の彼方、幻の道が続いている。結局ぼくはその地に立つことは出来なかった。だけれど、そんなたどり着けなかった土地が一つくらいあってもいいのではないか。そこはぼくにとって未踏の地であり続け、いつまでも幻の遥かなる源流がぼくの中で流れ続ける。

 黄河の源流に対する旅人の熱き思いは、幾千年の時を越えて過去も未来も変わることなくぼくらをそこへと誘う。その思いに取り付かれた時、誰しもが旅立つことが出来る。そして次にその源流を目指す旅人は、他でもない君なのだから。

OUTDOOR誌2000年7月号(山と渓谷社)に掲載したものを転載しました。

 

源流域に住むチベット遊牧民たちとの出会いは

地図上の目的地に達することだけが

旅ではないことをぼくに教えてくれた

自転車で旅を続けていると、何でもないような小さな出会いがたくさんある。時が流れてゆくように、ぼくの旅もまた黄河と共に流れつづける


第二部: 大地にいだかれ働き遊ぶ 《チベットの子供達チベット高原 遊牧の世界で

チベットの人々は仏教徒です。普段はお寺で修行しているムルドゥ君も、小さいながらすでにいっぱしの僧侶の服装をしています。太鼓をたたきながらお経を読んでくれました。

ヒツジやヤクと遊牧ぐらし  燃料あつめや料理もするよ!

夏のチベット高原は、青あおとした草原がどこまでも広がる遊牧の世界です。自転車で旅行していると、ときどき遊牧民のテントや小屋の前を通りすぎます。そのたびにかならず人が出てきて「ちょっとお茶でも飲んでゆきなさい」と誘われます。どこでも犬を飼っていて人が通るとほえるので、好奇心いっぱいの遊牧民たちの家の前を素通りするわけにはいかないのです。

 この日も、立ちよった家に一泊お世話になりました。家族はおとうさんと四人の兄弟姉妹に犬が一匹、それに放牧しているたくさんのヒツジやヤク(牛の仲間)達です。いちばん上のお兄さんは遊牧に出かけていて留守でしたが、ふだんはお寺で修行している十二歳くらいの弟、ムルドゥくんが、ちょうど帰ってきていました。

となりの家までは二十キロ以上、街までは何百キロもはなれています。よその国から人が来るなんて、子どもたちにとっても特別なことです。今まで自転車に乗ったことはないのでしょう、「乗せて乗せて!」とせがまれます。ひとりづつ乗せてうしろから自転車をささえてあげると、目を輝かせ、よろこんで走ります。

放牧の小屋には電気もガスもありません。草原にはたきぎにする木もはえていないので、料理の火をおこすときは、ヤクのふんを乾燥させたものが燃料です。草原に落ちているふんをひろい集めたり、水をくんできたり、料理をつくったりするのも子どもたちの仕事です。

 水は歩いて五分ほどの、琵琶湖くらいの大きさのザーリン湖までくみに行きます。海抜四五〇〇メートル。世界でもっとも高い場所にある湖のひとつです。湖畔には、まるで静かな海のようにさざなみがおしよせてきます。海抜が高いので空の色は深くて濃い青になり、湖もまたとてもあざやかな青色にそまります。

 子どもたちはテレビゲームもおもちゃも持っていませんが、ここには風に揺れる草花やヒツジやヤクもいます。草原も湖もみんな、子どもたちのでっかい遊び場なのです。

十歳と八歳くらいの仲よし姉妹が、夕食に「トゥクパ」というヒツジ肉スープのチベット式うどんを用意してくれました。ふたりで小麦粉をねって、めんをつくるところから始めますから、時間も手間もかかっています。お茶にはバターが入っていて栄養も豊富です。「おいしいね!」というと、姉妹ははにかみながらよろこんでいました。

翌朝、ふたたび自転車で出発しました。しばらく走って小高い丘からふりかえると、草原の中にあの小屋が一軒。炊事の煙がゆらゆらと青い空にのぼってゆき、そのむこうに美しい湖が、きらきらとかがやきながら広がっていました。

チベット高原(チベット文化圏)

ユーラシア大陸の真ん中にある大高原。世界の屋根とも呼ばれ、北はクンルン山脈、南をヒマラヤ山脈に囲まれています。日本の面積のざっと六倍もある広大な高原の海抜は、富士山より高くて平均四千メートル以上あります。空気の密度は平地の約半分しかないので、ちょっと走っただけでも息切れがしてきます。夏の間は草原におおわれて遊牧に適しており、人々は羊やヤクと共に暮らしています。草原にはリンドウや青いケシといった高山植物の花々が咲きほこっています。チベット文化圏の主都はラサ。現在は中華人民共和国の一部となっています。また、インド、ネパールやブータンの一部にもチベット人たちは生活しています。

今回訪れたのは高原の北東部をしめる青海省チベットにある黄河の源流部です。物語に出てくるザーリン湖は、すぐとなりにあるオーリン湖と共に黄河の源流にはめ込まれたふたつの真珠とよばれています。中国を代表する河川である黄河は、草原の中からこんこんと湧き出す小さな泉から始まっています。泉はまるで星空のようにちらばっているので、この源流部は「星宿海」と呼ばれています。

朝日小学生新聞2000年10月11日「世界の子供たち」(朝日学生新聞社)に掲載したものを転載しました。


その他写真用キャプション

 アジアのほとんどの大河がそうであるように、黄河もまたチベットを源流とする。広大な大地の中、黄河のほとりに旅人がひとりと自転車が一台

荒涼たる草原の中を、蛇行しながら幾筋にも別れて流れゆくこのせせらぎが、あの悠久の黄河である。雲が低く垂れ込め、遠く彼方では雨が降り始めていた。そこはまだ、誰も達したことのない崑崙の最奥部に連なる山々だった。

幾つもの泉が湧き出し湿地帯を形成していた。そしてその最初の一滴は、やがて黄河の奔流となって海へと流れてゆく

いくつもの小川を渡渉して、いよいよ黄河の最源流域へ